明日があるさ6【第九話】
「右腕の橈骨遠位端骨折だね、要するに手首の骨折ね。骨はズレてないから保存療法でいけるよ。良かったねぇ」
あれから、亜笠がナースコールを押してくれ、病室に壮年の医師がやってきた。医師は呑気にそう告げるとさっさと帰っていった。
頭の傷は4針縫い、骨折含め全治二カ月ということだった。頭を打っているので、念のため今日は入院し、明日MRIを取るとのことだった。
亜笠はさすがにもう泣き止んでいたが、その目は少し腫れていた。
「着替えはどうしますか?」
アパートから持ってきましょうか、と言う亜笠に首を振る。
「もう今日は遅いし、買うなり借りるなりするからいいよ」
明日葉はベッドに腰掛けた。というか今更ながら気が付いたが、ここは大部屋ではなく個室だった。ぐるりと辺りを見回す。頭の傷が少し痛んだ。
「もしかして個室にしてくれたの?」
「いえ、大部屋に空きがなかったそうです」
なるほど、と明日葉は頷いた。亜笠は無表情で淡々と言った。
「明日からは仕事休んでください。事務長には僕から話しておきます」
「えっ!?」
素っ頓狂な声を出すと、亜笠はずいっと明日葉に顔を近付けた。その顔は輝くほどの笑顔だった。目は少しも笑っていなかった。
「頭部を4針、右手首骨折で全治二ヵ月、これでどうやって仕事するんですか?」
「左手があるよ」
「左手だけでどうやって折りコンを持つんです? 入荷物は? 無理ですよね、どう考えても」
「伝票整理とか」
「いい加減にしろ」
ため口を利かれてしまった。明日葉はがっくりと項垂れた。
「とにかくお願いですから、しばらくは大人しくしていてください。今は痛み止めが効いてるから元気でしょうけど、切れてくるとつらいですよ」
亜笠が明日葉の頬をさらりと撫でた。労わるような、優しい指先だった。
「……やっぱり僕、泊まりましょうか」
「えっ、いやいいってば! 簡易ベッドじゃ休まらないだろ、着替えもないし」
「でも……」
心配そうな亜笠に顔を近付ける。明日葉はそのまま亜笠の唇にキスをした。
「護さん……」
「大丈夫、無茶はしないから」
そう言って微笑むと、亜笠はようやく引き下がった。
「明日、迎えに」
「仕事だろ。おれがいないんだから、よろしくな」
「定時で終わらせてすぐに帰りますから。真っ直ぐ帰ってくださいよ」
「わかった」
亜笠は何度も明日葉を振り返った。渋々病室を後にする。
病室のドアが閉まる。
明日葉はしばらくその扉を見つめていた。
「――――さて、と」
そう呟いて、ベッドから立ち上がった。
先ほど亜笠が病院名を口にしていた。ここは立川中央病院――――つまり、我妻の母が勤める病院だ。
明日葉は病室を抜け出すと、ナースセンターに声をかけた。
「すみません、こちらに我妻さんという看護師さんはいらっしゃいますか」
「我妻、ですか?」
「息子さんの知り合いなんです。どうしても少しお話ししたいことがあって……勤務中なら、伝言だけでもお願いできませんか」
看護師は少し困った顔をした後、明日葉の名前と病室を確認した。
「確認してみますので、病室でお待ちいただけますか」
「あ、はい。すみません」
言われた通り病室へ戻って待っていると、しばらくして扉がノックされた。
看護師の制服に身を包んだ、小柄な女性が入ってきた。
「あの、我妻は私ですが――――」
「明日葉と言います。あの……聖司くんのお母さんですよね」
念のため確認すると、女性――――我妻の母は頷いた。
明日葉は少し悩んだ末、詳しいことは伏せたまま、昨日の出来事を簡単に説明した。亜笠と我妻の間に少しだけトラブルがあったこと、そのせいで階段上でもめてしまい、うっかり足を滑らせて自分が落ちてしまったこと――――我妻の母は驚いて聞いていた。
「亜笠のことでちょっと話がしたくて……息子さんって、お家にいますか」
「……それが、帰ってきてから一言もしゃべらずに、部屋にこもってしまって」
