第三章 憎しみの芽生え
シリュウが五歳になった年のことだった。
その日、シリュウは離れの前にある小さな庭で、三つの微精霊と遊んでいた。
赤い光が勢いよく飛び回り、青い光がその後をゆっくりと追いかける。金色の光はシリュウの頭上をくるくると回り、時折、黒い髪の上に降りては楽しそうに跳ねていた。
「もう、くすぐったいよ」
シリュウが笑いながら手を伸ばすと、金色の光は指先を避けるように舞い上がった。
その時だった。
「おい」
聞き慣れない声に振り返ると、庭の入り口に一人の少年が立っていた。
濃い茶色の髪に、鋭い緑色の瞳。仕立てのよい衣服を身につけ、腰には訓練用の木剣を下げている。
アルヴェイン公爵家の長男、レオン・アルヴェイン。
シリュウより三歳年上の兄だった。
もっとも、シリュウがその顔を見るのは、これが初めてだった。
「お前が、あの化け物か」
少年は挨拶もせず、そう言った。
シリュウは意味が分からず、首を傾げた。
「……だれ?」
レオンの眉がぴくりと動いた。
「俺を知らないのか?」
「うん……」
「俺はレオン・アルヴェイン。この家の跡取りだ」
レオンは胸を張り、シリュウを見下ろした。
「父上から聞いたぞ。お前には神力がないんだってな」
シリュウは答えられなかった。
神力という言葉は知っていた。けれど、それが自分にないというだけで、どうして目の前の少年がこれほど嫌悪を露わにするのか分からなかった。
「それなのに、なんでお前みたいな奴がこの家にいるんだ?」
「……ぼくも、ここに住んでるから」
その瞬間、レオンの表情が険しくなった。
「お前が、俺と同じ家に住んでるだと?」
次の瞬間、拳が飛んできた。
頬に衝撃が走り、シリュウの小さな身体が地面へ倒れた。
「……いたっ」
何が起きたのか分からず、痛む頬を押さえる。
「勘違いするなよ。お前なんか、アルヴェイン家の人間じゃない」
起き上がろうとしたシリュウの腹に、レオンの足が突き刺さった。
「ぐっ……!」
息が詰まり、身体が丸まる。
「父上が言ってたぞ。お前は魔物と同じなんだってな」
レオンは倒れたシリュウを見下ろし、嘲笑った。
「魔物は人間の敵なんだ。だから、お前も俺たちの敵なんだよ」
「……ちがう」
「あ?」
「ぼく……魔物じゃ、ない……」
レオンの笑みが消えた。
「化け物のくせに、口答えするな!」
再び腹を蹴られ、シリュウは苦痛に顔を歪めた。
「ご……ごめんなさい……」
「何を謝ってるんだよ。気持ち悪いな」
謝っても、暴力は止まらなかった。
何度も殴られ、蹴られ、立ち上がろうとするたびに地面へ倒された。
痛かった。怖かった。
それでも、シリュウは泣くのを必死にこらえた。
泣けば、母様が心配する。
母様はいつも、自分のために無理をしている。
だから、自分も泣いてはいけないと思った。
やがてレオンは、動けなくなったシリュウを見下ろして鼻を鳴らした。
「二度と俺に逆らうなよ、化け物」
そう言い残し、庭を去っていった。
足音が遠ざかっても、シリュウはしばらく動けなかった。
赤い微精霊がレオンの去った方角へ飛んでいこうとしたが、シリュウは震える手を伸ばして呼び止めた。
「……だめ」
赤い光が戻ってくる。
青い光は傷ついた頬に寄り添い、金色の光は心配そうに頭上を回っていた。
「……だいじょうぶ」
三つの光に向かって笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
頬を伝う涙を拭い、シリュウは小さく呟いた。
「……母様には、言わないでね」
三つの光が、静かに寄り添った。
夕暮れが近づいた頃、シリュウは離れへ戻った。
「おかえりなさい、シリュウ。今日は何をして……」
振り返ったセレナの言葉が途切れた。
「……シリュウ!?」
頬は赤く腫れ、唇の端には乾いた血が付着している。衣服は土に汚れ、歩く足取りもおぼつかなかった。
セレナは慌てて駆け寄った。
「どうしたの、その顔!」
「……ころんだの」
シリュウは小さく笑おうとした。
「お庭で遊んでて……」
セレナは息子の顔を見つめた。
転んだだけで、これほどの傷ができるはずがない。
「シリュウ。母様の目を見て」
シリュウは俯いた。
「誰かに、叩かれたのね?」
小さな肩が震えた。
