第二章 母と三つの光
シリュウと母セレナに与えられた住まいは、本邸から遠く離れた古い離れだった。
同じアルヴェイン公爵家の敷地内にありながら、そこには名門貴族の暮らしを思わせるものなど何一つなかった。
本邸は幾重にも連なる瓦屋根と、磨き上げられた太い柱が威容を誇る壮麗な屋敷だった。広々とした座敷には精緻な彫刻を施した欄間が並び、長い廊下からは手入れの行き届いた庭園を望むことができる。
大勢の使用人が忙しく行き交い、食卓には毎日、食べきれないほどの料理が並んでいた。
一方、離れの扉を開けば、鼻をつくのは湿ったカビの臭いだった。
古い木造の壁には無数のひびが走り、ところどころ板が腐っている。雨の日には天井から水が滴り、冬になれば暖炉の火さえ頼りにならないほどの隙間風が吹き込んだ。
家具も長年使い古されたものばかりで、寝台は軋み、椅子は脚が一本ぐらついていた。
そして、使用人は一人もいなかった。
本来、公爵夫人ともなれば何人もの侍女が付き従う。しかし、第二夫人であるセレナの側には誰もおらず、料理や掃除、洗濯に水汲みまで、すべてを一人でこなさなければならなかった。
冬の朝には、井戸から汲み上げた水が指先を刺すほど冷たくなる。洗濯を終える頃には手の感覚がなくなり、荒れた指の関節には小さなひびが走っていた。
それでもセレナは、毎朝欠かさず息子の服を洗い、綻びを繕い、少しでも暖かく過ごせるよう寝具を整えた。
表向きは静養のための離れとされていたが、実際には隔離に等しかった。
魔力を持って生まれた子供とその母親を、アルヴェイン公爵家から遠ざけるための場所。
父ドランは一度として離れを訪れず、息子の顔を見ようともしなかった。
二人に与えられる食事もまた、公爵家の人間に出されるものとは到底思えなかった。
硬くなったパンに、具がほとんど入っていない薄いスープ。それだけで一日の食事を済ませなければならないことも珍しくない。
肉など滅多に出ず、果物に至っては、シリュウはほとんど見たことすらなかった。
セレナは何度も本邸へ向かった。
「この子はまだ成長期なのです。せめて新鮮な野菜と卵を少し分けていただけませんか」
厨房の使用人へ頭を下げる。
かつてなら、公爵夫人が使用人へ頭を下げるなど考えられないことだった。
それでもセレナは、息子のためなら何度でも頭を下げた。
「旦那様から許可されておりませんので」
「少しだけで構いません。あの子はまだ小さいのです」
「申し訳ございません」
「では……この余った野菜だけでも」
セレナの視線の先には、調理台の端に積まれた野菜の切れ端があった。形が悪いというだけで捨てられるものも混じっている。
使用人は困ったように視線を逸らした。そして、周囲に聞こえないよう小さな声で告げた。
「……あの子には余計な物は与えるなと、旦那様から」
セレナの表情が固まった。
「あの子」と呼ばれたのは、紛れもなく自分の息子だった。
公爵家の血を引く子供でありながら、名前すら呼んでもらえない。
魔力を持つ異物。公爵家の汚点。
本邸に住む者たちは、シリュウをそのように扱っていた。
セレナは唇を噛みしめたが、使用人を責めることはしなかった。命令に背けば、この者も罰せられるかもしれない。
「……分かりました。お時間を取らせて申し訳ありません」
深く頭を下げ、厨房を後にする。
離れへ戻る道すがら、セレナは何度も足を止めた。悔しさに涙が滲んでも、息子の待つ家へ帰る頃には、いつもの穏やかな顔に戻っていなければならなかった。
その後も彼女は庭師や顔見知りの使用人を頼り、傷んだ野菜の切れ端や、捨てられるはずだった食材を少しずつ分けてもらった。
食べられる部分を丁寧に切り取り、鍋で柔らかく煮込む。わずかな食材でも、息子が少しでも喜んでくれるよう工夫を重ねた。
そんな暮らしの中で、五年の月日が流れた。
五歳になったシリュウは、艶のある黒髪と、黒い瞳の奥に十字の形をした不思議な瞳孔を持つ少年だった。
