第六章 「魔界に捨てられた母子」
西の大陸――魔界。
三大国による合同遠征軍が帰還を始め、剣聖クラウスと魔法帝ヴァルディスが第二階域へ向かっていた頃。
荒れ果てた街道を、一台の荷馬車が進んでいた。
荷馬車の前後には武装した兵士が付き従い、その荷台には二人の母子が乗せられていた。
シリュウ・アルヴェイン、七歳。
そして、母セレナ。
アウラ王国の名門アルヴェイン公爵家から追放された二人だった。
厚い木板に囲まれた荷台には小さな窓しかなく、車輪が石を踏むたびに激しい振動が伝わってくる。
逃亡を防ぐため、休憩中も兵士たちの監視が続き、自由に外へ出ることさえ許されなかった。
「母様……」
母の腕に抱かれていたシリュウが、小さく声をかけた。
「なあに?」
「僕たち、どこに行くの?」
セレナは答えられなかった。
魔界。
千年前に破滅の魔神が封じられ、今なお無数の魔物が生息する危険な大陸。
夫ドランは、神力を持たない七歳の息子を、そんな場所へ捨てようとしている。
「……遠いところよ」
セレナは息子の黒髪を撫でた。
「でも、母様も一緒だからね」
「お家には帰れないの?」
胸が締めつけられた。
雨漏りのする古い離れ。
硬いパンと薄いスープしかない食卓。
それでも、シリュウにとっては母と三体の微精霊がいる、かけがえのない家だった。
「……ごめんね。もう、あのお家には帰れないの」
「どうして?」
「それは……」
「……父様が、そう言ったの?」
セレナの身体が強張った。
「僕が……いけない子だから?」
「違う!」
思わず声が大きくなった。
セレナは驚いた息子の頬を両手で包んだ。
「違うのよ、シリュウ。あなたは何も悪くない」
「でも……」
「あなたは、とても優しい子よ。母様にとって、何よりも大切な子なの」
セレナは息子を強く抱きしめた。
たとえ世界中の人間がこの子を忌み嫌おうとも、自分だけは決して見捨てない。
荷台の隅では、赤、青、金の三体の微精霊が静かに浮かんでいた。
「……みんなも一緒だよね?」
三つの光が小さく明滅する。
「ええ。みんな一緒よ」
セレナは微笑んだ。
だが、その胸には拭いきれない恐怖があった。
自分の力で、本当にこの子を守り抜けるのだろうか。
数日後。
荷馬車は第一階域を通過し、第二階域の深い森へと入っていた。
巨大な木々が空を覆い、湿った空気には腐葉土と獣の臭いが漂っている。
遠くからは魔物の咆哮が聞こえていた。
やがて荷馬車が止まった。
「降りろ」
兵士に促され、セレナはシリュウの手を引いて荷台から降りた。
周囲には見渡す限り森が続いている。
人家も、まともな道もない。
「……ここでございますか」
「公爵閣下からの命令だ。ここより先は自分たちで生きろ」
兵士たちは荷馬車の向きを変え始めた。
「お待ちください!」
セレナが声を上げた。
「せめて食料と水だけでも……この子はまだ七歳なのです!」
兵士たちの動きが止まった。
一人の若い兵士が、母の服を握りしめるシリュウを見つめた。
「……隊長」
「余計なことをするな。命令違反になる」
若い兵士は唇を噛んだ。
やがて腰から小さな水袋を外し、セレナの足元へ置いた。
「……これだけしかありません」
「ありがとうございます……」
セレナが深く頭を下げる。
若い兵士は何も答えず、荷馬車へ戻った。
馬が歩き始める。
シリュウは遠ざかる荷馬車を見つめていた。
「母様……僕たち、置いていかれるの?」
「……ええ」
「どうして?」
セレナは答えられなかった。
やがて荷馬車が木々の向こうへ消え、森には母子だけが残された。
「母様……怖い」
セレナは膝をつき、息子を抱きしめた。
「大丈夫よ。母様が必ず守るから」
そう言いながら、遠ざかった荷馬車の方角を見つめた。
ドラン。
あなたは、そこまでこの子が憎かったのですか。
生まれてから一度も父親の愛情を知らず、それでも懸命に生きてきたこの子を。
どうして、こんな場所へ捨てられるのですか。
込み上げる怒りと絶望を押し殺し、セレナは立ち上がった。
「行きましょう、シリュウ」
「……どこへ?」
「ここから出るのよ。二人で暮らせる場所を探しましょう」
シリュウは小さく頷いた。
三つの微精霊が、二人の周囲を飛び回る。
こうして、母子の命を懸けた逃避行が始まった。
