第九章 千年の再会
「……お帰りなさい……」
エリュシアの震える声が、白亜の塔の広間に響いた。
「……ずっと……お待ちしておりました……」
その頬を、幾筋もの涙が伝っていた。
誰もが息を呑み、目の前の光景を見つめていた。
生命と魂を司る四大精霊の一柱。
千年という悠久の時を生き、人々から慈愛の象徴として崇められてきた存在。
そのエリュシアが、一人の人間の少年を前にして涙を流している。
長年仕えてきた精衛たちでさえ、これほど感情を露わにする彼女を見たことがなかった。
「……エリュシア、様……?」
最初に声を絞り出したのは、レグルスだった。
銀色の髪を揺らし、普段なら軽口の一つでも叩く男が、今は信じられないものを見るように目を見開いている。
「いったい……どうされたのですか……?」
しかし、返事はなかった。
エリュシアの瞳には、ただ一人の少年しか映っていなかった。
黒い髪。
閉じられた瞳。
血の気の失せた頬。
包帯に覆われた右目と、失われた右腕。
その痛々しい姿を見つめながら、エリュシアは震える指先を伸ばした。
そっと、シリュウの頬に触れる。
その瞬間、彼女の瞳から新たな涙が溢れた。
外見は違う。身体も、かつての面影など残していない。
それでも、触れた瞬間に分かった。
生命と魂を司る彼女には、その奥深くに宿る魂の気配を見誤ることなどあり得なかった。
千年前と、何一つ変わらない。
どれほど待ち焦がれたことだろう。
どれほど、この瞬間を夢見たことだろう。
ようやく会えた。
もう二度と会えないのではないかと、幾度も恐れた存在が、今、自分の目の前にいる。
けれど、その喜びはすぐに胸を締めつける痛みへと変わった。
なぜ、この方がこんな姿になっているのか。
なぜ、これほど傷ついているのか。
「……こんなに……冷たくなって……」
エリュシアはシリュウの頬を撫でながら、かすれた声で呟いた。
そして、慎重にその身体を抱き上げる。
あまりにも軽かった。
七歳ほどの少年とは思えないほど、腕の中の身体は痩せ細っていた。
「エリュシア様!」
レグルスが思わず一歩踏み出した。
「お待ちください! その少年は、まだ素性も確認できておりません!」
しかし、エリュシアは振り向かなかった。
シリュウを胸元へ抱き寄せると、静かに告げた。
「……精霊聖域へ参ります」
その一言に、広間の空気が張り詰めた。
「……今、何とおっしゃいました?」
「シリュウを、精霊聖域へ連れていきます」
「お待ちください! それだけはなりません!」
背後に控えていた精衛たちも、一斉に表情を強張らせた。
精霊聖域。
白亜の塔の最上層に存在する、エリュシアの私的な領域。
生命と魂の神気に満ちたその場所は、精霊以外の存在を拒絶する絶対不可侵の聖域だった。
資格を持たぬ者が境界を越えれば、聖域そのものが侵入者を敵と認識する。
たとえ聖級の強者であろうとも、例外ではない。
そのような場所へ、人間の少年を連れていくというのだ。
「エリュシア様! あそこがどういう場所なのか、お忘れではありませんよね!?」
「存じています」
「でしたら、なぜですか!? 人間が立ち入れば、聖域が敵として認識します! それに、あそこはエリュシア様だけの――」
「レグルス」
静かな声だった。
しかし、その声を聞いた瞬間、レグルスは言葉を止めた。
エリュシアがゆっくりと顔を向ける。
そこには、先ほどまで涙を流していた女性の面影がなかった。
「……誰が、私の行動に口を挟むことを許しましたか?」
「っ……!」
レグルスの喉が詰まった。
彼女の視線が、背後の精衛たちにも向けられる。
「あなた方も、同じ考えなのですか?」
誰も答えられなかった。
「で、ですが……私は、エリュシア様をお守りする立場として――」
