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明日があるさ  作者: いぬまた
第六章
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明日があるさ6【第五話】






 明日葉は翌日、痛む腰を押さえながら出社した。日曜だが、今日は休日当番だった。

 亜笠は例によって明日葉宅で家事に勤しんでいた。今日も立川の自宅に帰る気はさらさらないらしい。

 昨日は昼間から事に及んでしまった上、夜も求められてついつい応じてしまった。今日は仕事なのに……。

 ダメだ、気が緩んでいる。そう思いつつも明日葉は口角が上がるのを止められなかった。休日当番で他に人がいなくて良かった。

 ロッカーを開けて作業着を羽織る。作業用手袋を嵌めて、明日葉は伝票を手に倉庫へと入った。

 翌日の配達用のピッキングを行う。入荷がないので倉庫内は静かだった。黙々と作業していると、胸ポケットに入れた会社用のスマートフォンが鳴った。

 着信画面を見ると――――ファーマみらいからだった。日曜は本来休みだが、ファーマみらいも休日当番のため開局していた。

 渋い顔をして通話ボタンを押す。

「はい、河和青梅営業所」

『あっ、その声は明日葉だな~元気か~』

 バカデカボイスの元気いっぱいの声が聞こえてきた。ファーマみらいの癖の強いことで有名な管理薬剤師、阿部だった。

 明日葉は低い声で答えた。

「元気じゃないですよ。急配ですか?」

『そうそう。悪いんだけどさ、お願いできる?』

「大丈夫ですよ。何ですか?」

 品名と数量を聞きながらメモを取る。詰所に戻りパソコンでデータを確認すると、幸いなことに在庫があった。急ぎ受注システムに入力して伝票を出す。

「あります。じゃあ今から持って行きますね」

『助かる~。5分以内によろしく』

「無茶言わないでください」

 通話を切って、明日葉は倉庫へ向かった。注文を受けた医薬品を棚から取り出し、箱詰めして配送車に積み込む。ファーマみらいは河和から歩いていける距離にあるので、車で行けばすぐだった。

「河和です、お世話になってます」

 薬局の自動ドアをくぐり、受付の事務員に一声かけて調剤室へ入っていく。途中、患者に投薬中の女性薬剤師、飛鳥と目が合った。飛鳥は明日葉の中学時代の同級生だ。手を振ると、飛鳥は小さく微笑んだ。

 調剤室の中では、阿部が満面の笑顔を浮かべて待ち構えていた。

「急配お持ちしました」

「明日葉~会いたかった~」

「おれは会いたくなかったです」

「亜笠と付き合ってるって本当?」

 秒でぶっこんでくる阿部に、明日葉は医薬品を差し出しながら淡々と言った。

「本当です」

 阿部は意外そうにすることもなく、ニコニコとするばかりだった。

「結婚式には絶対に呼べよ~」

「絶対に嫌です。早く受領印下さい」

 明日葉は受領書にハンコを押そうとしない阿部を急かした。

「明日葉」

 不意に名前を呼ばれて、阿部を見る。阿部は一瞬だけ笑顔を封印し、真剣な眼差しで明日葉を見た。

「な、なんですか……」

 受領書にポンとハンコを押すと、阿部は再びいつもの笑顔に戻った。

「ん~、何でもない」

 若いっていいね~という意味深な阿部の言葉を無視して、明日葉は首を傾げながらその場を後にした。






 幸いなことに急配が数件入っただけで、大きなトラブルもなく休日当番が終わった。明日葉は会社の施錠を済ませると、早々に帰路についた。辺りはすっかり暗くなっていた。

 以前なら仕事を終えて家に帰っても、待っているのは真っ暗な部屋だけだった。ひとりで食べる夕食も嫌いではなかったが、家に誰かが待っていると思うと、自然と足取りが軽くなった。

