明日があるさ6【第八話】
「護さん!」
揺らいだ身体に向かって伸ばした手が、宙を掴んだ。明日葉の手から滑り落ちた携帯電話が階段に叩きつけられて壊れる。紺色のスーツを着た身体が、ドンッ、ドン、と何度もバウンドして、一番下まで転がり落ちた。
階下にいた通行人が悲鳴を上げる。亜笠は目を見開いたまま呼吸も出来ずにいたが、肩を掴まれて我に返った。
「亜笠! 明日葉が!」
明日葉に置いて行かれた櫟だった。唐突に駆け出した同僚に虚を突かれ、慌てて追ってきたところだ。
二人で階段を降りると、人だかりが出来ていた。急ぎ割って中に入ると、うつ伏せに倒れた明日葉がいた。
「うっ、頭打ってる……亜笠、ちょっと、ど、どうしよう……!」
傍らにしゃがみ込むと、額の辺りに血だまりが出来ていた。通りがかりの、大学生らしい青年が「大丈夫ですか?」と明日葉の身体をゆすっていた。
「頭打ってる人間揺らすんじゃねぇ!」
背後から若い女性の怒号が聞こえてきて、肩を竦ませる。青年は露骨に嫌な顔をして、そそくさと立ち去った。
「怖ぁ……って亜笠――――亜笠ってば!」
向かいに膝をついた亜笠の顔には、色がない。スマートフォンを持ったまま、呆然と明日葉を見下ろしていた。
「亜笠、救急車呼ばないと!」
「――――っ!」
櫟の声に気付いて指を動かすが、上手くいかないようで何度も繰り返す。舌打ちするその姿に櫟の方が動揺した。スマートフォンを持つ手が一目でわかるほどに震えていた。
常に平静さを崩さない、完璧主義のこの後輩は、仕事上のトラブルでも一切焦った姿を見せたことがない。ベタ惚れなのはわかっていたが、明日葉が負傷したことでこれほどショックを受けるとは思っていなかった。
亜笠の態度を目の当たりにし、櫟自らもまた焦ってしまった。鞄の中に手を伸ばすが、目的のものが一向に見当たらない。と、背広の内ポケットにしまったことをすっかり忘れていた。
取り出して、1、1、9……と、通話ボタンを押す前に、背後から高い声が聞こえてきた。
「救急車だったら呼んだ。5分くらいで来る」
驚いて振り返ると、そこにはスーツにトレンチコートを羽織った、愛らしくも不遜な佇まいの美女がいた。
「愛染さん!」
「お疲れ、櫟、亜笠……と、明日葉も」
彼女は軽い調子で挨拶を済ませると、ストッキングが伝線するのも構わずに地面に膝をついた。明日葉の様子を、間近でしげしげと眺める。
「頭を打ったやつ揺らすとか、近頃の若者は脳味噌足りてないにもほどがあるだろ。謝りもしないで逃げてくし。脳に障害出たらどうしてくれんだ」
「もしかしてさっきの怒鳴り声……」
櫟が問うと、愛染は平然と答えた。
「あたしだけど。――――まったく、この程度で動揺するな。大丈夫だよ、頭の傷は血出やすいからな……脳震盪かなんかで気を失ってるだけだろ」
愛染はそう言って、呆然とする亜笠の肩を二、三度叩いた。
「……護さん、どうして――――」
明日葉を見下ろして、亜笠が呟いた。その様子に愛染が顔を顰める。
「……櫟、何があった」
「えーっと……」
櫟は頬を掻いた。説明しようと口を開く、が、突然隣で膝をついた亜笠が、明日葉の身体に縋り付いたため、話しどころではなくなってしまった。
「護さん――――どうして僕を庇ったりなんか! 何でですか!? やめてください、こんな――――僕を残して死ぬなんて、絶対許しませんよ、護さん!」
「あ、亜笠、ちょっと、揺らすとまずいって!」
櫟は明日葉のスーツを掴んで揺さぶろうとする亜笠を後ろから羽交い絞めにして、必死で止めた。向かいにいる愛染が亜笠の胸倉を掴む。
「だから死なねぇっつってんだろうが! 揺らすな!」
「あ、愛染さん、亜笠もやめて! 対処しきれないから!」
「護さん……っ!」