整った顔立ちは母譲りで、本来なら誰もが目を留めるほど美しく成長していただろう。
しかし、その小さな身体には、長年の栄養不足がはっきりと表れていた。
同じ年頃の子供たちより背は低く、細い腕や脚にはほとんど肉がついていない。服の下には肋骨がうっすらと浮き、健康な少年とは到底言えない姿だった。
そして、それは母のセレナも同じだった。
長い銀色の髪と、澄んだ青紫色の瞳。公爵家の第二夫人となる以前から、その美貌で知られていた女性だった。
今でも、その面影は失われていない。
けれど、かつて艶やかだった銀髪は少しずつ輝きを失い、頬は痩せ、以前なら身体に合っていたはずの服にも余りが目立つようになっていた。
それでも、シリュウの前ではいつも優しく微笑んでいた。
ある日の夕食。
古びたテーブルには、二つの皿が並んでいた。
具のほとんど入っていない薄い野菜スープと、小さなパン。それが、その日の夕食のすべてだった。
シリュウは自分の皿に置かれたパンを見つめ、それから母の皿へ視線を移した。
母のパンの方が、ほんの少しだけ大きかった。
セレナは息子の視線に気づくと、自分のパンを手に取り、半分に割って大きい方を差し出した。
「シリュウ、これも食べなさい」
「……母様のは?」
「私はお昼にたくさんいただきましたから、大丈夫ですよ」
そう言って微笑む母の顔を、シリュウはじっと見つめた。
嘘だと分かっていた。
今日も母は朝から洗濯や掃除に追われ、昼になっても何も口にしていない。シリュウはずっと一緒にいたのだから、それを知らないはずがなかった。
最近、母の頬が以前より痩せたことにも気づいていた。抱きしめてもらうたびに、昔より腕が細くなったように感じる。
それでも母は、食事のたびに自分の分をシリュウへ分け与えようとする。
母様は、僕にお腹いっぱい食べてほしいんだ。
シリュウには、その気持ちが分かっていた。
だからこそ、受け取れなかった。
「僕、お腹いっぱいだよ」
「でも、ほとんど食べていないでしょう?」
「本当だよ。今日はあんまりお腹が空いてないんだ」
シリュウは笑ってみせた。
セレナは差し出したパンを持ったまま、息子の顔を見つめていた。
小さな身体がどれほど空腹を訴えているか、母親である彼女には分かっている。
けれど、無理に食べさせようとすれば、この子はきっと自分の分まで返そうとするだろう。
「遠慮しなくていいのですよ。母様は本当に大丈夫ですから」
「……じゃあ、僕も大丈夫」
シリュウは自分のパンを半分に割ると、その片方を母の皿へ置いた。
「だから、母様が食べて」
「シリュウ……」
「母様だって、お腹が空くでしょ?」
セレナは返す言葉を失った。
まだ五歳の息子が、自分の空腹よりも母親の身体を心配している。
本当なら、食べ物の心配などさせずに育ててやりたかった。欲しいものを欲しいと言い、お腹が空いたら素直にそう言える子供でいてほしかった。
それなのに、この子はもう、自分の気持ちを隠して母親を気遣うことを覚えてしまっている。
セレナは膝の上で左手を握りしめた。荒れた指先が掌に食い込む。
「僕、本当にいらないから」
シリュウはもう一度笑った。
その瞬間だった。
ぐぅ――。
静かな部屋に、シリュウのお腹の音が大きく響いた。
「…………」
シリュウは固まった。
セレナも思わず息子を見つめる。
みるみるうちにシリュウの顔が赤くなり、その横で赤い微精霊がピカッと強く光った。
「……笑った?」
赤い光が、ピカピカと明滅する。
「笑ったよね!?」
赤は否定するどころか、ますます激しく光りながらシリュウの周囲を飛び回った。
その様子につられるように、青い微精霊まで小刻みに揺れ始める。
「青まで!?」
青は何事もなかったように動きを止めたが、シリュウが目を逸らした途端、またふるふると揺れ始めた。
「今、また笑ったでしょ!」
今度は金色の微精霊が、シリュウのお腹の周りをくるくると回り始めた。
「金まで何してるの!」
金色の光は答える代わりに、シリュウの頬へぴたりと寄り添った。
