第九章 卒業までの修行②
週に一度、アルドが学院に来た。
騎士団の視察、という名目だったが、実際の目的はエルセの訓練への協力——呪いに干渉する練習だ。
「失礼。エルセ殿との訓練の時間です」
セインが扉をノックして、ラングリット先生を下がらせる。
「今日は……あの霧に、制御しながら触れる練習をしてみます」
「分かった」
「痛くないですか」
「問題ない」
「では——」
手を触れた瞬間、あの感触が来た。皮膚の下の、重くて滞ったもの。でも今日は——以前よりずっと、霧の輪郭がはっきり感じられた。
(分かる。どこにあるか、どのくらいの密度か)
細く、隙間から。力を送る。
霧の一部が、薄れた。
「……変わりましたか」
「少し、軽くなった」
「よかった」
アルドが、かすかに目を細めた。何かを確かめるような顔をして、また前を向いた。
「エルセ」
「はい」
「無理をするな」
「してないですよ」
「今日の顔を見ると、昨日は眠れていないな」
「……よく分かりますね」
「毎日見ている」
それだけ言って、アルドは少し視線を逸らした。
(毎日?)
首を傾げかけたが、その先は聞けなかった。アルドが「本日はここまで」と立ち上がったから。
(……なんとなく、気になる言い方だった)
その夜も、あまり眠れなかった。
でも、理由は疲れではなかった気がした。
◆
三ヶ月が経った。
いつものように裏庭に行った。石段に腰を下ろした。
夕方の裏庭は変わっていない。野草が揺れて、蔦が壁に絡まって、石段の石が少し欠けているのも同じだ。
「……疲れたな」
声に出したら、草むらからざわ、と音がした。
「——え」
白い。
丸い。
もふもふが、草むらから出てきた。
「もふもふさん!?」
転がるように駆け寄ってきて、足に絡みついた。丸くてふわふわした体が、ぐいぐいと押しつけてくる。
「来てたの? 会いたかったよ~」
膝をついて、頭を撫でた。
白い毛並みに触れた瞬間——あの感触が来た。
皮膚の下の、重いもの。でも、以前より密度が分かる。輪郭が分かる。
(……治療の訓練で、感覚が鋭くなったんだ)
「もふもふさん、この霧——前より分かりやすくなりました」
低く、喉の奥で何かが鳴った。
「……試してもいいですか。ちょっとだけ」
もふもふさんは、首を縦に振った。
私は、手のひらに意識を向ける。
収束した力を、隙間から。細く。霧の輪郭を辿るように——。
光が滲んだ。
手のひらから、白い光が、もふもふさんの体に触れた。
霧が——今日は、いつもより速くほどけた。
「……あれ」
薄れる。薄れる。根元から引き抜かれるように。
「……すごい。訓練の効果が、こんなに」
その瞬間——もふもふさんの体が、揺れた。
「え?」
白い毛並みが、ぶれた。光が滲んで、溶けて——。
草の上に、人間が現れた。
黒髪。軍服。腰に下がった剣。
ゆっくりと開いた、黒い瞳。
「……え」
「……」
「……あの」
「……」
「もふもふさん……?」
ただ、静かに、こちらを見ていた。
「…………もふもふさん、じゃ、ない」
私は、その人をよく見た。
「ア……アルド様?」
アルドが、少し間を置いた。
「……ようやくか」
「…………」
世界が、ゆっくりと止まった。
「一時的ではあるが、呪いを解くことができたか。よくやった」
「……ありがとうございます」
「ただ、気づくのが遅いぞ」
「……すみません」
アルドが、息をついた。呆れているような——でもどこか、温かい音だった。
「謝るな」
「あの……もふもふさんって、アルド様だったのですか?」
「ああ、そうだが」
「そうだったんですね……」
(ちょっと待って。もふもふさん=アルド様 ってことは……)
「ということは……全部、聞いてたんですか。私が話していたこと、全部」
「全部」
「……騎士団長様への憧れも」
「聞いていた」
「本人に話していたんですか私」
「そうだ」
顔が、燃えるように熱くなった。
「最悪です……最悪最悪最悪……」
「なぜ」
「なぜって……!」
アルドが、かすかに——本当にかすかに、口元を動かした。
笑おうとして、やめた。そんな動きに見えた。
