明日があるさ6【第一話】
明日葉護には悩みがあった。
近頃、脳内BGMが止まらない。曲は『年下の男の子』。懐かしのキャンディーズ。幼い頃、母親がよく聞いていた。
もちろん理由があった。原因は――――後輩の亜笠誠一郎。彼だった。
彼が入社してからいろいろあった。本当にいろいろあった……。告白された。強制デートに連れて行かれた。付き合ってないのになぜか身内を紹介された。恋人でもないのになぜか自分の実家についてきた。おまけに最近、明日葉の元恋人・雨宮まゆみともいざこざがあった。
亜笠の助力もあって無事に問題は解決したが、明日葉は今、大きな壁にぶち当たっていた。
今更――――本当に今更、亜笠のことが心底好きだと自覚してしまったのだ。
いや、以前から自覚はあった。が、いかんせん元恋人・雨宮のことがあったので素直に気持ちを受け止められずにいた。
しかしそれも先月ついに解決してしまった。
正式に交際がスタートした。…………してしまった。
もうブレーキをかける必要もない。そう思ってほっと息をついたら――――亜笠への恋心を強く意識してしまって、明日葉は参っていた。
亜笠が、かわいくてしかたがない。
「くそ……どうしてこうなった……!」
倉庫の片隅、返品在庫置き場で返品伝票と現物をつき合わせながら、明日葉は額に手をあてて、深刻な表情で呟いた。
返品伝票、現物共にしっかりと一致している。さすがは亜笠。何をやらせてもそつがない。
明日葉は先月末の棚卸のことを思い出していた。
棚卸前日、冷蔵室の不調による冷所逸脱が発生した。棚卸直前のトラブル、当然明日葉は青くなった。が、同時に発生したタクザイロの配送遅延により、明日葉はそちらの対応をせざるを得なかった。そのため、冷所逸脱の対応は亜笠任せとなった。
亜笠の対応はスムーズだった。対象品を速やかに隔離し、MR時代のコネまで使い、対象品の使用可否の回答も早めてくれた。
が、翌日は九月末日、棚卸当日だった。冷所逸脱の対応に加え、通常業務と棚卸業務まで重なれば、とても手が回らない。少しでも棚卸業務を優先できるよう、明日葉は前倒しで処理できる通常業務を片っ端から片付けた。結局、一睡もできないまま朝を迎えた。
亜笠は明日葉の無茶にもため息をつきながら付き合ってくれた。
おかげで棚卸当日は地獄のような忙しさではあったものの、大きな混乱なく終わらせることが出来た。
彼が行った棚卸のデータの集計は、完璧だった。明日葉がピッキングと入荷処理に専念している間に、彼は三日足らずでデータを完成させた。
さすが段取り命の男。仕事も完璧。家事も丁寧で素晴らしい。料理がまずかったことも一度もない。おまけに顔面は国宝級だ。こんな男が自分の恋人になったのかと思うと未だに信じられない。
(いつか捨てられた時のために写真とか撮りためておこうかな……)
冗談半分、半分は本気で明日葉はほうっとため息をついた。
「どうしたんですか、そんな深刻な顔して」
「ぅわぁっ!」
背後から急に声がかかって、明日葉は飛び上がった。
顔面国宝級の亜笠だった。彼は不思議そうに首を傾げながら、口を開いた。
「またそうやって人を幽霊みたいに……何か間違いでもありました?」
「いや、ないよ。大丈夫、しっかり合ってた」
明日葉はすかさず仕事モードに切り替えた。仕事の話をする上では、亜笠との接触も平気だった。仕事の時だけは。
「こっちは返品処理に回していいんだな」
「はい。メーカーから回答来てます。外箱も問題ありませんでした」
「了解。じゃあ伝票処理して大柴さんに確認もらっとく」
「お願いします。あと、こっちの3件なんですけど」
亜笠が手元の伝票を差し出した。
明日葉は受け取ってすぐに目を落とした。仕事モードに切り替えてしまえばなんてことはない。亜笠の顔を間近に見ても冷静でいられる。
「あ、これ返品期限今月末か」
「そうです。先に処理した方がいいかと」
「じゃあおれやっとくよ。午前中にこっち片付けるから、午後分のピッキングある程度任せていい?」
「わかりました」
明日葉が微笑むと、亜笠はいつもの無表情で頷いた。
(仕事なら全然平気なのになぁ……)
在庫のことを考えて、伝票を見て、棚を見て、今日一日の流れを頭の中で組み立てる。そうすれば亜笠はいつもの後輩で、同じ在庫管理部で働く同僚でしかなかった。
明日葉は返品伝票をまとめてクリップで留めた。
「おれ大柴さん探してくるね」
「はい」
「何かあったら呼んで」
「わかりました」
踵を返しかけて、ふと足を止めた。亜笠がまだこちらを見ていた。
「どした?」
「いえ」
亜笠が首を傾けて、ニコッと微笑んだ。
「今日のご飯、何にします?」
明日葉は無言で胸を押さえ、その場に蹲った。
「明日葉さん!? 大丈夫ですか!?」
「うん……大丈夫、ちょっと、突然激しい動悸が……」
近寄ってくる亜笠を、手を振って制止した。
(こいつは同僚こいつは同僚こいつはただの同僚!)