「……レオンっていう人」
セレナの表情が強張った。
「……レオン?」
「うん。アルヴェイン家の跡取りだって……」
レオンはドランと第一夫人エレノアの間に生まれた嫡男であり、シリュウとは一度も顔を合わせたことがなかったはずだ。
「その子が……何をしたの?」
「ぼくのこと、化け物だって……。何回も殴って、蹴って……」
シリュウは小さな手を握りしめた。
「ぼく、謝ったんだけど……やめてくれなかった」
「……そんな……」
「母様……ぼく、何か悪いことしたのかな……?」
その問いに、セレナの胸が締めつけられた。
まだ五歳の、抵抗することさえできない幼い子供を、同じ父親の血を引く兄が痛めつけたというのか。
セレナは震える手で息子を抱き寄せた。
「あなたは何も悪くないわ」
「……でも、ぼくには神力がないから……」
「そんなことは関係ない!」
思わず強い声が出た。
シリュウの肩がびくりと震える。
「……ごめんなさい。あなたを怒ったんじゃないの」
セレナは優しく背中を撫でた。
「神力があってもなくても、あなたは私の大切な息子よ。誰にも、あなたを傷つける権利なんてないの」
シリュウは母の胸に顔を埋めた。
「……母様、ぼく……あの人が怖い」
セレナは息子を強く抱きしめた。
「大丈夫。母様が守るから」
しかし、その言葉を口にしながら、彼女自身が自分の無力さを痛感していた。
翌朝、セレナは本邸を訪れた。
息子を傷つけたのがレオンである以上、第一夫人エレノアに直接抗議する必要があると考えたのだ。
豪奢な応接室では、エレノアが優雅に茶器を傾けていた。
艶やかな金髪に琥珀色の瞳。美しく整った顔立ちには気品が漂っているが、セレナを見る眼差しには隠そうともしない侮蔑があった。
「それで、何の用かしら?」
「レオン様のことで、お話がございます」
セレナは深く頭を下げた。
「昨日、レオン様がシリュウに暴力を振るわれました。まだ五歳の子供です。どうか、今後このようなことがないよう、お取り計らいいただけないでしょうか」
エレノアはしばらく無言で見つめていた。
やがて、薄い笑みを浮かべた。
「……それで?」
「……はい?」
「レオンはアルヴェイン公爵家の跡取りです。神力も持たない出来損ないに、多少の躾をしたところで何か問題があるのかしら?」
セレナの指先が震えた。
「……躾、でございますか?」
「ええ。むしろ感謝してほしいくらいですわ」
エレノアは冷ややかに微笑んだ。
「あなたの息子が、どれほどこの家にとって恥ずべき存在なのか、教えてあげたのでしょう?」
「……恐れながら、エレノア様。シリュウは何も悪いことをしておりません」
「口を慎みなさい」
エレノアの声が鋭くなった。
「ドラン様の温情で、あの離れに住まわせてもらっている身でしょう。それを忘れて、私の息子に非があるとでも言いたいの?」
セレナは唇を噛みしめた。
言い返したかった。
しかし、ここで逆らえば、息子の生活がさらに脅かされるかもしれない。
「……どうか、お願いいたします。せめて、あの子に手を上げることだけは……」
エレノアは冷たい目で見下ろした。
「あなたが教育するべきなのは、レオンではなく自分の息子でしょう」
それだけ告げると、背を向けた。
「下がりなさい」
セレナは怒りと屈辱に震えながらも、深く頭を下げるしかなかった。
それから、レオンは幾度となく離れを訪れるようになった。
決まって、セレナが本邸へ出向いている時間だった。
「おい、化け物。出てこいよ」
その声が聞こえるたび、シリュウの身体は強張った。
戸を閉めて息を潜めていても、レオンは容赦なく扉を叩く。
仕方なく外へ出れば、待っているのは暴力だった。
ある日は訓練用の木剣で腕や脚を打たれ、別の日には庭の水桶を蹴り倒された。
「ほら、避けてみろよ!」
レオンが振り下ろした木剣が、シリュウの肩を打った。
「痛っ……!」
「ははっ! こんなのも避けられないのか!」
レオンは父ドランから槍術の指導を受けていた。神力によって身体能力を高められるレオンと、何の訓練も受けていないシリュウでは、比べることさえできなかった。
シリュウが倒れると、レオンは木剣の先で身体を小突いた。
「立てよ。まだ終わってないぞ」
答えれば殴られる。