第二階域の森は、想像以上に過酷だった。
太い木の根が行く手を塞ぎ、頭上を覆う枝葉が日の光を遮っている。
セレナは息子の手を引き、魔物との遭遇を避けながら歩き続けた。
彼女も僅かながら神力を扱えたが、その力量は初級に過ぎない。
複数の魔物に襲われれば、ひとたまりもなかった。
どれほど歩いただろうか。
アオォォォォン――。
遠くから狼の遠吠えが響いた。
「母様……」
「大丈夫よ。決して手を離さないでね」
「……うん」
三体の微精霊が落ち着かない様子で飛び回り始めた。
その時だった。
ガサリ。
背後の茂みが揺れた。
暗闇の中に、赤い瞳が浮かんでいる。
二つ、四つ、六つ。
次々と数を増やし、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼が姿を現した。
魔狼。
初級に分類される魔物だが、その体格と獰猛さは普通の狼とは比較にならない。
一体、二体、三体。
瞬く間に十体を超える群れとなった。
「シリュウ、走って!」
セレナが叫び、二人は走り出した。
背後から無数の足音が迫る。
しかし、七歳のシリュウでは魔狼たちから逃げ切れない。
一体が地面を蹴り、少年へ飛びかかった。
「シリュウ!」
セレナは息子を引き寄せ、神力を纏わせた腕で体当たりを受け止めた。
凄まじい衝撃に顔を歪めながらも、腰の短剣を抜き、魔狼の首元へ突き立てる。
「ギャウッ!」
魔狼が倒れた。
だが、群れは怯まない。
次々と襲いかかる魔狼を短剣で退けるたび、セレナの身体には傷が増えていった。
「母様!」
「大丈夫! 走って!」
自分一人なら戦えたかもしれない。
しかし、息子を守りながら群れを相手にすることは不可能だった。
セレナはシリュウの手を引き、必死に森を駆け抜けた。
枝が服を裂き、木の根に足を取られる。
それでも決して手を離さなかった。
やがて前方の岩壁に、黒い穴が見えた。
「洞窟……!」
二人は狭い入口へ駆け込み、奥の岩陰に身を隠した。
外では魔狼たちが唸り声を上げ、鋭い爪で岩を引っ掻いていた。
シリュウは震えながら母にしがみついた。
セレナは息子を抱き寄せ、声を出さないよう背中を撫で続けた。
長い時間が過ぎ、ようやく魔狼たちの気配が遠ざかった。
「……行った?」
「たぶん……大丈夫よ」
そう答えたセレナは、岩壁にもたれたまま座り込んだ。
短剣が手から滑り落ちる。
「母様!」
セレナの服は泥と血で汚れ、腕や肩には深い傷が刻まれていた。
それでも彼女は自分の傷には目も向けず、シリュウの身体を調べ始めた。
「……よかった。怪我はないわね」
「母様は血が出てるよ」
「これくらい平気よ」
セレナは笑った。
だが、その顔色は青白かった。
「……ごめんなさい」
「え?」
「もっと強い母様だったら、こんな怖い思いをさせなかったのに」
「母様は強いよ」
シリュウはすぐに答えた。
「僕、何もできなかった。でも母様はずっと僕を守ってくれた」
セレナの目に涙が浮かんだ。
「……ありがとう、シリュウ」
少年は母の肩へ身体を寄せた。
「母様。ここから出たら、また一緒に暮らせる?」
「もちろんよ」
「赤も青も金も一緒?」
「ええ。みんな一緒よ」
「じゃあ大丈夫。母様がいるから」
その言葉に、セレナは胸を締めつけられた。
せめて、この子だけは幸せにしてあげたかった。
温かい食事を食べさせ、柔らかな寝台で眠らせ、同じ年頃の子供たちと笑い合う姿を見たかった。
そんな当たり前の幸せさえ、与えてあげられなかった。
「……愛しているわ、シリュウ」
「僕も母様が大好き」
その夜、二人は身体を寄せ合って眠った。
三つの小さな光が、暗い洞窟を淡く照らしていた。
セレナは眠る息子の髪を何度も撫でながら、明日こそ安全な場所へ辿り着けることを願った。
それが、母と過ごす最後の夜になるとも知らずに。
翌朝。
二人は洞窟を出て、魔界の外を目指した。
だが、森は不気味なほど静まり返っていた。
昨日あれほど響いていた魔狼の遠吠えさえ聞こえない。
「母様、今日は魔物いないね」
「……そうね」
セレナは警戒を強めた。
その時だった。
ドンッ――。
地面を踏みつける重い音が響いた。
ドンッ、ドンッ――。
木々の間から、巨大な黒い影が現れる。