 今日は亜笠に晩御飯をリクエストしていた。亜笠特製のトマト缶入りのカレーだ。さっぱりしていて、明日葉は普通のカレーよりも好きだった。

 音程の外れた鼻歌を歌いながら、明日葉は暗い夜道を歩いていた。

 ――――と、五分もしない内に、明日葉は足を止めた。

「…………」

 バックパックの肩ひもを掴んで、周囲に耳を澄ます。

 何も聞こえない。振り返って辺りを見回すが、街灯が照らす夜道には誰もいなかった。

 明日葉は前を向いて歩き出した。

 同時に、コツ、と靴の底がコンクリートを踏む音が聞こえた。音は明日葉の後ろを付いてくる。試しにもう一度足を止めた。普通の通行人ならここで止まらず、通り過ぎていくはずだ。

 足音が止まった。

 明日葉はそのまましばらく考え込んだ。

 今度は振り返らずに歩き出す。足音がついてきた――――ことを確認し、明日葉はバッと振り返って走り出した。

「ヒッ!」

 街灯に照らされた人影が息を呑んだ。相手は慌てて踵を返したが、遅かった。

「うりゃっ!」

 明日葉は相手の腰に飛びついた。

「キャ――――――――ッ!」

 静まり返った住宅街に甲高い悲鳴が響き渡った。同時にズザザザッと二人一緒に地面に倒れ込む。

「イテテテ……」

 思いっきり地面に手のひらを擦ってしまった。昨日から痛む腰にも響いた。明日葉は呻きながらも、自分の下敷きになった人影――――いや、少年を、見た。

 そこに倒れていたのは、紺色のブレザー姿の少年だった。

 真ん中分けの黒髪の間から覗く大きな瞳に、すっと通った鼻筋。顎の線は細く、男にしては随分きれいな顔をしていた。系統が亜笠寄りの美少年だった。まあ亜笠の方が遥かに顔がいいが、と明日葉はひとりごちた。