我妻の母は心配そうに目を伏せた。
「あの、出来れば明日――――少しお時間いただけませんか」
「え――――」
「聖司くんと、話をさせて下さい」
明日葉の懇願に、我妻の母は戸惑いながらも頷いてくれた。
翌日、MRI検査を終えて異常も見当たらず、明日葉は晴れて自由の身となった。
スーツは血が付いておりとても着られる状態ではなかった。しかも右腕がギプスでしっかり固定されているため、通常の洋服が入らない。明日葉は仕方なく、病院の売店に売っていた骨折時専用のトレーナーを購入した。下はスーツのスラックスに上はトレーナー。アンバランスだが、仕方ない。明日葉は荷物を手に病院を出た。検査やら退院手続きやらで、時刻はすでに16時を過ぎていた。
我妻の母は夜勤明けで午前中に帰宅していた。住所を教えてもらっていたため、明日葉はメモを頼りにタクシーで我妻宅へ向かった。
亜笠に連絡を入れようと携帯を探して、明日葉は舌打ちした。携帯電話は階段から落ちた時に大破して、使用できなくなっていた。
これは帰った時怒られるかも、と明日葉は冷や汗を流した。
そんなことを考えている内に、メモに書かれたマンションが見えてきた。
タクシーを降りて、マンションのエントランスに入る。インターホンで書かれている部屋番号を押すと、我妻の母が出た。一言話すと自動ドアが開いた。
エレベーターに乗り、ドアの前まで歩いていく。呼び鈴を押すと、中から我妻の母が顔を覗かせた。
「明日葉さん……大丈夫なんですか」
額にはガーゼ、右腕を吊った状態の明日葉に、我妻母が心配そうに問いかけてきた。明日葉は笑顔を向けた。
「MRIでも異常なしだったので、大丈夫です」
とは言ったものの、正直腕も頭も先ほどから鈍い痛みがあった。痛み止めが切れてきたのかもしれない。
でも今は、そんなことより――――
「聖司くんは……」
「部屋にいます。今日は、学校にも行ってないみたいで……どうぞ、上がってください」
「失礼します」
我妻の母は真っ直ぐに我妻の部屋へ案内してくれた。
「聖司、明日葉さんがいらっしゃってるわよ」
我妻の母がノックするが、一向に返事はない。
「聖司くん? あの、明日葉だけど――――少し話せないかな?」
「…………」
何度ノックしても部屋の中から返事はなかった。
「聖司? ねえ、本当に何があったの。お願いだからここ開けて」
母親が困り切って声をかけるが、同じだった。明日葉はしばらく扉を見つめた。
「鍵ってかかってます?」
ドアノブを指差しながら問いかける。
「ええ……昨日からずっと」
「そうですか」
明日葉はニコッと微笑んだ。
「お母さん、ごめんなさい。弁償はします」
「え?」
我妻の母を下がらせて、自分も扉から何歩か下がる。
次の瞬間、明日葉はドアノブ付近を思いきり蹴りつけた。
ドンッ、と家中に響くような音がした。
「えっ!?」
我妻の母の驚く声を聞きながら、明日葉は一旦動きを止めた。痛みが体中を駆け巡った。
一度では開かなかったので、もう一回。そう思い、明日葉は再度足を振り上げた。それでも壊れない。もう一度蹴る。二回。三回。その度に身体は悲鳴を上げた。
何度か繰り返すと、バキッという鈍い音と共に、扉が勢いよく内側へ開いた。明日葉は額に脂汗を流しながら、ふっと息を吐いた。
ベッドの上で膝を抱えていた我妻が、怯えた顔を上げた。
「ヒィッ!」
ドアを破った明日葉を見るなり、我妻の顔が引き攣った。
明日葉は部屋に入ると、つかつかと遠慮なく我妻の元に近寄った。
我妻が震えながら後ずさる。
「あ、あ……」
「おーまーえーはー……」
明日葉は、普段からは想像も出来ないくらい低い声を出した。左手を伸ばし、蹲る我妻の胸倉を掴む。
強引に身体を引き起こし、顔を近付けて、叫んだ。
「人の大事な恋人に、何してくれてんだ!!!」
「うっ!」
我妻が瞳に涙を溜めて、呻いた。
ズキズキと痛む頭も、右腕も、今の明日葉には関係なかった。今は、今だけはそんなことはどうでもよかった。