揉める三人の周囲には人だかりが出来ていた。そこからパシャリといくつかのシャッター音が聞こえて来て、愛染はバッと振り返った。
「誰だァ、写真撮ってんのは! 肖像権とプライバシーの侵害で訴えるぞ!」
小柄な美女の鬼のような怒号に、シャッター音はピタッと止んだ。
その後、愛染の宣言通り救急車はすぐに到着した。
救急隊員のよどみない作業により、明日葉は数分と経たず病院へと連行されていった。
付き添いにはもちろん亜笠が同乗したが、その顔はまるで幽鬼のようだった。
櫟は救急車を見送りながら呟いた。
「大丈夫かなぁ……」
「明日葉は救急隊員に任せておけば大丈夫だろ。どっちかっていうと、亜笠が大丈夫じゃなさそうだな」
櫟も、あそこまで亜笠が取り乱すとは思っていなかった。
「そもそも、何で落ちた?」
「……押されて」
「お前に?」
「僕はそんな怖いこと思いつかないですよ。っていうか別に亜笠に恨みないし」
櫟は肩を竦めながら答えた。愛染が首を傾げた。
「亜笠? 明日葉じゃなくて?」
「亜笠が後ろから押されたのを、明日葉が庇ったんです。それでバランス崩して、ドーン。亜笠も明日葉掴もうとしたんだけど、間に合わなくて」
「犯人誰」
愛染がズバリ言った。櫟は階段を見上げた。愛染も櫟の視線の先を追う。
そこに――――あの高校生は、いなかった。
「逃げたみたい。顔はよく見えなかったけど、あれは桂霖高校の制服でしたね。明日葉も亜笠も顔見知りっぽかったです」
「桂霖……名門だな」
愛染が顎に手をあてて何かを考え込んでいた。
「うん……あの、愛染さん、もしかして犯人探すとか言い出さないですよね」
「しない」
即答にほっとしたのも、束の間だった。
「そんな一から犯人探しなんて面倒くさいこと。明日葉が意識取り戻し次第、名前と顔・身体的特徴を把握して速やかに私的制裁を与える」
この人ならやりかねない、と櫟は震えた。が、自分にはそんなに関係がないのであとは明日葉と亜笠に任せよう、と、櫟は瞬時に自己保身に走った。
ふと気になっていたことを聞いてみる。
「愛染さん……この間のお見合いどうでした?」
愛染の眉間に深い皺が刻まれた。
「浮気したら切ってもいいですかって言ったらその場で断られた」
「そうですか……」
何を切るんだろう、と思ったが、そこまでは言わなかった。
殺気立った愛染を宥めつつ、二人は駅構内に向かった。
櫟は降りてきた階段を昇り、広場を見回した。
あの少年は、どこにもいなかった。
(逃げると――――余計に、つらいだけなんだけどなぁ……)
誰ともなく、心の中で呟いた。
明日葉が目を覚ますと、そこは知らない天井だった。
ぼんやりと瞬きを繰り返す。はっきりしてきた視界で、目だけを動かして周囲を見る。周りがカーテンで仕切られていて、少しばかり薄暗かった。
頭の下の枕の感触に、自分がベッドに寝かされていることにようやく気が付いた。
身体が重い。頭もぼうっとしている。右腕に妙な違和感があって動かそうとした瞬間、鋭い痛みが走った。
「いっ……」
顔を顰めて右腕を見ると、ギプスで固定されていた。額の辺りもズキズキと痛む。左手で触れてみると、額にガーゼが貼られていた。
いつの間にか、着衣がYシャツではなく入院着になっていた。
(あれ、おれ……何で……何があったんだっけ……)
霞のかかった頭で記憶を辿ろうとした、その時だった。
「気が付きましたか」
亜笠の顔が視界に入ってきた。亜笠はベッドの傍らに立って、明日葉の顔を覗き込んでいた。
その姿に、明日葉の記憶が繋がった。
「あ、おれ……階段から、落ちて」
揺らいだ亜笠の背中。その背中に必死になって手を伸ばしたこと、捕まえてその場に引き倒したこと、そこから階段を踏み外して落ちたこと。
一気にフラッシュバックした。
横にいる亜笠を見る。目に見える怪我などはなさそうだった。
