明日があるさ6【第二話】
一人風呂場に入った明日葉はその場に蹲ってため息をついた。両手で赤くなった顔を覆う。
(なんだあの生き物……かわいすぎるだろ……)
今からあのかわいい生き物とセックスしなければならない。明日葉は身もだえする気分だった。セックスなんてもう何回もしているはずなのに。
(最近のセックスは前よりもっと恥ずかしい……)
好きな人とするのってこんなに恥ずかしかったっけ? と明日葉は22歳の自分を振り返ってみたが、何せ相手があの雨宮だ。
明日葉は初日のセックスで「へえ~天然パイパンなんだ~」とキラキラした笑顔で言われたことを思い出してスッと真顔になった。雨宮はデリカシーに欠ける男だった。恥とか以前の問題だった。
やめよう。比較対象がそもそも間違っていた。
明日葉は深呼吸してかぶりを振った。なるべく何も考えずに淡々と風呂に入り、セックス前の準備を終えた。最後に冷水のシャワーを浴びてから、風呂を出る。心の中ではずっと般若心経を唱えていた。こうでもしないと始まる前から下半身がえらいことになってしまうので。
頭を拭きながら風呂場から出ると、先に風呂に入ったはずの亜笠の姿が消えていた。いつもならドライヤーを片手にベッドの上で待っているのだが。
見ると玄関にあったはずの亜笠のスニーカーがなかった。外からボソボソと話し声が聞こえ、亜笠が外に電話しに行ったのだとわかった。
明日葉が冷蔵庫からいちご牛乳を出して飲んでいると、亜笠が電話を終えて中に入ってきた。
隣に立った亜笠に、明日葉は首を傾げた。
「電話? 大丈夫だった?」
「大丈夫です。大家さんからでした」
明日葉はその言葉にハッとした。
「もしかして最近家にいないから孤独死したと思われてるんじゃ……」
「週に一回は帰ってますよ」
明日葉のボケに亜笠は半眼で返事をした。亜笠は台所に立つと、洗った食器を拭き始める。
「なあ、家賃もったいなくないか」
明日葉はいちご牛乳に口をつけながら、何気なく言った。その言葉を聞いた瞬間、亜笠の目がキラキラッと輝いた。
「それは解約してこっちで一緒に暮らそうってことですか」
「違うよ! お前の家の方が築浅だしきれいなんだから、もうちょっと帰ったらいいだろってこと!」
「嫌です! 僕の家はここです!」
「いや立川だよ! あるよ、お前の部屋が!」
皿を拭きながら子供のようにだだをこねる亜笠にツッコんだ。
亜笠は手にしていた皿を棚に戻して、明日葉の顔を覗き込んできた。
首を傾けて、上目遣いで。
「護さんは僕と一緒にいたくないんですか?」
破壊力がすごかった。
明日葉は無言で冷蔵庫に頭を打ち付けた。
「何してるんですか……」
亜笠が渋い顔をして言った。
「ううん、違うんだ……ちょっと目にフィルターがかかってるっていうか、角膜がおかしくってさ……」
「明日、眼科に行きましょうか」
「行っても医者が困るだけだから、大丈夫」
真剣に心配してくる亜笠に、明日葉は首を振った。
「ところで、大家さん何だって?」
話題を変えようと明日葉は空になった牛乳パックを洗った。シンク上のラックに干しておく。
「ああ、最近僕の家の前をうろついている男がいるらしくって」
「は?」
眉根を寄せた明日葉に、亜笠は手を振った。
「あ、大丈夫です。容姿を教えてもらったけど、知人でした」
明日葉はほっと胸を撫で下ろした。
「びっくりした……こっちに引っ越して来いって言いかけたよ……」
「やっぱり勘違いでした。不審者です」
「遅いわ」
明日葉が呆れたように言うと、亜笠が舌打ちした。いや、お前人の心配を何だと思ってるんだ。
「知人さんは連絡しなくて大丈夫なの?」
「もうしました。会う約束もしたので、心配しないでください」
亜笠はそう言うと最後の皿を置いて、明日葉の手を引いてベッドに移動した。