黙っていても殴られる。
何をしても、結局は同じだった。
やがてシリュウは、庭で遊んでいても物音がすれば振り返り、誰かの足音が近づくだけで身体を震わせるようになった。
三つの微精霊も、以前のように無邪気に飛び回ることが少なくなった。
赤い光はレオンが現れるたびに激しく明滅し、青い光は傷ついたシリュウに寄り添い、金色の光は二人の間を落ち着きなく飛び回っていた。
そんな息子の変化に、セレナが気づかないはずがなかった。
彼女は何度もエレノアへ抗議したが、取り合ってもらえることはなかった。
離れで暮らす母子には十分な食料も生活用品も与えられておらず、必要な物を受け取るには本邸へ出向かなければならない。
息子を一人にしないよう努めても、限界があった。
ついにセレナは、ドランへ直接訴えることを決意した。
ドランは執務室で書類に目を通していた。
セレナが事情を説明している間も、一度として顔を上げなかった。
「……以上でございます」
「それで?」
短い問いだった。
「シリュウはレオン様から繰り返し暴力を受けております。どうか、お諫めいただけないでしょうか」
「子供同士の喧嘩だろう」
「喧嘩ではございません!」
思わず声が大きくなった。
「シリュウはまだ五歳です! 抵抗することもできず、一方的に殴られているのです!」
ドランの目が細められた。
「……セレナ。私に向かって声を荒らげるとは、随分と偉くなったものだな」
「……申し訳ございません」
「そもそも、神力すら持たぬあれを、この家に置いてやっているだけでも感謝するべきではないのか?」
セレナは顔を上げた。
「……あれ、とは」
「シリュウのことだ」
ドランは何の感情も込めずに答えた。
「レオンはアルヴェイン家の正統な後継者だ。神力を持たぬ出来損ないと同列に扱うつもりはない」
「ですが、あの子もあなたの息子です!」
ドランは冷たく言い放った。
「……あれが私の息子であることこそ、最大の汚点だ」
セレナは言葉を失った。
「レオンが何をしているかは知っている。だが、私が止める理由はない」
「……ご存じだったのですか?」
セレナの顔から血の気が引いた。
この男は知っていたのだ。
息子が何度も殴られ、恐怖に怯えていることを。
それでも、何とも思っていない。
「……どうか、せめて命に関わるようなことだけは……」
セレナは最後の望みを込めて頭を下げた。
「七歳の鑑定までは置いてやる。それ以上のことを望むな」
ドランは再び書類へ視線を戻した。
「話は終わりだ。下がれ」
セレナは震える拳を握りしめた。
夫としての愛情など、とうに期待していなかった。
それでも、父親としての情が少しは残っているのではないかと信じていた。
だが、それは間違いだった。
「……失礼いたします」
深く頭を下げ、執務室を後にした。
それから数か月が過ぎた。
レオンによる暴行は、相変わらず続いていた。
その日も、シリュウは離れの庭でレオンに捕まっていた。
「おい、化け物。今日は少し面白いことをしてやるよ」
レオンは右手を持ち上げた。
その掌に、淡い光が集まる。
神力だった。
「父上から教わったんだ。神力を身体に巡らせれば、普通の人間よりずっと強くなれるんだぞ」
レオンは得意げに笑った。
「まあ、お前には一生できないだろうけどな」
シリュウは何も答えなかった。
「聞いてるのか!」
胸ぐらを掴まれ、神力によって強化された拳が腹部に叩き込まれた。
「がっ……!」
これまでとは比べものにならない衝撃だった。
小さな身体が後方へ吹き飛び、地面を転がる。
「すげえ……! こんなに違うのか!」
レオンは自分の拳を見つめ、満足そうに笑った。
シリュウは腹を押さえ、必死に呼吸しようとしていた。
「ほら、立てよ!」
「……もう、やめて……」
「何だよ。まだ一発だろ?」
再び拳を振り上げた、その時だった。
「やめなさい!」
鋭い声が庭に響いた。
振り返ると、セレナが立っていた。
「シリュウ!」
手にしていた籠を放り出し、駆け寄る。
「大丈夫!? しっかりして!」
苦しそうに息をする息子を抱き起こし、その身体を庇うようにレオンへ向き直った。
「レオン様! 何をなさっているのです!」
「何だよ。稽古してただけだろ」
「五歳の子供を神力で殴ることが稽古だとおっしゃるのですか!」
