明日があるさ6【第七話】
話し合いは無事に終わり、明日葉と亜笠はそろって我妻を駅まで送っていった。我妻は改札で一度立ち止まると、こちらにぺこりと頭を下げてから、ホームへと入っていった。
亜笠の言う、礼儀正しい素直な良い子――――たしかにその通りだった。
その帰り、二人はなんとなく真っ直ぐ帰る気になれず、近所の公園に来ていた。
池の近くのベンチに腰掛けて、明日葉は大きく身体を伸ばした。
「まさかお前の教え子とはなぁ」
池を泳ぐ鴨を眺めながら呟いた。隣に座る亜笠が小さく息を吐いた。
「僕も驚きました」
無表情の横顔を眺める。相変わらず、うっとりするほど綺麗な顔だった。少し伏し目がちな瞳。色素の薄い睫毛が陽の光にあてられてキラキラとしていた。
明日葉は自分の膝の上で頬杖をつきながら、苦笑した。
「でも……まあ、お前に懐くのはすごくよくわかるよ」
「そうですか?」
「慶應生でかっこよくて家事も勉強も出来る優しいお兄さん、そりゃあ憧れるって。取られたくないって気持ちもわかるよ」
「出来ることをしただけです」
亜笠が当然という態度で言った。明日葉は笑った。
「そういうとこだと思うよ」
二人の足元をヒョコヒョコと鳩が歩いていた。明日葉が足を動かすと、トトトッと逃げていく。
明日葉は声のトーンを落として、言った。
「――――でも、少し心配だな、あの子」
亜笠も前を見たまま頷いた。
「はい……」
相変わらず無表情だが、どことなく影がある顔だった。
「聖司くんは……あの頭の良さですから、いろんなことがわかりすぎて、当時からつらそうでした」
明日葉は黙り込んだ。頭の悪い自分にはわからない悩みだった。
「こんなことになって……家庭教師失格ですね」
亜笠が深いため息をついた。
彼にしては珍しく――――本当に珍しく、落ち込んでいるようだった。
それもそのはずだ。自分が教えていた子がプチストーカー化したら、責任を感じるだろう。人一倍責任感の強い彼のことだ。自分が家庭教師をしなければ、と思っているのかもしれない。
明日葉は亜笠を励ます言葉が見つからず、黙って視線を動かした。
視線の先には飲み物などを売っている小さな売店があった。あるものを見つけて、亜笠に一言言って席を立つ。
代金を支払い、袋を手に亜笠の元へ戻った。
「亜笠、手出して」
「はい?」
明日葉がニコニコしながら言うと、亜笠はきょとんとしながらも手を差し出してきた。袋の中身――――穀物類がまとめられたそれを、亜笠の手に乗せる。
その瞬間、周囲を歩いていた鳩が餌をめがけて一斉に集まってきた。
「うわっ!」
亜笠が驚いて声を上げる。明日葉も同じく餌を手に乗せた。気付いた鳩が集まってくる。明日葉も声を上げた。
「うわ~来た来た」
二人で一緒に鳩まみれになった。
「あはは、鳩の足って意外にあったかいのな。見て見て、肩にも乗ってる」
餌を乗せた手だけでなく、腕から肩まで鳩が止まっている。明日葉は羽毛のくすぐったさに笑った。
「かわい~な~」
亜笠に向かって微笑む。
明日葉をじっと見つめた後、彼はおもむろに立ち上がって明日葉に顔を近づけてきた。そのままキスされる。鳩で動けない明日葉はされるがままだった。
「なっ何すんの!?」
唇が離れてから抗議する。
「かわいいのはどっちですか、まったく……」
亜笠は顔を赤くして、困ったように呟いた。
明日葉の頭の上に乗った鳩が、クルクルと鳴いた。
これで事件は解決かと思われた。
我妻も自分のしたことを認め、もう二度と後をつけたり、綾に連絡したりはしないと約束した。亜笠もまだ心配そうではあったが、あとは時間が解決するだろうと、そう思っていた。
数日後――――会社の昼休憩時、明日葉は倉庫の詰所でお弁当を食べながら携帯を見ていた。
「亜笠ぁー」
気の抜けた声で呼ぶと、隣の席で同じお弁当を食べている亜笠がこちらを見た。