「掴もうとしたのか、突き落とそうとしたのかは知らない。でも打ち所悪くて死んでたらどうするつもりだった!?」
「……っ!」
「落ちたのがおれで、この程度の怪我で済んだからよかったけど、亜笠が落ちて死んでたらどうする気だったんだよ!」
「うっ……う……」
我妻の顔が歪んだ。その大きな瞳から、ぼろぼろと涙が落ちた。
「泣けば済むと思うなよ」
「だって……」
「だってじゃない」
「だって……先生が……」
我妻はしゃくり上げながら、途切れ途切れに言った。
「先生が、あんな顔で笑うから……僕といた時は、あんな風に笑ったこと、なかったのに……!」
我妻の両手が、明日葉の手首を掴んだ。縋るように添えられた手を、明日葉は静かに眺めた。
「なんでだよ」
それは、幼い子供の慟哭だった。
「どうしてみんな、僕じゃ駄目なんだよ……!」
明日葉は何も言わずに、ただ我妻のことを見つめた。掴んでいた胸倉をゆっくりと離した。
解放された我妻はその場に崩れ落ちた。床に膝をつき、顔を覆って泣きじゃくる。
どれだけ偏差値の高い学校に通っていても、全国模試の順位が上でも、大人顔負けの知識を有していても。
我妻聖司は、子供だった。
どうしようもなく傷ついている――――ただの、18歳の子供だった。
明日葉は静かに口を開いた。
「だっても、でももない」
我妻は床に座り込んだまま、肩を震わせた。
「自分が傷付いてるからって、何してもいいわけじゃない。自分のやったことは、ちゃんと認めろ。でないと、後でつらくなる」
我妻は答えなかった。ただただ震えて、声もなく泣いていた。
「謝れなかったことを後悔する日が来る……謝れなかったら、一生許されなくなる」
明日葉は我妻の前にしゃがみ込んだ。頭の傷も右腕もズキズキと痛んだが、明日葉は我妻と視線を合わせた。
「頭がいいから、いろんなことがわかりすぎるくらいわかっちゃうんだろうけど……お前は、まだ本当に子供で……周りもそう扱うべきだったんだ」
その言葉に、後ろで事態を見守っていた我妻の母の身体が揺れた。
明日葉は我妻の頭に、ポンと左手を置いた。
「亜笠のことは突発的なんだろうけど……でも本当に死人が出てたら、取り返しつかないだろ」
目を合わせて、微笑む。
「認めて、謝れ。謝って――――そうしたら、おれ、許せる」
「明日葉さん……」
背後から、我妻の母親が明日葉の名前を呼んだ。
明日葉は振り返らなかった。
「許さないのも、許されないのもつらいよ。おれは、それからどうしたらいいのか考えたい。でないと本当に駄目になるから……お前、ちゃんと、謝りに来い」
明日葉は立ち上がった。俯いて顔を上げようとしない我妻を見下ろす。
「待ってるから、ずっと」
我妻はそのまま、動かなかった。ただ静かに涙を流していた。
「おれが言いたいのは、それだけ――――」
言ってから、明日葉はくるりと後ろにいる我妻の母を振り返った。
「お母さん――――すみません、ちょっと亜笠に連絡してもらえますか」
「はいっ!?」
家庭教師をお願いしていたなら、連絡先は知っているはず。明日葉はそう考えてから、青い顔をしてにこりと微笑んだ。
「痛み止めが――――切れ、て……め、めまいが」
言うのと同時に、足から力が抜けて床に崩れ落ちた。骨折した右腕にビリビリと響く。が、痛いと声を上げている暇もなかった。
「明日葉さん!?」
我妻の母の悲鳴が聞こえて、明日葉はそのまま意識を失った。
「明日葉さん! 明日葉さん、聞こえますか!?」
我妻の母は慌てて明日葉の傍に膝をついた。何度も名前を呼ぶが反応はない。すぐ傍で、我妻は呆然とその光景を見つめていた。
先ほどまで自分を怒鳴りつけていた男が、今は床の上に倒れて気を失っていた。
「聖司!」
母親の声に、我妻の肩が跳ねた。
「すぐに亜笠先生に電話して!」
「う、うん!」
我妻は慌てて立ち上がった。机の上に放り出してあったスマートフォンを掴む。震える指で画面を操作し、連絡先を探した。
