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明日があるさ  作者: いぬまた
第六章
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明日があるさ6【第六話】






 意外なことに、明日葉をストーキングした犯人も、綾にメールを送った犯人もすぐに見つかった。どちらも同じ人物だった。

 夕食を食べ終えると、亜笠は自分のスマートフォンを取り出した。

 一枚の写真を表示して、換気扇の下でタバコを吸う明日葉に差し出してくる。

「この子じゃありませんか?」

 そこに映っていたのは、今よりも少しばかり若い亜笠と、今日見た時よりずっと幼い――――あの少年だった。二人が寄り添って、笑顔で映っていた。

「あ、この子だ」

 呟くと、亜笠が深いため息をついた。

「名前は我妻聖司(あづま せいじ)くん。僕が大学生の頃に二年ほど家庭教師をしていた子で――――当時はまだ中学二年生でした」

 亜笠は連絡先に登録されている少年のメールアドレスと、昨日綾から転送されたメールの送信元を見比べた。

 ――――同じメールアドレスだった。

「今は桂霖(けいりん)高校の三年生です」

 桂霖高校というと立川市の有名進学校だ。確か制服は紺のブレザーだった。

「家庭教師……だから先生って呼ばれてたんだ?」

 明日葉の言葉に亜笠が頷いた。明日葉は恐る恐る聞いた。

「ちなみにどちらの大学にいたんですか……?」

「慶應理工の生命情報学科にいました」

 明日葉は頭を抱えた。うわぁ、聞きたくなかった。自尊心が潰されそうだ。でも同時に誇らしくもある。複雑な気分だった。

「一体何にダメージを受けてるんですか?」

「いや、まあ、うん。それだけ優秀なら家庭教師もできるでしょうね……」

 亜笠は照れたように微笑んだ。

「僕より優秀な人はごまんといますよ――――在庫管理ではスパコン並みの人もいますしね」

 明日葉はそっぽを向いてタバコの煙を吐いた。耳が少し熱かった。

 亜笠がスマートフォンの画面に目を落とした。先ほどの写真をもう一度表示して、しばらく眺める。

 写真の中の我妻は、今よりもずっと幼かった。隣に立つ亜笠もまだ大学生で、今より少しだけあどけない。二人ともカメラに向かって笑っていた。

 亜笠がわずかに眉根を寄せた。

「聖司くんの家庭は――――少し、複雑で。基本的にはお母さんと二人暮らしなんですが、お父さんは……別に家庭を持っていて、別宅で暮らしているんです」

「それって、まさか……」

 明日葉が言い淀むと、亜笠が頷いた。

 亜笠は話を続けた。

 聖司は医師である父と、看護師である母の間に生まれた子で、当時父親には別に家庭があった。だが、聖司が生まれて間もなく本妻が亡くなり、父は聖司の母と再婚した。母と聖司は父の家に入り、そこで腹違いの兄と暮らすようになった。聖司は年の離れたその兄にとても懐いていたという。

 しかし数年後、父親はまた別の女性と関係を持った。結局両親は離婚し、聖司は母親とともに家を出ることになった。

「僕が家庭教師を始めたのは、ちょうどその頃です。離婚したばかりで、聖司くんもよく泣いていました。お兄さんと、本当に仲が良かったそうです」

「そうだったんだ……」

「家庭内も大変そうで……お母さんが立川中央病院で看護師をされてるんです。夜勤で聖司くんが家にひとりになることも多くて、よく勉強を教える合間に家事を手伝っていました」