「愛染さんが、今日櫟と四人で飲みに行かないかって。立川駅待ち合わせで」
「いいですよ」
明日葉は弁当箱を片付けて席を立った。
「おっけー、じゃ櫟にも聞いてくる」
二階の事務所へ向かう。櫟は自席でおにぎりを齧っていた。背後から肩を叩いて今日飲みに行かないかと尋ねると、「いいよ」とあっさり返事が返ってきた。
「じゃ、終わったら一緒に行こうよ」
「了解。愛染さん最近機嫌悪いからなあ。何かあった?」
「知らない。またお見合い断られたのかな?」
明日葉の悪気のない疑問に、櫟が目を輝かせた。
「今日聞いてみよっと」
「お前ってほんと怖いもの知らずだよね」
「お前ほどじゃないよ」
相変わらずの軽口を交わして、明日葉は詰所へ戻った。愛染に了承のメールを送りながら扉を開ける。
亜笠はすでに弁当を食べ終えていた。空になった弁当箱を片付けるでもなく、スマートフォンの画面をじっと見つめている。眉間にはわずかに皺が寄っていた。
「どしたの?」
明日葉が声をかけると、亜笠は顔を上げた。
「その……聖司くんから、連絡が」
その名前に明日葉は目を丸くした。
「何て?」
「今日、少し話したいと」
亜笠は顎に手をあてて考え込んでいた。
先日の話し合いでは、最後まで明日葉に対してはふて腐れた態度を崩さなかったものの、亜笠には素直に謝っていた。改札で別れる時にも、きちんと頭を下げて帰っていった。
改めて亜笠に話とは何だろうか。首を傾げる明日葉に、亜笠が言った。
「すみません。飲み会の前に少しだけ話してきてもいいですか。待ち合わせは立川駅前なので」
明日葉は頷いた。
「いいよ。他の二人にも言っとくね」
「ありがとうございます」
亜笠はそう言って弁当箱を手に流しへ向かった。
明日葉は少し気になったものの、詰所の内線が鳴り出したので意識がそちらに持っていかれた。急配が入ったので急ぎ伝票を取り現物を取りに倉庫へ行く。
明日葉は、それ以上深く考えなかった。
黙々と仕事を捌き、時刻はあっという間に定時を過ぎた。
明日葉はまだ明日の朝一番に出る出荷分のピッキングを行っていた。急配が入ったせいで、自分の業務が後ろにずれ込んでいた。
スーツに着替え終わった亜笠が顔を見せる。
「護さん、帰れそうです?」
「もう少しかかる。先に行ってていいよ、聖司くんと約束してるんだろ?」
亜笠が顔を曇らせた。明日葉は首を傾げた。
「どうした?」
「いえ……できれば、一緒にと思ってたので」
明日葉は無言で亜笠の頭を撫でた。
「何するんですか」
髪の毛をぐちゃぐちゃにされた亜笠が抗議する。明日葉は八重歯を見せて笑った。
「聖司くんはきっとお前と二人で話したいだろうから、先に行ってて。おれも終わったらすぐに行くから」
そう言うと、亜笠は憮然としつつもその場を後にした。
乱された髪を手櫛で直しながら歩いていく背中を、明日葉は笑って見送った。
ピッキングを終えて詰所で着替えていると、ひょこっと櫟が姿を現した。
「あれ、お前先に行かなかったの」
明日葉は櫟に声をかけながら、作業着を脱いでロッカーにしまった。櫟はすでにバックパックを背負って帰り支度をしていた。
「システムの不調でちょい残業してた。亜笠は?」
「用事があって先に行った」
「あ、そう。僕ももう終わったから行けるよ」
明日葉もバックパックを背負う。ロッカーを締めて頷いた。
「じゃ一緒に行こう」
立川駅で合流する頃には話し終わってるかな、と、明日葉は呑気に考えていた。
立川駅に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
改札を抜けた亜笠は、駅前のタクロス広場近くに向かった。
見回すと、我妻はすでに来ていた。手には学校指定の鞄を持ち、制服姿で階段の近くに立っていた。亜笠を見つけると、はにかんで片手を上げた。
「先生」