家庭教師をしてもらっていた頃の番号は、まだ残っている。数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
『はい、亜笠です』
「あ……せ、先生……」
『聖司くん? どうしました?』
亜笠の問いかけに我妻は喉を鳴らした。何から話せばいいのかわからない。けれど今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「あの! 明日葉、さんが……!」
『――――護さん?』
亜笠の声色が変わった。
「う、うちで……倒れて……」
かなり長い間、沈黙があった。
『…………は???』
我妻が今まで聞いたことのない、素っ頓狂な声だった。
『ちょっと待ってください。どうして護さんが聖司くんの家にいるんですか』
「それは、えっと……僕にもよくわかんなくて……」
『というか倒れたって何ですか。意識は?』
「い、今はないです……」
『…………』
電話の向こうで息を呑む気配がした。
『住所は変わりないですか』
「あ、はい!」
『すぐ行きます』
それだけ言って、電話は切れた。我妻はしばらくスマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた。
視線を床へ落とす。母親が明日葉の傍についていた。
明日葉は青い顔で、目を閉じたままだった。額にはガーゼが貼られている。昨日縫ったばかりの傷があった。
恐る恐る、我妻も傍にしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫……?」
「大丈夫じゃないわよ」
母親は呆れたように息を吐いた。
「頭、縫ってるのよ。この人」
「…………」
我妻は明日葉の額を見た。
昨日、階段から落ちた時についた傷だった。――――自分がつけた傷だった。
我妻の視線がゆっくりと下がった。ギプスで固定された右腕が目に入る。
「腕は……」
「骨折よ」
「え」
「手首の骨。怪我したばかりだもの、相当痛いはずよ」
母親はやれやれといった顔で微笑んだ。
「そんな身体で退院したその足でここまで来て、挙げ句にあんたの部屋のドアまで蹴破って……本当に何考えてるのかしら、この人は」
母の声に責めるような色はなかった。我妻は何も答えられなかった。
明日葉の右腕を見つめた。
昨日は何も考えられなかった。自分の手が亜笠の背に触れて、亜笠の身体が揺らいで、目の前に明日葉が飛び込んできて、気が付いたら階段下で倒れていた。
頭から血を流す明日葉の姿に恐ろしくなって、自分は――――逃げた。
だから、知らなかった。知ろうとしなかった。怖くて、傍に駆け寄ることもできなかった。
震える手をそっと伸ばす。指先が、明日葉の右腕を覆うギプスに触れた。
硬かった。たったそれだけのことだった。
「…………っ」
我妻の顔がくしゃりと歪んだ。ぽたり、と涙がギプスの上に落ちた。
もう一滴。次から次へと涙が溢れて、止まらなくなった。
「聖司……」
「ご、ごめ……」
我妻は明日葉のギプスに触れたまま、しゃくり上げた。
「ごめっ、なさい……」
明日葉は答えない。当然だった。意識を失っているのだから。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
何度も繰り返した。
昨日は言えなかった。さっきだって、言えなかった。明日葉にあれだけ言われたのに、結局、自分は謝れなかった。
今になってようやく、その言葉が口から溢れてくる。
子供のように泣きじゃくる息子を見つめて、我妻の母は小さく息を吐いた。
「バカねぇ」
その声は優しかった。我妻の頭に手を置く。
「ちゃんと意識がある時に謝らなきゃ、ダメじゃない……」
母親の手が、幼い子を慈しむように、柔らかな黒髪をゆっくりと撫でた。