「……そんな」
セレナの顔から血の気が引いた。
体長四メートルを超える漆黒の巨狼。
頭部には湾曲した二本の角が生え、全身から黒紫色の瘴気が立ち昇っている。
魔狼王。
魔狼の群れを統率する中級魔物だった。
そして、その背後から昨日の魔狼たちが姿を現した。
右から、左から、そして後方からも。
二十体を超える魔狼が、二人を完全に包囲していく。
セレナは悟った。
昨日、自分たちは逃げ切ったのではない。
逃がされていたのだ。
「シリュウ……母様の後ろにいて」
短剣を構える。
昨日の傷は癒えておらず、神力も十分には残っていない。
それでも、背後には息子がいる。
退くわけにはいかなかった。
ヴァルガルムが低く唸る。
その合図に、左右の魔狼が同時に襲いかかった。
セレナは一体の喉を切り裂き、二体目を蹴り飛ばした。
しかし、三体目の牙が肩へ食い込む。
「ぐっ……!」
激痛に耐えながら短剣を振るう。
「母様!」
「来ちゃ駄目!」
その瞬間、ヴァルガルムが地面を蹴った。
巨体からは想像もできない速度で距離を詰め、巨大な前脚を横薙ぎに振るう。
「きゃあっ!」
セレナは短剣ごと弾き飛ばされ、太い木の幹へ激突した。
鈍い音が響く。
「母様!」
セレナは地面へ崩れ落ちた。
口元から血が流れ、身体が動かない。
それでも必死に息子へ手を伸ばそうとした。
「シリュウ……逃げ……」
言葉は途切れた。
ヴァルガルムが少年へ顔を向ける。
逃げなければならない。
だが、恐怖で足が動かなかった。
その時、赤、青、金の三体がシリュウを庇うように飛び出した。
赤が激しく発光し、ヴァルガルムの視界を奪う。
金が森へ向かって強く明滅すると、木々の間から無数の微精霊が集まってきた。
小さな炎が次々と放たれ、巨狼を包み込む。
しかし、その力はあまりにも弱かった。
ヴァルガルムが前脚を振り回すたび、微精霊たちが弾き飛ばされ、光を失っていく。
それでも、誰一人として逃げようとしなかった。
そんな中、青い微精霊が森の遠方から強い人間の気配を感じ取った。
助けを呼ばなければ。
青はシリュウを振り返り、赤と金へ光を向けた。
そして、意を決したように森の奥へ飛んでいった。
その頃。
第二階域の別の場所では、一人の男が大量の魔狼の死体を前にため息をついていた。
「……討伐より回収の方が面倒じゃねえか」
男の名は、ヘクトル・ヴァレウス。
魔界に最も近い都市エリュネに本部を置く、大陸連合特別戦技院の大隊長である。
黒髪はぼさぼさに伸び、顎には無精髭。
百九十センチ近い大柄な身体を持ち、常に煙草を咥えている。
大陸連合特別戦技院は、国家の垣根を越えて設立された実戦訓練機関だった。
だが、その実態は少々特殊だった。
神力を制御できない者。
危険な能力を持ち、周囲から隔離された者。
優れた才能を持ちながら、人との関わりを拒絶して引きこもる者。
各国が扱いに困った者たちが送り込まれる場所でもあった。
そして、その厄介者たちをまとめて任されているのがヘクトルだった。
もっとも、本人も相当な問題人物である。
酒と煙草を好み、暇さえあれば賭博に興じる。
今回の魔狼狩りも、賭博で作った借金を返済するためだった。
「次は絶対取り返す……」
まったく懲りていない。
そう呟きながら、魔狼の死体を魔法の袋へ放り込んでいた。
「こんなところで何をしているんだい?」
背後から声がした。
振り返ると、二人の男が立っていた。
剣聖クラウス。
そして、魔法帝ヴァルディス。
「……なんだ、お前らか」
「久しぶりだね、ヘクトル」
「おう。生きてたか、坊主」
クラウスが苦笑する。
「僕ももう子供じゃないんだけど」
「俺から見りゃ十分坊主だ」
ヴァルディスが豪快に笑った。
「ハッハッハ! 相変わらず薄汚い格好をしておるな!」
「お前は相変わらず派手すぎるんだよ」
「これが王者の風格というものだ!」
「ただの成金趣味だろ」
クラウスは積み上げられた魔狼を眺めた。
「それにしても、君が第二階域で魔狼狩りなんて珍しいね」
「金がねえんだよ」
「……また賭博?」
「悪いか」
「悪いに決まってるだろう」
ヴァルディスが愉快そうに笑う。
「ハッハッハ! 貴様ほどの男が借金返済のために魔狼を狩っておるとはな!」
「笑い事じゃねえんだよ」