明日葉は必死で自分の脳に言い聞かせた。
「額にものすごい冷や汗流れてますけど、本当に大丈夫ですか」
貧血、脱水、不整脈……とブツブツ呟く亜笠に明日葉は首を振った。
「本当に大丈夫! いってきます!」
亜笠は不思議そうに首を傾げていた。
今日のご飯――――要するに亜笠は今夜、明日葉のアパートに来るということだ。そして来るということはイコール泊まるということだ。亜笠は昨日もうちに泊まった。一昨日も。その前も以下略。
金曜から日曜までの宿泊は付き合う以前からの習慣だった。週末婚状態だったのが、亜笠はいよいよ平日も泊まるようになった。
そして平日一日だけだったのが二日になり、二日が三日になり、気が付けば亜笠はほぼ毎日のように家にいた。
なんというか、もう来ると言うより住んでいると言った方が正しいくらいだった。明日葉はないと不便かなと思って合鍵まで渡していた。
ただし、毎日居座る亜笠に、明日葉は宣言したことが一つだけあった。
それは――――セックスに関しては、翌日の体調に響きかねないので休前日に限定する、ということだった。
そして今日は金曜日。明日は土曜で二人とも休み。
つまり、仕事が終わったら、二人で一緒に家に帰って、ご飯を食べ、お風呂に入り、それから――――
と、そこまで考えたところで明日葉は自分のデスクに頭を叩きつけた。
「明日葉くん、急にどうしました~?」
明日葉が渡した返品伝票をチェックしていた大柴が、顔も上げずに呑気に言った。長年の付き合いの大柴は、明日葉の奇行には慣れていた。
「いえ、ちょっと邪念が……」
「ジャネンガ? 新しい薬ですか?」
額を擦りながら答える明日葉に、大柴は無邪気に首を傾けた。
(この人のを見ても全然なんとも思わないんだけどな……)
明日葉は冷めた目で大柴を見つめた。大柴にときめいてもそれはそれで問題だった。
終業後、二人揃って明日葉のアパートへ歩きながら、明日葉はここ一カ月のことを振り返っていた。
正式に交際がスタートしてから、明日葉は亜笠に言われるがままにいろいろなところに付き合った。
千葉の某巨大リゾート施設に引きずられていった。当然のようにホテルも取られており、丸二日かけてランドとシーの両方を歩き回らされた。
性病検査にも付き添って行った。亜笠は押し付けるように結果を見せてきた。過去の経験人数が元彼一人という彼の結果は、当然すべて陰性だった。
冷蔵庫も401リットルを買った。明日葉のアパートの台所には、部屋に不釣り合いなどでかい冷蔵庫が鎮座していた。
ふざけ半分でネズミの耳をつける亜笠も、検査結果を押し付けてくる亜笠も、フレンチドアの冷蔵庫にニコニコする亜笠も――――かわいかった。明日葉の目は完全に盲目になっていた。
帰宅後、夕食も終わりテレビを見ながらお茶を飲んでいたところ、亜笠が唐突に言った。
「婚約指輪を買おうと思うんです」
明日葉はお茶を噴いた。亜笠は至極真面目な顔をして、テーブルの上にあった布巾で辺りに散乱したお茶を拭いた。
明日葉は咽ながらも口を開いた。
「待って!? 早くない!?」
「早くないです」
きっぱりと亜笠が言った。
「付き合ってから1ヵ月しか経ってないんだけど!?」
「僕としては半年以上です」
明日葉はぐっと言葉を飲んだ。確かに、この男が半年よりずっと前から自分を好きでいてくれ、出会ってからずっと恋人同士同然の付き合いを続けていたことは、わかっている。頭では。
「で、でも、おれの情緒が追いつくまでちょっと待って……!」
明日葉は懇願したが、亜笠は無表情でお茶をすすりながら、容赦なく言った。
「待ってたら来年になります」