「……ずるい」
エルセは草の上に座ったまま、膝を抱えた。
「ずっと知ってたんですよね。私が気づいてないのを分かってて、黙って聞いてた」
「そうだ」
「なんで言ってくれなかったんですか」
少し間があった。
「……言えなかった」
「それは——呪いのことが機密だから、ですか」
「それもある。だが——」
アルドが、草の上に目を落とした。
「話しかけてくれるのが、嫌ではなかった」
「……」
「正体を告げれば、変わると思った。だから、言わなかった」
「変わるって……何が」
「お前の話し方が」
エルセは、しばらく黙っていた。
(それは、変わる。接し方も何もかも……)
(もし最初から知っていたら、あんなに素直に話せなかった)
「……まあ、確かに変わってましたね」
「そうだろう」
「知らなかったから言えたことも、ありますね」
「何が」
「……騎士団長様は格好いい、って」
(うわ、何言ってるんだろ私)
アルドが、今度こそ視線を逸らした。頬が、夕陽のせいだけではない色をしていた。
「……それは覚えておく」
「覚えないでください」
「無理だ」
エルセは膝に顔を埋めた。草の匂いがした。
「……一個だけ、聞いていいですか」
「なんだ」
「この呪い——どうしてかかったんですか」
アルドが、少し間を置いた。
「……聞くか」
「聞きたいです」
「長い話になる」
「時間はあります」
石段に並んで、アルドが話し始めた。
「一年前の秋。前線で、大型の魔物に遭遇した」
「……」
「通常の魔物とは違った。瘴気を纏っているだけでなく——呪いを放つ種類の魔物だった。部下を守るために、俺が前に出て、呪いを一身に受けた」
「一身に……」
「部下は全員、無事だった」
「……でも、アルドさんが」
「問題ない。そのための団長だ」
それだけ言った。何でもないことのように。
エルセは少し、胸が痛くなった。
「その後——毎夕、変身が始まった。前兆の三十分は、人前にいられない。会議も途中で抜ける。訓練も制限が出る。部下に理由を言うわけにもいかないから、セインにだけ話して、あとは——距離を置いた」
「それで、人付き合いが悪いと言われるようになったんですね」
「言われていたのは知らなかった」
「……みんな言ってましたよ」
「そうか」
「でも、理由を知ったら、誰も同じことは言えないと思います」
アルドが、エルセを見た。
「お前は言わなかった」
「何をですか」
「裏庭で、毎日話しかけてきた。怖がらなかった」
「もふもふさんは怖くなかったですから。かわいかったので」
「……かわいい、という言葉を使うな」
「なんで嫌なんですか。かわいかったじゃないですか」
「……」
「ふわふわで丸くて、アルド様とは真逆の生き物ですね」
「それ以上言うな」
エルセは少し笑った。泣き笑いみたいな、情けない顔で。
「……知らなかったとはいえ、いつももそばにいてくれてたんですね」
「俺が来ていたのは、呪いを軽くするためだ」
「そうだったんですね」
「幸運にも、本部の裏手に聖女学院があり、呪いを緩和できる人物と出会った」
「それが、私……」
「ああ……最初は、それだけだった」
「最初? 他の理由ができたのですか?」
アルドが、少しだけ間を置いた。
風が吹いて、草が揺れた。
「お前が初めて泣いた日……除籍かもしれない、って言った日だ」
(本当に心配してくれてたんだ)
「あの時、もふもふさんが寄りかかって慰めてくれましたよね」
「……慰めていない。ただそこにいただけだ」
「それが慰めですよ」
アルドは何も言わなかった。
でも、草の上の手が、少しだけ——私の手の近くに、動いた気がした。
「アルドさん」
「なんだ」
「これからも、来てくれますか。修行の協力で」
「もちろんだ」
「よかった」
夕陽が、裏庭をオレンジ色に染めていた。
石段に、二人の影が並んで伸びていた。
(ずっと、この人だったんだ)
(毎日待っていてくれた、この人が——ここにいる)
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