「待たせてすみません、聖司くん」
亜笠が小走りに近寄ると、我妻は首を横に振った。
「いえ、僕が急に呼んだので」
我妻の頬は、わずかに紅潮していた。
「それで、話というのは?」
亜笠は単刀直入に聞いた。我妻は少し俯いて、しばらく黙り込んでしまった。
亜笠は急かさずに待った。
駅のざわめきが二人の間を通り抜けていく。見ると、広場では大学生らしき集団が楽器ケースを抱えて立っていた。何かイベントでもやるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えた。
我妻は何度か口を開きかけて、閉じることを繰り返した。
やがて我妻は、意を決したように亜笠を見上げた。
「先生」
「はい」
「僕――――先生のことが、好きです」
亜笠は瞳を見開いた。
「ずっと好きでした」
我妻の手は、小刻みに震えていた。
「家庭教師に来てもらってた時から、ずっと。先生が来る日だけが楽しみで……」
中学生の我妻は――――仕事に行く母をいつも笑って見送っていた。
母親が忙しく、精神的にも無理をしていることを感じ取っていた。頭の良い彼は、母に迷惑をかけまいと必死に頑張っていた。
亜笠の前で、彼はいつも泣いていた。
兄に会いたいと。けれど母には言えない、と。
母の前で泣けない分、自分の前では泣けるようにしようと、そう思った。甘える場所がないのなら、出来る限り自分が助けになろうと。
亜笠にとって我妻は、幼い弟のような存在だった。
「聖司くん……」
「綾さんって彼女がいるならって諦めてました。でも――――先生が、男の人も大丈夫なら……」
我妻は、真っ直ぐに亜笠を見つめた。
「僕と付き合ってください」
長い沈黙の末、亜笠はようやく口を開いた。
「君はまだ、学生です」
かわいい教え子だった。出来る限り、傷付けたくはなかった。
「もう大人です!」
思いのほか強い声に、亜笠は目を瞬いた。
「18歳です。もうすぐ高校も卒業する。大学だって決まってる。先生が心配するような子供じゃありません」
「……そうですね」
「だったら――――」
「僕の言い方が良くなかったですね」
亜笠は我妻の言葉を遮った。小さく息を吐く。
学生だから付き合えない。そう言ってしまえば、卒業すれば可能性があるようにも聞こえる。
そんな期待を持たせる方が、ずっと残酷だった。
「学生だからじゃない」
我妻が黙る。亜笠は目を伏せて言った。
「僕には好きな人がいます」
「……明日葉さんですか」
「はい」
即答した。我妻の顔が歪んだ。
「僕じゃダメですか」
「――――はい」
静かに、だがきっぱりと告げると我妻は拳を震わせた。
「なんで……どうしてあの人なんですか!」
我妻の声が震えた。
「何で、あんな頼りなさそうな……頭の悪そうな人、どこがいいんだよ!」
その言葉に、亜笠の指先がピクリと動いた。
我妻が自分にどんな言葉をぶつけようと、構わなかった。恨まれても、嫌われても仕方がないと思っている。
けれど、明日葉は違う。
「僕のことはどう言ってもいい。でも護さんのことをそんな風に言うのはやめてください」
先ほどより低い声だった。
我妻は一瞬怯んだものの、すぐに食い下がった。
「だって――――先生ならもっと、いくらでも……」
「いますよ」
亜笠は静かに遮った。我妻が目を見開く。
「僕より格好いい人も、頭のいい人も、優しい人も、たくさんいます。護さんより君の方がいいと思う人間だって、たくさんいるでしょう」
「だったら!」
「でも、僕にとっては違います」
亜笠は迷わなかった。
どうして明日葉なのか。
そう聞かれても、きっと上手く説明することはできない。
馬鹿みたいに仕事に真面目なところ、困っている人間を放っておけないところ、自分のことには無頓着なくせに、他人のことばかり心配するところ――――くしゃくしゃの髪も、笑った時に覗く八重歯も、時折ひどく幼く見える表情も。