「いや別に来年で良くない!?」
「来年は結婚式です!」
亜笠がおもむろに自分のバックパックから冊子の束を出して、テーブルに広げた。
「待て待て、いきなり式場のパンフレットを広げるな! ゼクシィを出すな!」
ドンッとテーブルに両手をついて、亜笠が明日葉に顔を近付けた。
「指輪を買えば今後職場でお節介な人間から『結婚してるの?』と言われなくなりますよ」
明日葉の頭上に豆電球が浮かんだのを見て、亜笠は歯ぎしりをした。
「…………言われたことがあるんですね」
怒りのオーラを放つ亜笠に、明日葉は慌てて両手を振った。
「えっ!? いや、その、配達先とかさ……普通言われない?」
明日葉はその仕事柄、薬局病院を行き来する。その程度の声をかけられる当然のことと思っていた。親切なご年配の方や、場合によっては同い年くらいの人からも聞かれる。
「普通(モテない人間)は言われません」
「な、何か含みのある言い方だな……」
きっぱりと言い切る亜笠に、明日葉は半眼になった。
亜笠は「そんなことより」と続けて口を開いた。
「彼女いるか聞かれました?」
「うん」
「今度食事でも、は?」
「あるよ」
言った途端亜笠の怒りのオーラが増した。
「どこのどいつですか……男ですか女ですか」
明日葉の目が露骨に泳いだ。言えなかった。男も女もいた。
「一人一人名前を教えてください。ブラックリストにいれておきます。今度からそこの配達は僕が行きます」
「いやいやいや世間話だろ!? そんなの!」
「今度食事でもは、世間話を超えてます」
「いちいち覚えてないよ!」
「いちいち覚えてられないくらいたくさんいたんですか!?」
いや、そんなにはいない。明日葉は指折り数えた。指が折り返したあたりで亜笠のテーブルの上に置かれた拳が震え始めたので、明日葉は数えるのを止めた。
「それに、今は恋人いるって言うし!」
明日葉としては当然のことを言ったまでだった。
「…………」
亜笠が目を丸くして黙り込んだので、明日葉は不安になった。
「え……婚約者の方がいい?」
亜笠が顔を覆って崩れ落ちた。明日葉は本気で訳がわからず亜笠を覗き込んだ。
「え、だ、大丈夫?」
「無自覚って卑怯ですよ……」
明日葉としては亜笠が黙り込んだので、不満だったのかと思って言っただけなのだが。何か、婚約者よりもっと上位があるのか? 未来の夫とか?
亜笠がコホンと咳払いをした。
「婚約は嫌なんじゃなかったんですか」
明日葉はきょとんとして言った。
「嫌じゃないよ、早いってだけで。だって今すぐじゃないけど結婚するんだろ?」
亜笠はその場で床に突っ伏した。
明日葉はいつも自分がやっている身だが、改めて他人にされると狼狽えてしまった。
「誠一郎!? ほんとにどうした!?」
亜笠の耳は真っ赤になっていた。
「……幸せすぎて今すぐ死んでもいいです」
「いや、生きて。長生きして」
明日葉が冷静に言った。亜笠がガバッと起き上がって明日葉のことを抱き締めた。
「一緒に100歳まで生きましょう」
「100歳、は、ちょっと自信がないかな……」
確か日本人男性の平均寿命は81歳くらいだったような。
「何なんですか、好きすぎます。好きで僕を殺す気ですか」
「お前今IQがめちゃくちゃ下がってないか」
明日葉の肩口にぐりぐりと額をこすりつけてくる亜笠に、明日葉が言った。
亜笠は顔を上げずに続けた。
「今すぐしたいくらい好きです」
明日葉は黙り込んだ。顔から首までが真っ赤に染まった。
「…………する?」
聞くと、亜笠が黙って頷いた。明日葉は思わず「かわいい」と開きかけた唇をぎゅっと引き結んで、亜笠の頭をポンポンと撫でた。




