第3話:鉄血皇帝の跪仰 〜金貨一枚の債務不履行は許しません〜
地響きが、王城の堅牢な石床を震わせていました。
重装騎兵五〇〇の行軍。それは、一国の軍事力に匹敵する圧が、ひとりの男の意思によって統制されているという、暴力的なまでの証明。
大広間の重厚な扉が左右に跳ね飛ばされ、冷たい夜気が流れ込みました。
「な、なんだ……この殺気は。ひ、ひぃっ……!」
地下の物置部屋へ連行される途中だったジュリアン様が、騎士の手を振り払って床にへたり込みました。
無理もありませんわね。扉の向こうから現れた男が放つ威圧感は、温室育ちの王子が一生かかっても理解できないほど、『死』に近いものですから。
漆黒の甲冑に身を包み、深紅のマントを翻して歩いてくるその男――隣国ノイシュタット帝国の若き皇帝、アラリック・フォン・ノイシュタット。
「ア、アラリック陛下……! ああ、助かった! 神の助けだ!」
ジュリアン様が、恥も外聞もなく四つん這いでアラリック様の足元へ縋り付きました。
ボロボロの掃除服を着て、涙と鼻水で顔を汚したその姿は、滑稽を通り越して哀れですらあります。
「陛下! 聞いてください! このセラフィナという女が狂ったのです! 僕から婚約を奪い、城を奪い、挙句の果てに僕を地下室へ閉じ込めようと……! 貴方の武力で、どうかこの反逆者を処刑して――」
アラリック様は、足を止めました。
冷徹な氷のような瞳が、足元に転がる『何か』を、ゴミを見るような温度で見下ろします。
「……五月蝿い。その不浄な手で、私に触れるな」
「え……?」
次の瞬間。
アラリック様が軽く足を動かしただけで、ジュリアン様は枯れ葉のように数メートル後方へと蹴り飛ばされました。
「がはっ……!? ひ、陛下……何を……?」
アラリック様は、泥でも踏んだかのように自分のブーツをひと拭きすると、一度も彼に視線を戻すことなく、わたくしの方へと歩を進めてきました。
周囲の貴族たちは、息をすることさえ忘れています。
大陸最強の軍事国家。その頂点に立つ『鉄血皇帝』が、怒りに震えてこの場を蹂躙し始めるとでも思ったのでしょう。
ですが、わたくしの前に立ったアラリック様は……。
カチャリ、と重厚な鎧の音を鳴らし、その場に片膝をつきました。
「――お迎えに上がりました。我が主、セラフィナ様」
静寂。
あまりの事態に、会場の誰もが思考を停止させました。
わたくしは、扇子を広げて口元を隠し、満足げに目を細めます。
「あら、約束の時間より十分ほど早いですわよ、アラリック。……わたくしのスケジュールが、貴方の不手際で狂うところでしたわ」
「……申し訳ありません。貴女の顔を拝めると思うと、馬の足が止まらなくて」
アラリック様は、顔を上げました。
そこには、戦場を支配する皇帝の顔ではなく……飼い主に忠誠を誓う狂犬のような、昏い情熱が宿った瞳がありました。
「な……主……!? 陛下、今、なんと!? その女は、ただの、公爵家の……!」
背後でジュリアン様が絶叫していますが、アラリック様はピクリとも反応しません。
「報告を。帝国の軍備、内政、すべて順調です。貴女に貸し付けられた『金貨一枚』の利息……そろそろ、この国の一つや二つでは足りなくなってきましたが、いかがいたしますか?」
アラリック様が、首から下げていたペンダントトップを取り出しました。
そこに嵌め込まれているのは、宝石などではなく、古びた、けれど磨き抜かれた『一枚の金貨』。
十年前。
奴隷市に並べられ、誰からも見向きもされなかった汚れた少年に、わたくしが気まぐれに投資した、あの金貨です。
「ふふ、利息の計算はわたくしがいたします。……貴方はただ、指示に従ってくださればよろしいの。……ところでアラリック、そこの地下室へ行く予定の殿下が、貴方に助けを求めていらしたけれど?」
アラリック様が、ようやく首を回しました。
その瞬間、ジュリアン様の顔から一切の血の気が引き、カチカチと歯の根が合わない音が聞こえてきました。
「……あれが、貴女の元婚約者ですか。……殺しますか?」
「あら、物騒な。殺してしまえば、回収できる負債も回収できなくなりますわ。……それよりも、彼には『自分の価値』を正しく理解していただかなければなりませんの」
わたくしは、床にへたり込むジュリアン様を見下ろし、優雅に微笑みました。
「ジュリアン様。貴方は先ほど、シャーリー様と『愛は契約では縛れない』とおっしゃいましたわね? ……ええ、その通りですわ。ですが、この大陸の『武力』と『富』は、わたくしの契約書一枚で動きますの」
アラリック様が、わたくしの言葉を肯定するように、腰の長剣をわずかに抜きました。
その鋭い銀光が、ジュリアン様の喉元を掠めます。
「ひ……ひぃぃぃ……っ! あ、あぁ……!」
ついに、ジュリアン様の股間に染みが広がりました。
王族のプライド、未来への希望、そして聖女との甘い生活。そのすべてが、アラリック様という圧倒的な現実の前に、文字通り崩壊した瞬間です。
「汚い。……セラフィナ様、掃除が必要ですね」
「ええ。ですが、彼にはまだやってもらうことがありますの。……アラリック、貴方が連れてきた軍勢。彼らには、この国の『税収』が正しくわたくしの口座に流れ込むよう、主要な街道を差し押さえていただきたいの」
「御意のままに」
わたくしは、扇子でアラリック様の頬を軽く叩きました。
「さあ、始めましょうか。……この国は、今日からわたくしの『私有地』。愛なんていう不確かなもので国を治めようとした報い……その身に刻んでいただきますわ」
わたくしが歩き出すと、アラリック様が影のように背後に従います。
震える貴族たち。泣き叫ぶ王子。そして、呆然と立ち尽くす偽聖女。
わたくしの帳簿には、これから膨大な『絶望』が計上されることでしょう。
ふふ……。
資産整理は、これからが本番ですわ。
お読みいただき、ありがとうございます。
「殺しますか?」とサラリと言ってのける鉄血皇帝。
ですが、セラフィナ様にとっては彼もまた、最高に利回りの良い「投資物件」に過ぎないようです……。
ついに外堀を埋め始めたセラフィナ様。
次回、**「偽聖女の奇跡、差し押さえにつき使用禁止」**。
追い詰められたシャーリーが繰り出す最後の切り札を、セラフィナ様がいかに「法的に」無効化するのか。
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