「もう! お腹が鳴っただけだよ!」
三つの光が楽しそうに飛び回った。
その様子を見ていたセレナの口元が、ふっと緩んだ。
「ふふっ……」
「母様まで!」
「ごめんなさい。でも……ふふっ」
セレナは口元を押さえたが、こぼれ出した笑いを止めることができなかった。
やがて、その目元に涙が浮かぶ。
息子にこんな思いをさせている自分が情けなかった。それでも、空腹を隠そうとして失敗し、微精霊たちにからかわれているシリュウの姿が、どうしようもなく愛おしかった。
久しぶりに母が笑った。
シリュウはその顔を見て、嬉しくなった。
母様が笑っている。
それだけで、さっきまで感じていたお腹の空き具合など、どうでもよくなった気がした。
「じゃあ、半分ずつね」
セレナはパンを手に取り、二人の皿へ同じくらいの大きさになるよう分け直した。
「うん!」
シリュウは嬉しそうに頷いた。
一つの小さなパンを、母と子で分け合った。
決してお腹が満たされる量ではなかった。
それでも二人は、互いの皿に同じだけのパンがあることに、少しだけ安心していた。
そんな生活が続いた。
それでも、不思議なことにシリュウは、自分を不幸だと思ったことがなかった。
朝、目を覚ますと、最初に見えるのは母の優しい顔だった。
「おはよう、母様」
「おはよう、シリュウ。よく眠れましたか?」
「うん!」
元気よく返事をすると、どこからともなく赤い光が飛んできた。
「おはよう、赤」
ピカッ。
赤い微精霊は勢いよく明滅すると、シリュウの鼻先をかすめるように飛び回った。
「もう、朝から元気だね」
その後ろから、青い微精霊がゆっくり近づいてくる。
「青もおはよう」
青はふわりと上下に揺れ、シリュウの肩へ落ち着いた。
続いて、金色の光が顔の前を横切る。
「金もおはよう」
金色は返事をするように柔らかく輝くと、そのままシリュウの頬へ寄り添った。
「君たち、いつまで僕のところにいるの?」
赤が激しく点滅した。
「ずっと?」
さらに強く光る。
「本当に?」
赤が勢いよくシリュウの額へ体当たりした。
「痛っ!」
思わず額を押さえると、青が肩の上で小刻みに揺れ始めた。
「また笑った!」
金色まで嬉しそうに明滅する。
「僕だって怒るよ!」
シリュウが両手を伸ばすと、赤はひらりと身をかわした。
「待てー!」
古い離れの中をシリュウが走り回る。
赤はわざと捕まりそうな距離まで近づいては逃げ、青は横から回り込んでシリュウの視界を遮った。
「青! ずるい!」
青は知らん顔をするように、ゆっくりと天井近くまで浮かび上がる。
その隙に、金色がシリュウの頭の上へちょこんと乗った。
「金まで!」
シリュウが振り向いても、金色は離れようとしない。
「もう、くすぐったいよ!」
三つの光に翻弄されながら、シリュウは声を上げて笑った。
その様子を見ながら、セレナは洗濯物を畳んでいた。
古びた衣服には何度も繕った跡があり、シリュウの上着には、昨夜縫い直したばかりの小さな継ぎ当てがある。
それでも、部屋いっぱいに響く息子の笑い声を聞いていると、自然と頬が緩んだ。
食べる物は少ないし、着る物も古い。
冬は寒く、雨が降れば部屋の中に桶を並べなければならなかった。
ある雨の日のことだった。
ぽたぽたと天井から水が落ちる。
「また雨漏りだね」
シリュウが天井を見上げた。
「そうね。今日は少し雨が強いみたい」
セレナは慣れた手つきで桶を置いた。
赤い微精霊が、天井から落ちてくる水滴に興味を示した。
ふわふわと近づき、落下する水滴の真下でぴたりと止まる。
ぽたり。
水滴が直撃し、赤は慌てて飛び退いた。
「あははっ! 赤、びしょ濡れだ!」
赤が抗議するように激しく光ると、今度は青が水滴の下へ進み出た。
一滴、二滴、三滴。
青は落ちてくる水滴を、まるで最初から軌道が分かっているかのように軽やかに避けていく。
「すごい! 青、上手だね!」
褒められた青は、得意げにゆっくりと一回転した。
それを見た赤が、負けじと青の隣へ並んだ。