「うるさいな。父上だって、弱い奴は鍛えなきゃいけないって言ってたぞ」
「シリュウはあなたの稽古相手ではありません!」
セレナは息子を抱きしめる腕に力を込めた。
「……もう二度と、ここへ来ないでください」
レオンの顔が険しくなった。
「父上に言いつけてやるからな!」
そう吐き捨て、庭を出ていった。
セレナは息子を抱き寄せた。
「シリュウ……ごめんなさい……」
「……母様」
「なあに?」
「ぼくのせいで……また、母様が怒られちゃう……」
セレナは何も答えられなかった。
翌日、セレナとシリュウは本邸へ呼び出された。
第一夫人エレノアの私室には、レオンも同席していた。
「セレナ。昨日、私の息子に随分と無礼なことを言ったそうですね」
「……レオン様が、シリュウに神力を用いて暴力を振るわれていたため、止めに入っただけでございます」
「それで、レオンに二度と来るなと言ったの?」
「……はい」
エレノアは冷ややかに笑った。
「あなた、本当に自分の立場を理解していないようね」
セレナはシリュウの手を握りしめた。
「……ですが、あの子はまだ五歳です。どうか、これ以上の暴力だけは……」
「またその話?」
エレノアは露骨に顔をしかめた。
「神力を持たない出来損ないを、いつまで庇い続けるつもりなのかしら」
シリュウが母の手を強く握った。
「……シリュウは、出来損ないなどではありません」
セレナは息子を庇うように前へ出た。
「神力がなくても、あの子は私の大切な息子です。どうか、そのような呼び方は……」
「黙りなさい!」
鋭い声とともに、エレノアの掌に赤い炎が灯った。
神力によって生み出された炎だった。
「あなたも、その息子も、本当に目障りね」
セレナは息を呑んだ。
「エレノア様……!」
シリュウは母の背中を見つめていた。
また母様が怒られている。
自分を守ろうとして、責められている。
どうして、母様がこんな目に遭わなければならないのだろう。
「……やめて」
小さな声だった。
エレノアが視線を向けた。
「……何か言ったかしら?」
シリュウは震える足で一歩前へ出た。
「……母様を、いじめないで」
「シリュウ……!」
セレナが振り返った。
シリュウは怖かった。
それでも、母が侮辱されることだけは我慢できなかった。
「母様は……悪くない!」
その瞬間、エレノアの顔が怒りに歪んだ。
「この……出来損ないが!」
掌から赤い炎が放たれた。
「シリュウ!」
セレナが叫んだ。
しかし、間に合わなかった。
炎はシリュウの小さな身体を正面から呑み込んだ。
「いやああああっ!」
絶叫が室内に響き渡った。
熱風が衣服を焼き、露出した肌を容赦なく襲う。
シリュウは反射的に両腕で顔を覆ったが、炎は腕から肩、胸、背中、脚へと広がり、全身を焼きつけた。
「熱い! 熱いよ! 母様ああっ!」
逃げようとしても足が動かない。
息を吸おうとすれば、熱い空気が喉を刺す。
身体中が燃えるように痛かった。
「やめて! お願い、やめてええっ!」
セレナは我を忘れて飛び込んだ。
自分の腕が焼けることも構わず、息子を抱きしめ、燃える衣服を必死に押さえつける。
床へ倒れ込み、身体を覆うようにして炎を消した。
「シリュウ! シリュウ!」
ようやく炎が消えた時、セレナの腕の中でシリュウは激しく震えていた。
衣服は焼け焦げ、両腕や胸元、背中、脚には赤黒く変色した火傷が広がっている。顔の一部まで熱に晒され、身体を動かすことさえできなかった。
「……母……さま……」
「ここにいるわ! 母様はここにいるから!」
セレナは泣きながらエレノアへ顔を向けた。
「治癒術師を! 今すぐ治癒術師を呼んでください!」
「……大袈裟ね」
「この子が! こんなに苦しんでいるのに!」
エレノアは冷たい目で見下ろした。
「無礼な口を利いた罰でしょう。私に逆らうからそうなるのよ」
セレナは耳を疑った。
目の前で幼い子供が死にかけている。
それなのに、この女は何とも思っていないのだ。
「……お願いです」
セレナは息子を抱きしめたまま、床に頭を下げた。
「私が悪かったのなら、いくらでも謝ります。どんな罰でも受けます。ですから……どうか、この子だけは助けてください……!」
