第15話:血の連判は賞味期限切れですわ
「……それが、貴女の切り札ですの? イザベラ様」
大広間の空気が、物理的な重さを伴って凍りつきました。
イザベラ様が掲げたその『血の連判状』。そこから放たれる禍々しい魔力は、アストレア家の血を引くわたくしの心臓を、冷たい指先で直接掴むかのような不快感をもたらしています。
周囲の貴族たちは、その圧倒的な「神の沈黙」を前にして、もはや呼吸の仕らすら忘れたかのように硬直していました。
「セラフィナ。この契約書に刻まれた紋章は、貴女の先祖が教皇庁の始祖に対し、『世界が滅びるその日まで、アストレアの知恵と富を神に捧げる』と誓った証。……貴女の所有権も、わたくしへの不渡り宣告も、すべてはこの大前提の上で無に帰しますわ」
イザベラ様の声が、聖堂の鐘のように響きます。
わたくしの足が、わずかに震えました。血に刻まれた「隷属の記憶」が、わたくしを玉座から引きずり下ろし、彼女の前に跪かせようと囁いています。
(……あら。……これが、わたくしの家系を縛り続けてきた、古臭い『負の遺産』の正体ですのね)
わたくしは、震える手で扇子を握り直し、それを自分の胸元へ強く押し当てました。
痛みが走ります。ですが、その痛みこそが、わたくしが生きている『現在』の証。
「アラリック。……手出しは無用ですわ」
抜剣しようとしたアラリック様を言葉で制し、わたくしはイザベラ様が掲げる「呪いの契約書」を、左目の鑑定眼で見据えました。
「……イザベラ様。貴方はこれを『永遠の奉仕』と呼びましたわね。……ですが、この世界に『永遠』などという不確かな勘定項目は存在いたしません。……どんなに巨大な契約であっても、必ず『有効期限』と『解約条項』が存在するはずですの」
「無駄ですわ。この契約は、神と血によって結ばれたもの。……貴女の卑しい法学で書き換えられるほど、安いものではなくてよ!」
イザベラ様が聖法典をさらに開くと、黒い鎖のような魔力がわたくしの手足に絡みつきました。
ですが、わたくしは笑いました。
扇子の隙間から、最高に冷酷で、最高に愉悦に満ちた微笑みを。
「……あら。……見つけましたわ。……イザベラ様、貴方、この契約書の『第十四条・付帯決議』を読み飛ばしていらっしゃいませんこと?」
「……何ですって?」
「読み上げて差し上げますわ。……『本契約は、神が人間に“加護”を与え、世界の秩序が保たれている場合に限り有効とする』。……イザベラ様。今のこの世界、教皇庁が裏で闇組織と結託し、王家から税を搾り取り、民を飢えさせているこの現状。……これのどこに『神の加護』がございますの?」
わたくしの言葉と共に、わたくしの手足を縛っていた黒い鎖に、パキパキとヒビが入り始めました。
「管理不足。……および、提供サービスの品質低下。……さらに、顧客(人間)に対する不当な搾取。……これらはすべて、提供側の重大な『契約違反』に該当いたします。……つまり、この血の連判状は、たった今、わたくしの手によって『債務不履行による契約解除』が成立いたしましたわ!」
「馬鹿な……! 神の契約を、人間が一方的に破棄するなど……そんな、あり得ない……っ!」
「あり得ますわ。……なぜなら、この契約の管理人は、代々アストレア家が務めてきたのですもの。……わたくしは、管理人としての権限を行使し、この不良化した契約を『シュレッダー(破棄)』させていただきます!」
わたくしが指先でパチン、と音を鳴らした瞬間。
イザベラ様の手の中で輝いていた血の連判状が、枯れ葉のように色褪せ、ボロボロと崩れ落ちていきました。
大広間を支配していた重圧が、嘘のように霧散します。
「あ……ああ……」
イザベラ様が、愕然として自分の空の両手を見つめました。
絶対的な正義を信じていた彼女の瞳に、初めて「計算外」という名の絶望が宿ります。
「……精算、完了ですわ。イザベラ様」
わたくしは、優雅に玉座の背もたれに寄りかかり、足を組みました。
「先祖の借金までわたくしに押し付けようとするなんて、随分と強欲な取り立て屋(審判官)ですこと。……ですが、わたくしは一ギルたりとも、無駄な負債は引き継がない主義ですの」
広間の隅では、地下から様子を伺っていたジュリアン様たちが、もはや言葉も出ない様子で腰を抜かしていました。
王家を潰し、教会を黙らせ、ついには歴史の呪いすらも「紙屑」に変えてしまった。
その光景は、もはや恐怖を通り越して、ある種の宗教的な「奇跡」に近いものとして貴族たちの目に映ったことでしょう。
「……負けましたわ、セラフィナ。……貴女の『所有権』は、私の『法』を超えたというのですか……」
「いいえ。……わたくしが超えたのは法ではありません。……『時代遅れの契約』ですわ。……さて、イザベラ様。敗者には敗者なりの、誠実な後始末を求めてもよろしいかしら?」
わたくしは、アラリック様が差し出した最後の一枚の書類……『王国譲渡証書』を広げました。
「お父様。……ジュリアン。……そしてイザベラ様。……これより、ルーンガルド王国の『最終清算』を開始いたします。……この国は、たった今、ノイシュタット帝国に……いえ、わたくし個人に『M&A(吸収合併)』されましたわ!」
わたくしの宣言が、朝焼けの光と共に国中に響き渡りました。
第一部、完結。
ルーンガルド王家、および教皇庁ルーンガルド支部。……これより、解体を執行いたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに「血の契約」すらも紙屑に変えてしまったセラフィナ様。
「管理不足のサービスには金を払わない」というあまりにも正論な契約解除……最高にスカッといたしましたわ。
さて、これにて「第一部:王城差押編」は完結となります。
次回、**「第16話:新しいオーナーの、優雅なる朝食」**。
国を買い取ったセラフィナ様が、隣国皇帝アラリック様と共に迎える新しい朝。
そして、物置部屋で「社員」となった王子たちの初出勤……。
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