ヘクトルは煙を吐き出した。
「それより、お前らこそ何してんだ? 合同遠征はどうした?」
「遠征は終わったよ。僕たちはエリュシア様の神託で来たんだ」
「……またかよ」
「第二階域に、僕たちにとって大切な存在がいるはずだから探してほしいってね」
「はず?」
「うん。はず」
ヘクトルは盛大にため息をついた。
「相変わらず適当だな、あの大精霊様は」
「僕もそう思うよ」
ヴァルディスが再び笑った。
「ハッハッハ! 剣聖ともあろう男が、またも大精霊の気まぐれに振り回されておるとはな!」
「笑い事じゃないよ。僕だって好きで来たわけじゃないんだから」
その時だった。
森の奥から、一筋の青い光が飛び出してきた。
「ん?」
青い微精霊は三人の前で急停止すると、激しく明滅し始めた。
「微精霊?」
クラウスが目を細める。
青い光は何度も森の奥へ飛んでは戻り、必死に三人の周囲を飛び回った。
ヴァルディスが眉をひそめる。
「……何かを訴えておるようだな」
青は強く輝くと、再び森の奥へ向かった。
少し進んだところで止まり、三人を待つように揺れる。
ヘクトルの表情が変わった。
「……おい。こいつ、助けを求めてるんじゃねえか?」
クラウスも頷いた。
「そのようだね」
「急ぐぞ!」
三人は青い光を追い、一斉に森へ駆け込んだ。
その頃。
シリュウの前で戦い続けているのは、赤と金だけになっていた。
森から集まった微精霊たちはほとんどが力尽き、周囲には僅かな光しか残っていない。
ヴァルガルムが巨大な前脚を振るった。
「赤!」
赤い光が地面へ叩きつけられる。
金も飛び込んだが、鋭い牙に弾き飛ばされた。
「金!」
シリュウが二つの光へ駆け寄ろうとした、その瞬間。
ヴァルガルムの爪が閃いた。
右腕に鋭い衝撃が走る。
目の前に、自分の右手が落ちていた。
「……え?」
次の瞬間、激痛が全身を貫いた。
「ああああああっ!」
切断された腕から血が噴き出す。
さらにヴァルガルムの爪が顔を走り、右目を深く切り裂いた。
視界が赤く染まり、シリュウは地面へ倒れた。
「痛い……母様……」
ヴァルガルムが巨大な口を開く。
鋭い牙が迫った、その瞬間だった。
誰かが覆い被さるようにシリュウを抱きしめた。
鈍い音。
温かい血が頬へ落ちる。
「……母様?」
セレナだった。
意識を取り戻した彼女が、最後の力を振り絞り、息子を庇っていた。
巨大な牙が、その身体へ深く食い込んでいる。
赤と金が同時に激しく輝き、ヴァルガルムの顔へ炎を放った。
「グルアアアアッ!」
巨狼が怒りの咆哮を上げ、二人から離れる。
セレナは腕の中の息子を見つめた。
失われた右手。
血に染まった右目。
その姿に涙が溢れた。
「シリュウ……ごめんね……」
「母様……?」
「守って……あげられなかった……」
「違うよ……母様はずっと僕を守ってくれた……」
「逃げて……」
「嫌だ!」
シリュウは残された左手で母の服を掴んだ。
「母様も一緒に行こう!」
セレナは悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね……母様は、もう一緒には行けない……」
「嫌だよ……」
「シリュウ……生きて……」
「一人は嫌だよ……」
「一人じゃないわ……」
セレナは赤と金へ目を向けた。
「あなたには、この子たちがいる……それに、いつかきっと……あなたを大切にしてくれる人に出会える……」
震える指が、息子の頬を撫でる。
「だから……生きて……」
「母様……?」
「生まれてきてくれて……ありがとう……」
その手から力が抜けた。
「……母様?」
返事はない。
「母様……起きて……」
シリュウは母の身体を揺らした。
いつもなら、名前を呼べば必ず返事をしてくれた。
どれほど疲れていても、笑いかけてくれた。
なのに、今日は何度呼んでも目を開けない。
「帰るんでしょ……?」
「二人で暮らせる場所、探すって言ったじゃないか……」
雨漏りのする離れで、寒い夜には抱きしめてくれた。
硬いパンしかない時も、自分に多く分けてくれた。
父にも兄にも愛されなかった自分を、ただ一人、愛してくれた。
「母様……」
涙が止まらなかった。
「母様あああああああああっ!」
七歳の少年の絶叫が、魔界の森に響き渡った。