「下がりなさい。これ以上、私の部屋を汚さないでちょうだい」
その隣では、レオンが焼け焦げたシリュウを見つめていた。
先ほどまでの笑みは消えていたが、助けようとする様子はなかった。
セレナは悟った。
ここにいても、誰も息子を助けてはくれない。
「……シリュウ、帰ろうね」
傷ついた身体をそっと抱き上げる。
「母様が、絶対に助けるから……」
シリュウは苦痛に顔を歪め、小さく呻いた。
離れへ戻ったセレナは、すぐに火傷を冷やし始めた。
しかし、傷はあまりにも広範囲に及んでいた。
両腕、肩、胸、背中、脚。全身のあちこちが赤く腫れ、一部は深く損傷している。
「……痛い……母様……」
「ごめんね……ごめんね、シリュウ……」
セレナは涙をこらえながら、濡らした清潔な布で傷を冷やし続けた。
自分の腕にも火傷ができていたが、そんなことはどうでもよかった。
だが、夕方になるとシリュウは高熱を出し、夜には激しく震え始めた。
「……寒い……」
セレナは毛布を掛けようとしたが、傷ついた肌に触れるだけでシリュウは泣き叫んだ。
「痛いっ……! 母様、痛い……!」
「ごめんなさい! ごめんなさいね……!」
抱きしめてあげたいのに、抱きしめれば傷つけてしまう。
セレナには、ただ息子のそばで名前を呼び続けることしかできなかった。
翌朝、彼女は本邸へ駆け込み、治癒術師を呼んでほしいと何度も頭を下げた。
しかし、第一夫人の許可がないという理由で拒絶された。
「お願いです! 息子はまだ五歳なのです! このままでは……!」
必死に訴えても、誰一人として助けてはくれなかった。
セレナは絶望を押し殺し、離れへ戻った。
息子が待っている。
泣いている時間などなかった。
二日目の夜。
シリュウの熱は下がらなかった。
「……母様……」
「なあに、シリュウ?」
「……ぼく……しんじゃうの……?」
セレナの心臓が凍りついた。
「死なないわ! 絶対に死なせない! 母様がついているから……!」
シリュウはぼんやりと母を見つめた。
「……ほんと……?」
「本当よ。だから、お願い……頑張って……」
セレナは息子の手を握ろうとした。
しかし、その手にも火傷が広がっていた。
触れることさえできない。
セレナは両手で口元を覆い、声を殺して泣いた。
三日目には、シリュウはほとんど声を出さなくなった。
呼びかけても反応が鈍く、時折、苦しそうな呼吸が聞こえるだけだった。
「シリュウ……?」
返事がない。
「お願い……目を開けて……!」
何度も名前を呼び続け、ようやく薄く瞼が開いた時、セレナはその場に崩れ落ちた。
「……よかった……」
涙が止まらなかった。
その夜、青い微精霊がシリュウの胸元へ降り、淡い光で傷ついた身体を包んでいた。
赤い光は落ち着きなく飛び回り、金色の光は枕元で静かに瞬いている。
「……お願い。この子のそばにいてあげて……」
セレナが囁くと、三つの光は応えるように明滅した。
そして、四日目の朝。
ようやくシリュウの熱が下がり始めた。
「……母様……」
かすれた声に、セレナは慌てて顔を近づけた。
「シリュウ……!」
「……お水……」
セレナは震える手で器を取り、少しずつ水を飲ませた。
「……おいしい……」
その一言を聞いた瞬間、セレナの目から大粒の涙がこぼれた。
「……よかった……本当に……よかった……!」
まだ安心できる状態ではなかった。
それでも、息子は生きていた。
その後も数日間、セレナはつきっきりで看病を続けた。
シリュウが自分の足で立てるようになったのは、さらに何日も経ってからだった。
しかし、傷が塞がっても、火傷の痕は消えなかった。
両腕から肩、胸、背中、脚にかけて、赤黒く変色した肌が残った。
特に右腕と背中の傷は深く、以前の滑らかな肌には戻らなかった。
ある日の夕方。
セレナが傷の手当てをしていると、シリュウがぽつりと尋ねた。
「……母様」
「なあに?」
「……これ、ずっと残るの?」
セレナは一瞬、言葉に詰まった。
「……そうね。少し、残ってしまうかもしれないわ」
「……そっか」
シリュウは小さく頷いた。
「……ごめんなさい、シリュウ」
「……どうして?」
「母様が、あなたを守れなかったから……」
シリュウは母を見上げた。
「……母様は、悪くないよ」
「……シリュウ……」