「守る?」
エリュシアの声が、わずかに低くなる。
「あなたは、私が誰を迎え入れるかまで決めるつもりなのですか?」
「そ、それは……」
「二度と言わせないでください」
その瞬間、広間を満たす神気が重みを増した。
レグルスたちの身体に、目に見えない圧力がのしかかる。
「この方に触れることも、行く手を遮ることも、私が許しません」
レグルスの背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
長年仕えてきた。
数え切れないほど、その慈愛に満ちた微笑みを見てきた。
しかし、こんなエリュシアは知らない。
「……失礼、いたしました……」
レグルスは深く頭を下げた。
エリュシアはそれ以上何も言わず、腕の中のシリュウへ視線を戻した。
その表情が、静かに和らぐ。
「……大丈夫ですよ、シリュウ」
彼女は少年の黒髪を優しく撫でた。
「もう、誰にも傷つけさせませんからね……」
シリュウを大切そうに抱き直す。
「……傷一つ、残しません」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
エリュシアが歩き始める。
すると、赤髪の少年が、その後を追った。
「僕も行く。シリュウのそばにいたい」
「私も一緒に行く」
青髪の少女が続く。
金髪の少女も、迷うことなく二人の隣へ並んだ。
「シリュウを一人にはできないもの」
レグルスが慌てて顔を上げる。
「おい! お前たちまで勝手に――!」
赤髪の少年が振り向いた。
「何だよ。僕たちはずっとシリュウと一緒にいたんだ。今さら離れるわけないだろ!」
「貴様、誰に向かって――!」
「レグルス」
エリュシアの声に、彼は再び口を閉じた。
「この子たちは、私が連れていきます」
「……承知、いたしました」
それ以上、反論できる者はいなかった。
エリュシアは三人を伴い、最上層へと続く通路を進んでいく。
やがて、一行は精霊聖域の巨大な扉の前へ到着した。
エリュシアが近づくと、扉は音もなく開かれた。
本来なら、精霊以外の侵入を決して許さないはずの領域。
しかし、エリュシアに抱かれたシリュウが境界を越えても、聖域の結界は何一つ反応しなかった。
赤髪の少年、青髪の少女、金髪の少女も、その後に続く。
そして、最後の一人が中へ入ると、巨大な扉は静かに閉ざされた。
広間には、重苦しい沈黙が残された。
誰一人として、すぐには動けなかった。
レグルスは閉ざされた扉を睨むように見つめている。
その右手は、いつの間にか強く握りしめられていた。
背後の精衛たちは互いに顔を見合わせたものの、誰も口を開こうとはしない。
クラウスも、ヴァルディスも、目の前で起きた出来事をどう受け止めるべきか判断できずにいた。
やがて、レグルスが小さく息を吐いた。
その表情には、困惑と、隠しきれない不満が滲んでいた。
自分たちですら許可なく立ち入れない聖域へ、突然現れた人間の少年が迎え入れられた。
しかも、あのエリュシアが涙を流し、誰よりも大切な存在であるかのように抱きしめていたのだ。
しばらくして、ヘクトルがぼさぼさの黒髪を掻き上げた。
「……おいおい。何なんだよ、今のは……」
その声に、ようやく広間の空気が動いた。
レグルスは答えない。
やがて、その口から低い声が漏れた。
「……何者なんだ、あのガキは……!」
「知るかよ。こっちが聞きてえくらいだ」
ヘクトルが肩をすくめる。
「貴様らが連れてきたんだろうが!」
「連れてきたのは俺たちだが、あいつの素性まで知ってるわけじゃねえ」
ヘクトルは腕を組み、扉へ目を向けた。
「ただまあ……知り合いみてえだったな」
「……馬鹿を言うな」
レグルスが即座に否定した。