次の水滴が落ちる。
赤は素早く横へ飛んだ。
しかし、勢い余って別の雨漏りの真下へ移動してしまった。
ぽたり。
またしても直撃だった。
「あはははっ! また当たった!」
赤は悔しそうに明滅し、青は涼しい顔で水滴を避け続ける。
金色の微精霊はそんな二体の周りを楽しげに飛び回っていたが、やがてシリュウの肩へ戻ってきた。
「金はやらないの?」
金色は一度だけ光ると、シリュウの頬へすり寄った。
「そっか。僕と見てる方がいいんだね」
その様子を見て、セレナも笑った。
雨漏りする、ぼろぼろの家。
それすら、シリュウたちにとっては遊び場になった。
そして、冬の寒さが厳しい夜。
暖炉にくべる薪も十分にはなく、火が弱まると部屋の空気はたちまち冷え込んだ。
そんな日は、母と一緒に一枚の毛布へ入った。
三つの微精霊も、当然のように集まってくる。
「赤はこっち」
赤が勢いよく胸元へ飛び込んできた。
「わっ! そんなに急がなくてもいいのに」
赤は満足そうに光る。
「青はこっち」
青はゆっくりと枕元へ移動し、静かに明滅した。
「金は……」
金色は最初から頬の横にいた。
「やっぱりそこなんだ」
金色の光がふわりと揺れ、シリュウの頬に身体を寄せた。
セレナはその様子を微笑ましく眺めていたが、毛布の隙間から入り込む冷気に気づき、息子の肩を覆い直した。
「シリュウ」
「なに?」
「寒くない?」
「全然」
「本当に?」
「うん」
シリュウは母へ身体を寄せた。
「母様がいるから暖かいよ」
セレナは腕の中の小さな身体を、そっと抱きしめた。
毛布越しにも分かるほど細い肩。背中に回した手には、浮き出た骨の感触が伝わってくる。
本当なら、もっと栄養のあるものを食べさせ、暖かな服を着せてやりたかった。柔らかな寝台で眠らせ、同じ年頃の子供たちと笑い合う、そんな当たり前の日々を送らせてあげたかった。
けれど、母親でありながら、そのどれ一つとして叶えてやれない。
セレナは息子の黒髪を撫でながら、そっと目を伏せた。
「……ごめんなさい」
思わず零れた言葉に、シリュウが顔を上げた。
「何が?」
「……何でもありません」
「変な母様」
シリュウは不思議そうに首を傾げ、それからにっこりと笑った。
その無邪気な笑顔を見つめながら、セレナは胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
すると、シリュウがふと思い出したように三つの光へ顔を向けた。
「ねえ」
赤が胸元で光り、青が枕元から近づいてくる。金色も頬から少し離れ、シリュウの目の前に浮かんだ。
「僕、幸せだよ」
セレナが目を見開いた。
「母様がいるし」
金色が柔らかく光る。
「赤もいる」
赤が嬉しそうに激しく明滅した。
「青もいる」
青がふわりと近づく。
「金もいる」
金色は待ちきれなかったようにシリュウの頬へ飛びついた。
「だから、寂しくないし、毎日楽しいんだ」
シリュウは三つの光を見回し、それから母へ顔を向けた。
「僕は幸せ」
何の迷いもない言葉だった。
セレナは息子を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
何か言おうとして唇を開いたが、声にならなかった。
この子は、こんなにも痩せ細っている。
温かな服も、満足な食事も、同じ年頃の友達さえ与えてやれない。
それなのに、自分を幸せだと言ってくれる。
セレナは息子に見えないように顔を伏せた。
頬を伝った涙が、毛布の上に落ちた。
シリュウは知らなかった。
自分がどれほど酷い環境に置かれているのかを。
豪華な屋敷も、ご馳走の味も知らない。父親の温もりさえ知らないのだから、それらを失ったとも思わなかった。
彼にとって、カビ臭く、雨漏りし、満足な食事すらないこの離れこそが、かけがえのない家だった。
母セレナと、いつも寄り添ってくれる三つの小さな光。
それだけで、シリュウの世界は満たされていた。
あいつが現れるまでは……。