「ぼく、知ってるよ。母様、ずっとそばにいてくれたもん」
小さな手を伸ばし、母の頬に触れる。
「だから……泣かないで」
セレナはとうとう涙をこらえきれなくなった。
息子を抱きしめたい。
けれど、まだ傷が痛む。
そのため、そっと額を寄せることしかできなかった。
「……ありがとう……シリュウ……」
それから、シリュウは少しずつ日常を取り戻していった。
しかし、以前と同じようには戻れなかった。
夜になれば炎に包まれた恐怖が蘇り、傷の痛みで目を覚ますこともあった。
そして、何よりも忘れられないものがあった。
母様が、泣いていた。
何日も眠らず、自分のそばにいてくれた。
何度も頭を下げ、助けを求めてくれた。
それなのに、誰も助けてくれなかった。
ある夜、シリュウはセレナに尋ねた。
「……母様」
「なあに?」
「……父様は、ぼくが怪我したこと、知ってるの?」
セレナの手が止まった。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
「だって……父様は、強いんでしょう?」
シリュウは以前、母から聞いた話を思い出していた。
父ドランは、とても強い人なのだという。
「……強い人なら、母様を守れるんじゃないの?」
セレナは答えられなかった。
「ぼくが殴られても……母様が泣いてても……どうして、助けてくれないの?」
幼い声には、責めるような響きはなかった。
ただ、純粋に理解できなかったのだ。
父親というものは、家族を守る存在ではないのだろうか。
それとも、自分たちは家族ではないのだろうか。
セレナは息子の髪を優しく撫でた。
「……ごめんなさい」
それ以上、何も言えなかった。
シリュウは母の悲しそうな顔を見て、もう聞かないことにした。
その夜。
セレナが眠りについた後も、シリュウは目を閉じることができなかった。
薄い布団の中で、火傷の痕が残る右腕を見つめる。
赤い微精霊がその腕の近くを飛び、青い光は頬に寄り添い、金色の光は枕元で静かに瞬いていた。
シリュウは三つの光へ小さく笑いかけた。
「……ありがとう」
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
頭に浮かぶのは、レオンの顔だった。
何度も殴られ、蹴られ、笑われた。
謝っても、許してもらえなかった。
そして、父ドラン。
自分が何度傷つけられても、助けてくれなかった。
母様が何度お願いしても、何もしてくれなかった。
エレノアは、自分の身体を炎で焼いた。
死んでしまうほど苦しかったのに、助けようともしなかった。
以前のシリュウは、ずっと考えていた。
自分が何か悪いことをしたのだろうか。
謝れば、許してもらえるのだろうか。
けれど、もう違った。
何度謝っても、暴力は止まらなかった。
母様がお願いしても、誰も助けてくれなかった。
シリュウは布団の中で、小さな拳を握りしめた。
「……きらい」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
「……あの人たち、きらい……」
怖かった。
もう二度と会いたくなかった。
それなのに、思い出すたびに胸の奥が熱くなる。
自分を傷つけたことも許せなかった。
けれど、それ以上に、母様を泣かせたことが許せなかった。
シリュウは隣で眠る母を見つめた。
看病を続けたせいで、セレナは以前よりも痩せていた。
目の下には疲労の色が残り、手には何度も水仕事をした痕があった。
自分のために、こんなに苦労してくれた母様。
それなのに、自分は何もできなかった。
「……母様」
眠っている母へ、小さく呼びかける。
シリュウはそっと母の手に触れた。
「……ぼく、強くなるから……」
声が震えた。
「もう……母様を泣かせないから……」
赤い微精霊が激しく明滅し、青い光は傷ついた腕に寄り添い、金色の光は母子を包むようにゆっくりと舞った。
シリュウは母の手を握ったまま、静かに目を閉じた。
母と三つの光だけで満たされていた、かつての温かな世界。
その世界を踏みにじった者たちへの怒りは、消えることのない傷とともに、少年の胸の奥へ深く刻まれていた。
それは、五歳のシリュウが初めて抱いた、明確な憎しみだった。