「え、誰?」

 見たことのない顔だった。明日葉が呆然と呟く。少年は顔を真っ赤にして瞳に涙を溜めていた。

「……大丈夫?」

 後をつけられたのは自分なのに、思わず気の毒になって口から出てしまった。

「なっ、なんで……!」

 少年がわなわなと震え始めた。

「なんでお前みたいなやつが……!」

 見ず知らずの人間にお前呼ばわりされる筋合いはないけど……。明日葉は立ち上がってスーツの埃をパンパンと落としながら思った。

「どうしてお前が先生の恋人なんだよ!!!」

「は?」

 少年の叫びに、明日葉は首を傾げた。

「え、先生って、誰――――」

 と、明日葉が問いかける間もなく、少年は立ち上がって脱兎のごとく走り去っていった。

「…………何だったんだ?」

 首を傾げた明日葉だけが、後に残された。






「ただいまー」

 玄関を開けると、カレーの匂いが鼻をくすぐった。

 台所にはエプロン姿の亜笠が立っていた。片手にはお玉を持っている。鍋の中身を確認していたらしく、明日葉の声に顔を上げた。

「お帰りなさい。遅かったですね」

「うん」

 靴を脱いで上がる。楽しみにしていた匂いに、自然と頬が緩んだ。

「仕事ですか?」

「いや。帰りに知らない人に後付けられて、タックルして捕まえたと思ったら、逃げられちゃって。手ぇ擦り剥いちゃった」

 擦り剥いた手を見ながら言った。亜笠の動きが止まった。

 お玉を持ったまま、じっと明日葉を見る。

「…………すみません、もう一回言ってもらえます?」

 明日葉はきょとんとして答えた。

「え、だから、帰りに知らない人に――――」

「僕が言ってるのはそういうことじゃありません!」

 突然怒鳴られて、明日葉の肩が跳ねた。

「え、何? どうした?」

「どうしたはこっちの台詞です!」

 亜笠はお玉を鍋に突っ込むと、ずかずかと明日葉の前までやって来た。

「どうして尾行されて相手に向かって走るんですか!」

「いや、誰なのかなって」

 明日葉は至極当然のように答えた。

「普通は逃げるんです!」

「逃げたら誰かわかんなくなるじゃん」

「わからなくていいんですよ!」

「でも家までついてこられたら嫌だし」

 それこそ困る。ここには亜笠もいるのだ。明日葉がそう続けようとすると、亜笠は遮るように声を上げた。

「だったら交番に行ってください!」

「ああ!」

 なるほど。その手があったか。明日葉は拳で手のひらをポンと叩いた。

「『ああ!』じゃありません!」

 なぜかさらに怒られた。明日葉はえへっと笑った。

「でも捕まえたのに逃がしちゃった」

「捕まえなくていいんですよ!!!」

 亜笠は額に手をあてて深いため息をついた。眉がひくひくと痙攣していた。

「相手が刃物でも持ってたらどうする気だったんですか……!」

「大丈夫だったよ。高校生だったし」

「結果論でしょ! それに高校生だって刃物持ってる人間はいます!」

 亜笠は怒りながらも洗面所まで明日葉を引っ張り、強制的に手を洗わせた。手の傷に沁みる。明日葉が呻くと、亜笠は水を止めて言った。

「椅子に座っててください。手当てしますから」

 台所に戻って、背負っていたバックパックを下ろす。大人しく椅子に座っていると救急箱を手に亜笠が戻ってきた。

「手、見せて下さい」

 素直に手のひらを見せる。赤い擦過傷がいくつも出来ていた。ところどころ薄く血が滲んでいる。亜笠の眉間の皺がさらに深くなった。

「……消毒しますよ」

「痛っ」

「我慢してください」

 亜笠はその口ぶりとは裏腹に丁寧に手当てしてくれた。消毒液を沁みこませたガーゼを優しく傷口に押し当ててくる。

「このくらいなら絆創膏はいりませんね」

 そう言って手当てを終えた。明日葉は小さく礼を言った。

「もう二度とバカな真似はしないでください」

 低い声で言われる。明日葉は頬を掻いた。

「ごめん、心配かけて……」

「まったくです」

 亜笠はそう言いながら皿を出し、出来上がったカレーをよそってくれた。明日葉は急ぎスーツから部屋着に着替えた。台所に戻る頃には、テーブルの上にカレーとサラダが用意されていた。

 いただきます、と声をかけて食べ始める。亜笠も向かいでスプーンを手に取った。

「おいしぃ~。おれこのカレー大好き」

「なら良かった」

 ニコニコしながらカレーを頬張る明日葉に、亜笠が微笑んだ。空腹だったこともあり、明日葉は夢中になってスプーンを動かした。

「それで――――その高校生は一体何だったんですか」

 すっかり終わったものと思っていた話を蒸し返され、明日葉はスプーンを咥えたまま首を傾げた。

「わからない。知らない子だったよ」

「何で護さんを?」

「さあ……あ、でもなんだっけな。たしか『何でお前が先生の恋人なんだよ』とかなんとか言ってたな」

「――――先生……」

 亜笠の手が止まった。カレーを掬いかけたスプーンを皿の上に浮かせたまま、何かを考えるように視線を落としている。

「うん」

 明日葉には『先生』と言われてもさっぱり心当たりがなかった。人違いじゃないだろうかと思っていた。

 しばらく黙っていた亜笠が、ふいに顔を上げた。

「どこの高校の制服か、わかりますか」

「わかんない。紺のブレザーってくらいしか」

「見た目は?」

「ああ、目が大きくて……綺麗系っていうか、線の細い美少年的な子だったよ」

「…………」

 また亜笠が黙り込んだ。

 今度は明らかに様子がおかしかった。眉間に皺を寄せ、手にしていたスプーンを皿の上に置く。

 ついさっきまで明日葉の食べっぷりを見て微笑んでいた顔から、すっかり笑みが消えていた。

「誠一郎?」

 名前を呼ぶと、亜笠はようやく明日葉を見た。

「――――もしかすると、僕の知り合いかもしれません」

 その言葉に、明日葉は目を丸くした。







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