「誠一郎……よかった、無事で……」
明日葉がそう言うと、亜笠の身体がビクリと震えた。
「護さん……」
震える声で、名前を呼んだ。
明日葉は亜笠の顔を見て、目を見開いた。
「あなたは、どうしていつも、そう――――」
ボロボロと、大粒の涙が亜笠の瞳から流れていた。
亜笠がこんなふうに泣くところを、明日葉は初めて見た。
「どうして人のこと庇って、自分を放り出すんですか……。人のこと守る前に、まず、あなたがちゃんと自分自身を守ってくださいよ。見ていて、こっちの心臓が縮む……」
掠れた声でそう言って、亜笠は自分の胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「あなたが死んだかと……死ぬかと思った……っ!」
「誠一郎……」
明日葉は何も言えず、泣いている亜笠を眺めた。
落ちた後の記憶が自分にはない。いまいち、実感がわかなかった。
それでも、亜笠に恐怖を与えたことには変わりない。
「ごめん」
明日葉の短い謝罪に、亜笠の身体が震えた。
「……っ!」
泣きじゃくる亜笠に、手を伸ばしたかった。右腕のギプスがもどかしかった。
「もう、やめてください……こんな、自分を犠牲にすることは……」
「おれ……そんな高尚な人じゃないよ……」
明日葉は困ったように笑った。
「おれはいつも、自分の思った通りにしてきただけだよ。その中にはちゃんと自己保身だって含まれてる……周りの人、傷つけてばっかりだ」
ぽつりと呟いた。
亜笠は泣きながら、明日葉を見つめた。
「でもそれ以上にあなたはいつも傷ついてます」
心の中を見透かしたような指摘に、明日葉は口をつぐんだ。
「ズタボロで、それでも自分の傷なんて気にしないで、人の傷ばっかり気にして、自分のこと投げ出してばかりで……」
亜笠の声が、また震えた。
「だから僕は、いつも、あなたを守りたくて仕方なかった……」
そんなつもりはなかった。
誰かのために自分を犠牲にしているつもりなんて、一度もなかった。自覚があればあったでそれも嫌な話だ。自己犠牲に酔っているみたいで気持ちが悪い。
ただ、その時その時で、自分がそうしたいと思ったから、そうしてきただけだ。
それでも、結果的にそう見えているなら、これまで走り回って、悩んで、苦しんで、時には間違えたことも――――少しは報われるのかな、とも思った。
亜笠は手の甲で涙を拭いながら、言った。
「でも、実際は、僕が守られてばっかりだ」
泣き濡れた顔で、弱々しく笑った。
「名前の通りですね」
明日葉は目を丸くした。こんな弱々しい笑顔を見せる男だったかな、こいつは。
いつも自信満々で、妙なところで図々しくて、押しても引いてもびくともしないくせに。
今だけは、ひどく頼りなく見えた。
不思議と胸の奥が温かくなった。
「初めて言われた」
「え?」
「名前。初めて褒められたかも」
護という名前は、小さい頃はからかいの対象だった。お前が誰を守るんだ、お前に守れるものなんてあるのか、と。
明日葉は思わずくすくすと笑った。笑った振動が右腕に響き、ひどく痛んだ。
「痛っ……いててて……」
「護さん、大丈夫ですか」
「うん、大丈夫……」
頭も痛い。腕も痛い。背中も腰も、身体のあちこちが痛む。
それでも笑いが込み上げた。
ただ純粋に、嬉しかった。
明日葉はしばらく笑ってから、もう一度亜笠を見た。
「お前は元気そうだね」
亜笠も笑った。
泣きながら、それでも笑ってくれた。
「どこが。今にも死にそうですよ」
「あはは……そっか」
ひとまず、無事で何より。
亜笠はちゃんとここにいる。自分の傍で泣いて、怒って、笑っている。
それだけで明日葉には十分だった。
明日葉は目を細めた。
誠一郎――――ありがとう。守られてるよ、おれは。いつも、お前の優しい気持ちに。




