明日があるさ7【第一話】
12月、寒さも本格的になってきた頃、明日葉護は病院で万歳をして歓喜の涙を流していた。
先々月、階段から転落して右手首を骨折してしまい、一ヶ月半のギプス生活を送っていた。
それが、今日、ようやく外れた。
検査結果も良好だった。
「完全に治ったわけじゃないし、重量物の運搬なんかはまだまだ厳禁だからね」
「はい!」
医者からは厳重注意を受けたが、明日葉はほとんど聞いていなかった。
これでやっと仕事に復帰できる。その喜びしかなかった。
案の定、隣で話を聞いていた会社の後輩兼恋人の亜笠誠一郎は、顔を盛大に顰めて言った。
「護さん、仕事には復帰できるかもですけど、業務は限定しますからね。運搬とか間違ってもやらないでくださいよ」
「えー……」
「悪化させたいんですか」
残念そうな声を出す明日葉に、亜笠は額に青筋を立てた。
骨は治った。だが社畜は治らなかった。
明日葉はしげしげとギプスの外れた手首を眺めた。長らく固定されていたため、動かそうとしても思うように動かない。その上、痛みもある。
確かにこれは通常業務は難しそうだ。明日葉はため息をついた。
看護師から一声かけられ、右手首には着脱可能のサポーターが嵌められた。
亜笠は、具体的には何キロまでの物なら運べるか、細かいことを医者に聞いていた。明日葉はギプスが外れた喜びで浮かれていたので、彼を連れて来て正解だったなと思った。
病院からの帰り道、明日葉は何度か手首を動かしてみたが、やはり上手く動かなかった。その様子を隣で見ていた亜笠が口を開いた。
「今日から自宅でリハビリしないとですね」
先ほど病院で、手首の可動域を戻すための訓練も教わったばかりだった。
「まあ、仕事も明後日から復帰だし、いいリハビリになるでしょ」
「仕事とリハビリは別です」
ピシャリと言われる。そんなやりとりをしながら、二人は青梅の自宅に帰宅した。
明日葉の骨折と同時期に、亜笠は明日葉のアパートへと引っ越し、正式に同棲がスタートした。亜笠が相談もなく自分のアパートを引き払ってくるというかなり強引なスタートではあったものの、今ではすっかり明日葉の生活に馴染んでいた。
台所に立って夕食の支度をする亜笠の後ろで、明日葉は椅子に座って頬杖をついた。
「ようやく仕事復帰だ~」
言いながらスマートフォンを弄る。櫟にもさっそくメッセージを送った。
『明後日から仕事復帰!』
返事はすぐに返ってきた。
『さすが社畜。普通は「ギプス外れた」とかだよ』
だが今の明日葉はそんな嫌味も届かないくらい嬉しかった。
この一ヶ月半仕事を休んでいたが――――暇だった。とにかく猛烈に暇だった。有名な某脱獄海外ドラマを二周踏破したくらい時間が有り余っていた。
一方で、亜笠は明日葉不在の最初の一週間、毎晩死にそうな顔で帰ってきた。ぐったりする亜笠に料理を振る舞うこともできず、明日葉は申し訳ない気持ちになった。おれも出ようか? と言ったら亜笠はさらに疲れた顔をしていた。
「家事も今まで通り僕がやりますから、護さんはくれぐれも無茶しないでくださいよ」
亜笠が包丁を手にしながらそう呟く。明日葉は口を尖らせた。
「大丈夫だって。先生も積極的に動かすようにって言ってたし」
「ある程度はね。あなたはすぐに無茶するから」
亜笠はそう言うとリズムよくキャベツを刻んだ。
「大丈夫だよ。セックスだって出来たし」
亜笠の手が止まった。
「…………それとこれとは話が別です」
「身体を動かすっていう点で言えば――――」
「僕がどれだけ気を遣ったと思ってるんですか」
亜笠の手元が再び動き始める。先ほどよりも刻む力が強くなったような気がした。
骨折後の二週間は患部の痛みもあり、日常生活すら大変だった。亜笠は気を遣って、明日葉が寝るベッド脇に布団を敷いて別々に寝てくれた。
三週間を過ぎる頃には痛みも引け、ギプスの不自由さの方が気になってきた。四週間後、明日葉は亜笠のいない隙を狙って洗濯物を干したり畳んだり、掃除機をかけたり家事をやり始めた。案の定、見つかった時亜笠には怒られたが、手首は全然平気だった。
これならば、と思い明日葉は亜笠に声をかけてみた。
「今日、する?」
最初、亜笠は首を傾げた。何を言っているか本気でわからない、という顔だったので、明日葉は少し照れながらももう一度誘ってみた。
「ほら、骨折してから全然出来てなかったから、セッむぐっ!」
明日葉は亜笠に口を塞がれた。
「何を言い出すかと思えば――――ギプスが外れるまで駄目に決まってるでしょう」
亜笠の顔はほんのりと赤かった。
「僕は全然平気ですから、治療最優先にしてください。いいですね?」
明日葉は亜笠の手をどけて、傍に立つ亜笠の顔を見上げて、言った。
「いや、その――――おれが我慢できないっていうか……」
「…………」
亜笠は珍しく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。明日葉は猛烈に恥ずかしくなった。
「あー、やっぱりいいや! お前がしたくないなら」
「誰もしたくないとは言ってません」
今度は明日葉がきょとんとする番だった。
「したいの?」
「したいです」
明日葉はその返答にほっとして笑った。
「じゃあしようよ」
「――――はい」
亜笠は片手で顔を覆って、頷いた。その日の夜、二人は久々にベッドを共にした。
――――確かに亜笠はかなり気を遣って動いてくれた。明日葉は最中のことを思い出してしまい、照れながら頭を掻いた。
「えー、じゃあ、どうする? ギプスも外れたし、今日する?」
亜笠の包丁がダンッと鳴った。明日葉を振り返る。
「だから!」
「しない?」
お前がその気じゃないなら、という意味を込めて、明日葉は首を傾げて問いかけた。亜笠はしばらく固まった。
「…………します」
包丁を握る手の筋が白く浮いていた。
明日葉はパッと顔を明るくして、お風呂場へと足を運んだ。