そのすべてが、亜笠には愛おしかった。
好きなところならいくらでも挙げられた。
けれど、それらを並べたところで、なぜあの人なのかという問いの答えにはならない気がした。
ただ、自分には、彼だった。
自分がこの先を共に生きたいと思ったのが、明日葉護という、その人だった。
「僕にとっては、護さんが世界でたった一人の相手なんです」
その言葉に、我妻がきつく唇を噛み締めた。
「護さんより君がいいと、そう思う人間はたくさんいる。君もそういう相手を見つけるべきです」
残酷なことを言っている自覚はあった。
誰かを好きになることも、好きになった相手から同じように想ってもらうことも、自分の意思だけでどうにか出来るものではない。
そんなことは、亜笠自身がよく知っている。
駅で偶然見かけた男を忘れられず、もう一度会いたいというだけで仕事まで辞めた。ようやく見つけたと思えば、その男には忘れられない相手がいた。それでも諦められず、何度拒まれても傍にいた。
だから、「別の誰かを見つければいい」などという言葉が、どれほど難しいことなのかはわかりきっていた。
それでも、他に言えることはなかった。
自分が我妻の気持ちに応えることだけは、出来ないのだから。
亜笠は正直だ。仕事上は話が別だが、プライベートではお世辞すら言わない。自分の思いははっきりと告げる。相手のためを思って、それがどんなに残酷なことでも。
だが、そうした誠実さが、相手の胸を鋭く抉ることもある。
――――今回ばかりは分が悪かった。本人の主張通りに、大人として対等に扱ったことが裏目に出た。
感情まで割り切れるほど、彼はまだ、大人ではなかった。
「もう、いいですか……」
亜笠の言葉に我妻は答えなかった。亜笠はそのまま背を向けて、ロータリーへ続く階段を降りようと足を踏み出した。
「……いかないで」
我妻の小さな声は、街の雑踏に掻き消された。
階段を下りる背中に、その手が伸びた。
櫟と共に駅に降り立った明日葉は、亜笠との待ち合わせの場所まで歩いていた。
ふと聞き慣れた声が耳に入ってきて、明日葉は携帯を見ていた顔を上げた。
数メートル先にその姿を見、首を傾げる。
「あれ……」
見ると、亜笠が我妻と話し合っているところだった。
「あれって、もしかして亜笠?」
隣を歩いていた櫟も気付いたようで、明日葉を小突いてきた。
二人ともさすがに声を荒げてはいないが、我妻の方は幾分興奮しているように見えた。
「なんか雰囲気悪いけど、大丈夫なの? 知り合い?」
櫟が明日葉に問いかける。
明日葉は我妻の興奮した様子に、少し嫌な予感がした。
櫟は興味津々だったが、まさかプチストーカーされていたとも言えない。
「知り合いなんだけど……最近ちょっといろいろあったっていうか……」
「何、オヤジ狩り?」
「違うわ」
軽口をたたく櫟に顔を顰めた。
我妻と亜笠に向き直る。
「――――まさかあいつ、あんな子供相手に辛辣なこと言ってんじゃないだろうな……」
「相手生意気そうだし、いいんじゃない? 終わったっぽいし」
「あ、ホントだ」
亜笠が話し合いを終えて階段へ向かったので、明日葉は声をかけようと携帯を持った手を挙げた。
その時――――亜笠の背中に伸びた手を、見た。
普段はあんなに反応の鈍い身体が、頭で命令するより先に動いた。櫟の制止も無視して、駆け出す。
白い手に押されたその背中、仕立ての良いであろうグレーのスーツを無我夢中で掴んだ。バランスを崩した身体は重くて、それでも必死で後ろへ引っ張った。
そこまでは、良かった。
「護さん!」
階段に倒れ込んだ亜笠と、目が合った。
が、次の瞬間、視界がぐるりと回った。
「え」
階段を踏み外したのはわかったけど――――ここから体勢を戻すなんて、どんなに運動神経が良くても無理だろうと、他人事のように思った。