 亜笠ならやるだろうな、と明日葉はひとりごちた。彼はそういう人間だ。困っている人を見たら、手助けせずにはおれない性質だ。

「聖司くんは、少し不安定なところはあったけど、頭がすごく良くて――――礼儀正しくて、素直ないい子でした」

 そう言って、亜笠はもう一度写真に目を落とした。その横顔には怒りよりも困惑の色が浮かんでいた。

「だから、余計にわからないんです」

「何が?」

「どうしてこんなことをしたのか」

 二年近く勉強を教えて、高校受験まで見届けた教え子だ。きっとそれなりに思い出もあるのだろう。

「とりあえず本人に話を聞いてみます」

「大丈夫なの、直接話して」

 明日葉としては少しばかり心配だった。自分を尾行したこともそうだが、わざわざ二人の写真を撮って綾に送りつけた理由がわからない。

 けれど亜笠はすぐに頷いた。

「僕の教え子ですから」

「そっか」

 明日葉も煙草を咥えたまま、写真を覗き込んだ。

 画面の中の少年は、昨日自分を睨みつけていた人物と同じとは思えないほど、無邪気に笑っていた。

 まあ、亜笠がそう言うのならと、明日葉はそれ以上何も言わなかった。

「そんなことより――――」

 と、亜笠が真剣に言葉を区切った。明日葉は何だろうと眉根を寄せた。

「今日もしますか?」

 ニコリと微笑まれる。明日葉はタバコをもみ消して灰皿に入れた。

「明日仕事じゃん……」

「護さんがしたくないなら我慢します」

 そう言われると明日葉は弱かった。しばらく考え込んでから口を開く。

「…………一回だけね」

 その返事に、亜笠はいそいそと風呂場に向かった。明日葉はため息をついた。

 そんな後ろ姿さえ愛おしいと思うのだから、今の自分は相当重症だ、と。

 案の定、その日の夜は一回では終わらなかった。






 亜笠は我妻に連絡を取り、改めて話し合いの機会を設けた。

 翌週の土曜日、明日葉は台所のテーブルを拭きながらぼやいた。

「なぜまたおれの家で……」

 ぶつぶつと言っていると、亜笠は一言謝ってきた。

「綾さんのことを他に漏らすわけにはいきませんから」

 確かに、言われてみればその通りだった。明日葉は口を噤んで、冷蔵庫から箱を取り出した。

 我妻が甘いものが好きだと亜笠から聞いていたので、明日葉は近所の製菓店へ行きいくつかケーキを購入していた。

「そろそろ来る頃だよね?」

 亜笠は問いかけに頷いた。ケーキを一つずつ皿にのせて、フォークを添えてテーブルに置いておく。

 そこでちょうど玄関の呼び鈴が鳴った。亜笠が玄関に出る。

「いらっしゃい、聖司くん」

 ドアを開けると、そこには暗い顔をした、制服姿の我妻が立っていた。

「……こんにちは」

「久しぶりですね。元気にしてましたか」

 亜笠がそう言って微笑むと、我妻の顔がにわかに明るくなった。

「はい……先生も、元気そうで」

 亜笠は頷くと我妻を室内に招き入れた。我妻を椅子に座らせ、お茶の用意をする。

「こんにちは、聖司くん。明日葉です、よろしくね」

 明日葉が声をかける――――が、我妻はチラリとこちらを見ると、目を伏せて黙り込んだ。気まずい空気が流れる。

「こ、この間はタックルしちゃってごめんね。怪我なかった?」

「…………別に」

 我妻はムスリとして、それだけを口にした。明らかに亜笠の時と態度が違っていた。

(めちゃくちゃ嫌われている……)