亜笠は床に明日葉を座らせると、ドライヤーを手にベッドに腰掛けた。
「いい加減自分で乾かすよ?」
「やりたいんです」
見上げると、亜笠は微笑んでそう言った。亜笠の指がドライヤーのスイッチを入れた。
「っていうか、何でお風呂入ってきたのにめちゃくちゃ冷たいんですか?」
「いや、ちょっと…………温冷浴を」
「今の時期にやったら風邪引きます」
亜笠がそう言って顔を顰めた。いつもより念入りに温風を当ててくれる。乾かし終わると、おもむろに明日葉の顎を上向かせた。
目を丸くしていると、上から覗き込んだ亜笠の顔が近付いてきて、キスされた。
軽いキスの後、間近で囁かれる。
「もしかして勃っちゃいました?」
明日葉の顔が見る間に赤く染まった。
亜笠は嬉しそうに微笑んで、明日葉をベッドに押し倒した。
「イタタタ……」
明日葉はベッドから起き上がりながら呻いた。老人のようにトントンと腰のあたりを叩く。
昨晩は、なんというか――――いつもより激しかった。回数も多かったので、亜笠より5歳年上の身としては少しばかりきつかった。
「おはようございます、護さん」
台所から亜笠が顔を出した。彼はすでに身支度を整えてエプロンをつけていた。いつもの無表情ではあるが、心なしか顔がツヤツヤとしていた。
(体力お化け……)
明日葉は着替えながら、泣かされすぎて充血した目で亜笠を見つめた。
よろよろと台所へ向かう。
亜笠が来る頻度が上がってからというもの、明日葉宅にはさらに物が増えていた。気が付けばハンガーラックが増やされ、台所には食事用のテーブルと椅子が二脚追加された。
明日葉宅は築年数が40年をオーバーしているものの、賃料のわりにかなり広さがあった。台所にテーブルと椅子が増えても、まだ十分食器棚や冷蔵庫が置けた。動線は少しばかり悪くなったが、仕方ない。
見ると、テーブルの上には焼き鮭とだし巻き卵、ほうれん草の味噌汁、ほかほかの白いご飯が置かれていた。
明日葉は恐る恐る椅子に腰を下ろした。
「イタ……」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……」
「すみません」
謝っている割に、亜笠の機嫌は良かった。長らく一緒にいるので、さすがの明日葉にも微妙な変化がわかるようになってきた。無表情ではあるが、今朝は周りにお花が浮かんでいる。間違いない。かわいい。
ご飯を食べ終わり、食後のお茶をすすりながら、明日葉はふと昨日の会話を思い出した。
「そう言えば、昨日言ってた知り合いっていつ会うの?」
向かいでコーヒーを飲んでいた亜笠が、今気が付いたかのように口を開いた。
「そのことなんですけど――――」
亜笠が言いかけたその時、明日葉宅のチャイムが鳴った。
「え」
「あ、来た」
「は?」
宅急便か何かかな? と思って明日葉はその場から動かなかった。というか腰の痛みであまり動きたくなかった。ので、自然亜笠が玄関に出ることになった。
お茶を飲みつつ顔を向けると、ちょうど亜笠が玄関を開けるところだった。
扉を開くと――――そこには、ひとりの男が立っていた。
小麦色の肌の、30代くらいの整った容姿の男だった。見覚えはまるでない。誰だろう、と明日葉が首を傾げたところで、男が微笑んで口を開いた。
「久しぶり、誠一郎」
「お久しぶりです、綾さん」
亜笠はそう言うと、綾と呼んだ男を手のひらで示して、明日葉を振り返った。
「護さん、紹介します。昨日言っていた知人――――元彼の、綾巧人さんです」
明日葉は椅子から転がり落ちた。だがすぐに起き上がって、腰の痛みを堪えながら亜笠の傍に行き、その頭を叩いた。
「ねえ! おれ! 何も聞いてない!!!」
「今説明しました」
「事前の! 相談を! ご利用は! 計画的に!」
どこかのCMのような文句を言いながら、明日葉は亜笠に詰め寄った。普段は段取り命の癖になぜたまにこうした事故を起こすのか。わざとか、わざとなのか。