 明日葉は少し寂しい気持ちになった。

 亜笠が紅茶が入ったカップを3つテーブルに並べる。我妻の向かいには亜笠が、明日葉は二人の横に折りたたみ椅子を置き、そこに腰を下ろした。

「あの、良かったらこれ」

 そう言って我妻にケーキを差し出す。チーズケーキ、ガトーショコラ、ショートケーキが3つ並んでいた。

「好きなの食べて」

 明日葉がおずおずと話しかけると、我妻はぷいと顔を背けた。

「……子供扱いしないでください」

 明日葉の額に青筋が浮いた。いや、お前まだ未成年だろうが。思ったが唇を噛んで耐えた。

 亜笠を見ると、明らかに困惑していた。

「聖司くんが甘いものが好きだって言ったら、護さんが買ってきてくれたんです。良かったらみんなで食べましょう」

 我妻はチラリとケーキを見た。

「……いただきます」

 そう言ってショートケーキに手を伸ばした。明日葉と亜笠はほっと息を吐いた。

「今日は学校だったんですか?」

 土曜日なのに制服姿の我妻に、亜笠は首を傾げた。その言葉に、明日葉は前回会った時も日曜だったのに制服姿だったな、と思い出していた。

「午前中に推薦入試向けの小論文指導があったので」

 はにかんで我妻が言った。いただきます、と言ってお茶に口をつける。

「指定校推薦の校内選考にはもう通ってます。推薦枠は決まってるんです」

「大学はどこに?」

「慶應です」

 横でお茶を飲んでいた明日葉は噴き出しそうになった。

 お前もかい! とツッコみたかったが、ぐっと耐えた。

「創薬の研究がしたくて……先生と同じ、理工学部です」

「意外です。聖司くんの学力なら東大も目指せるでしょうに」

 亜笠の褒め言葉に、聖司が照れたように笑った。

 明日葉はじとっとした目で亜笠を見た。いや、お前も笑ってる場合じゃない。気付け、お前に憧れてるんだよこの子は。

 二人の雑談を聞きながら明日葉はケーキを頬張った。

 亜笠はしばらく我妻の様子を見ていたが、やがて静かに口を開いた。

「聖司くん。今日は、いくつか聞きたいことがあります」

 我妻は空気を察したのか、口を閉ざして少し俯いた。

「綾さんにメールを送ったのは、君ですね」

 我妻の肩がわずかに揺れた。

「メールアドレスも同じでした。写真を撮ったのも君ですか?」

「…………」

 我妻は黙っていた。

「聖司くん」

 亜笠の声は、責めるような声ではなかった。教師が生徒に問いかけるような、穏やかな声音だった。

 家庭教師時代を思い出したのか、我妻は膝の上で拳を握り締めた。

「はい……僕です」

 小さな声だった。

「写真も?」

「はい」

「どうして、そんなことを……」

 我妻は答えなかった。亜笠は急かさずに待った。明日葉も口を挟まず、湯気を立てる紅茶に手を伸ばした。

 しばらくして、我妻がぽつりと言った。

「……綾って人が、先生の恋人だと思ってたから」

 亜笠が目を瞬いた。

「どうして綾さんのことを?」

「恋人がいるって言ってたじゃないですか」

 家庭教師時代のことだろう。亜笠が頷いた。

「名前までは聞いてなかったけど……先生の携帯に、よく『綾』って名前が出てたから」

 亜笠の眉根がわずかに寄った。

「……見たんですか?」

 我妻はさらに俯いた。

「先生が料理してる時に、携帯……ちょっとだけ見ちゃって」

 明日葉は思わず亜笠を見た。亜笠は怒るというより、困惑していた。

「それで綾さんの連絡先を?」

「……自分の携帯に転送しました」

「聖司くん」

 亜笠の声のトーンが少し下がった。我妻は唇を噛んだ。

「……僕にも、上手く説明できないんです。どうして、そんなことをしたのか……」

 明日葉はその時、ああ、と思った。我妻の気持ちを、明日葉は悟った。

(――――好きなんだ、この子。誠一郎のこと……)

 明日葉は胸のあたりがぎゅっと締め付けられるように痛くなった。

 それは同じ男に恋をする人間の直感だった。

 惚れた欲目だと言われれば、そうかもしれない。ただ、明日葉のような明確な恋心ではなくても、少なくともそれに近い好意をこの子は亜笠に持っている。そう感じた。

 亜笠は我妻を責めなかった。ただ我妻が途切れ途切れに話す言葉に、静かに耳を傾けていた。

「それから……駅で、先生とその人がキスしてるところ見て……どうしてって。先生、綾さんって彼女がいたのに」

 明日葉は亜笠と顔を見合わせた。どうやら我妻は、綾という名前から女性だと思い込んでいるようだ。綾のためにも、この思い込みは訂正しない方がいいだろう。明日葉は亜笠を見ながら小さく頷いた。

「どうして男の人とキスしてるんだろうって思ったら……写真に撮ってました」

「どうして、今になってそれを綾さんに送ったんですか」

 我妻が鞄から一通の封筒を取り出した。金の箔押しがされた美しい封筒は、我妻聖司宛になっていた。

「最近になって――――兄さんから、結婚式の招待状が来たんです」

 亜笠と明日葉は、黙ってその封筒を見つめた。

「寂しくて、先生に会って話がしたかったんです。立川駅で待ち伏せして、先生を見つけて……家まで行きました。会って、話したくて。でもどうしてもチャイムが押せなかった。そのうち先生が荷物を持って出て来て――――ここに、来たんです」

 我妻の身体は小刻みに震えていた。

「この人に会って、先生……見たことない顔で、笑って……キスしてるの、見たら――――気が付いたら、綾さんに、メールを……」

 我妻は瞳に浮かんだ雫を、制服の袖で拭った。

 その後も途切れ途切れに話してくれた。

 明日葉をつけたあの日、我妻は学校の特別講習の帰りに立川の亜笠の家に寄っていた。だが、亜笠はいつまで経っても帰っては来なかった。だからきっとここにいるんだろうと、青梅駅までやってきた。

 そして、会社から帰宅途中の明日葉を見つけた――――ということだった。

 どうやら最初から自分を尾行していた訳ではなかったらしい。

 そこで明日葉にタックルされて捕まり、慌てて逃げ帰ったという。

 我妻の自白を聞いて、明日葉と亜笠はもう一度顔を見合わせた。

 亜笠が聖司に向き直る。

「聖司くん、自分のしたことがいけないことだと、それはわかっていますね」

 亜笠の優しい問いかけに、我妻は泣きながらも頷いた。

「綾さんにももう連絡しない、護さんや僕のあとをつけない。そう約束してください」

「はい……もうしません」

「会いたい時は、連絡をください。いつでも会いに行きますから」

 我妻はコクリと頷いた。亜笠はそれを見て優しく微笑んだ。

「護さんも、それで構いませんよね」

「うん。もちろん」

 まだ18歳だしね、そう言って苦笑した明日葉に、我妻はじとっとした涙目を向けた。

「18歳は立派に大人です。もうすぐ法律上でも成人扱いになりますし」

 我妻の態度に、明日葉は地味に傷付いた。何もそこまで邪険にしなくても……。気持ちはわからなくもないが。

 我妻が顔を曇らせて、明日葉の顔をじっと見つめた。ぼそりと呟く。

「先生は、この人のどこがいいんですか……」

「全部です」

 亜笠は笑顔で即答した。明日葉は青くなった。お前そういうところだぞ、と思った。

 露骨にため息をついてくる我妻に、明日葉は眉をひくつかせながら自分に言い聞かせた。

 怒ってはいけない。相手は子供、相手は子供、だ。








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