「というか元彼を今彼のアパートに呼ぶな!」
「じゃあなんですか、僕と元彼がどこかの密室で二人っきりで話してもいいんですか!?」
「嫌だけどおれの家じゃなくていいだろ!」
「嫌なんだ」
亜笠がにっこりと笑った。明日葉は、言ってから失言に気が付いた。顔が見る間に赤くなる。
「いや、そのっ、っていうか! 元彼さん困ってるから!」
明日葉が苦し紛れに玄関を指差すと、綾と呼ばれた男は困った顔をして頬を掻いていた。
「あ、やっと気付いてもらえた感じ……?」
夫婦漫才見せられてるのかと思った、と綾は軽やかに笑った。
明日葉はますます顔を赤くして俯いた。初対面の人間、それも恋人の元彼を目の前にして何をやっているんだろうか。穴があったら入りたかった。
一方の亜笠はまるで恥じる様子もなく、いつもの無表情に戻っていた。むしろ夫婦と言われたことに関しては満更でもなさそうに見えた。
「すみません、綾さん」
「相変わらず――――っていうか、前よりずっと元気そうだな」
綾は改めて亜笠を眺めた。しばらく会っていなかったのだろう。目を細めるその表情には、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
明日葉はちらりと亜笠を見た。
相変わらず無表情で、何を考えているのかわかりづらい。けれど、長く一緒にいる明日葉には今朝の亜笠が上機嫌なことがわかる。もしかすると、綾にも同じようにわかるのかもしれない。
「綾さんこそお変わりないですね。元気でした?」
「元気元気。見ての通り」
綾は笑って片手を上げた。
こうして並んでいるところを見ると、二人の間には確かに親しげな空気があった。
少し前に性病検査に付き合った時、亜笠が話したことがあった。元彼とは7年付き合って別れたと。長い付き合いだったのだから当たり前か、と明日葉は小さく息を吐いた。
亜笠はそんな明日葉の両肩を掴んで、綾の方へずいっと押し出した。
「あ、それで――――この寝癖頭が僕の未来の夫の明日葉護さんです」
あ、未来の夫で合ってたんだ、と明日葉は心の中でツッコんだ。
昨夜、自分でも似たようなことを考えた覚えはある。結婚するつもりがないわけでもない。むしろするものだと思っている。とはいえ、いきなり元彼に対してその肩書きで紹介するのはいかがなものだろうか。
案の定、綾は目を丸くしてこちらを見つめていた。恥ずかしさに冷や汗が滲んだ。
「あ、ど、どうも……」
何と言えばいいのかわからず、明日葉はそう言って乾いた笑いを漏らした。
そんな明日葉に、綾はにこりとさわやかに微笑んだ。亜笠とはまた違った種類の、見惚れるような相貌だった。
亜笠は明日葉を解放すると綾に向かって声をかけた。
「どうぞ上がってください」
「おれの家なんだけど!?」
何食わぬ顔で案内する亜笠に、明日葉は叫んだ。
亜笠が毎日のように泊まり、合鍵まで持っているせいで忘れそうになるが、一応、ここは明日葉名義で借りたアパートだ。少なくとも立川に自分名義の部屋を持っている人間に、来客を招き入れられる筋合いはない。
すると、綾が少し気まずそうに眉を下げた。
「あの、大丈夫か? 俺てっきりお前の家なのかと思ってたんだけど?」
「大丈夫です。僕の家でもあるので」
「おい」
明日葉は反射的に亜笠の背中を叩いた。
っていうかこいつ元彼にも説明してなかったのかよ、と思い明日葉は綾に向き直った。彼も亜笠の説明不足による被害者の一人だった。
「あの、全然大丈夫なので、良かったら上がってください」
「せっかくの休日にすみません。お邪魔します」
明日葉が言うと、綾はほっとしたように笑って靴を脱いだ。
その横で亜笠は、当然とばかりの顔をしていた。明日葉はその横顔を呆れたように見つめた。