「エリュシア様がお会いになる相手は、我々精衛が事前に調査する。身元も経歴も、危険性もだ」
苛立たしげに髪を掻き上げる。
「ましてや、あんなふうに接する相手を、俺たちが把握していないはずがない!」
「じゃあ、何で泣いてたんだよ」
「そんなこと、俺が知るわけねぇだろ!」
「逆ギレすんなよ……」
ヘクトルが呆れたように息を吐いた。
そこで、クラウスが口を開いた。
「レグルス殿」
「……何だ」
「我々にも、あの少年が何者なのかは分からない。ただ、エリュシア様が非常に大切にされていることだけは確かだ」
「……だから?」
「ならば、あの少年の母親も、相応の待遇で保護しておいた方がよいのではないか?」
レグルスの眉が動いた。
広間の片隅には、ヴァルディスの治癒魔法によって一命を取り留めたセレナが、簡易寝台に横たえられていた。
意識は戻っていないものの、呼吸は安定している。
「少年が目を覚ましたとき、母親が無事であることは重要だろう」
「……ちっ」
レグルスが小さく舌打ちする。
そして、背後の精衛へ顔を向けた。
「おい」
「はっ!」
「その女性を医務室へ運べ。特別対応だ」
「と、特別対応でございますか?」
「二度言わせるな。最高の医療班をつけろ。必要な薬も神術師も、すべて優先しろ」
「はっ!」
「何かあれば、俺に直接報告しろ。いいな?」
「承知いたしました!」
精衛たちがセレナを慎重に運び出していく。
その姿を見送りながら、ヘクトルが口の端を上げた。
「へえ。意外と気が利くじゃねえか」
「黙れ」
「褒めてんだろうが」
「貴様に褒められても嬉しくねぇよ」
「相変わらず愛想のねえ野郎だな」
「今すぐ塔から叩き出してやろうか?」
「やれるもんならやってみろよ」
二人の間に険悪な空気が流れる。
「……二人とも、その辺にしておけ」
ヴァルディスが呆れたように割って入った。
レグルスは舌打ちすると、再び精霊聖域の扉へ目を向けた。
その銀色の瞳には、いまだ消えない疑問が宿っていた。
自分が長年仕えてきた主。
その主が、あの少年にだけ見せた表情。
そして、誰も立ち入ることを許されなかった聖域。
「……いったい、何なんだ……」
握りしめた拳に、さらに力がこもった。
* * *
精霊聖域。
白亜の塔の最上層に広がるその空間は、人の手によって造られたものではなかった。
白く輝く床には、生命を象徴する蔦の紋様が刻まれ、淡い金色の光を放つ柱が天井へと伸びている。
頭上には無数の小さな光が星のように浮かび、澄んだ神気が静かに流れていた。
窓の向こうには、エリュネの街並みが遥か眼下に広がっている。
生命と魂を司る精霊に相応しい、神聖で美しい領域だった。
しかし、エリュシアはその景色に目を向けることさえなかった。
彼女の腕には、シリュウが抱かれている。
「……すぐに治しますからね」
中央に置かれた白い寝台へ、シリュウをそっと横たえる。
赤髪の少年、青髪の少女、金髪の少女も、その周囲へ集まった。
「エリュシア様、シリュウは助かるんだよな?」
赤髪の少年が不安そうに尋ねる。
「ええ。必ず助けます」
「腕も、治せるの?」
青髪の少女が続けた。
「もちろんです。失われた腕も、傷ついた目も、すべて元に戻します」
その言葉に、三人の表情がわずかに和らいだ。
金髪の少女はシリュウの左手をそっと握ったまま、エリュシアを見上げた。
「……もう、痛い思いをしなくて済む?」
エリュシアは静かに頷いた。
「ええ。そのために、私がいるのですから」
三人が寝台から少し離れるのを待ち、エリュシアはシリュウの額へ右手をかざした。
「……生命よ、あるべき姿へ還れ」
精霊神術《生命回帰》
その瞬間、淡い緑金色の光がシリュウの全身を包み込んだ。
無数の光の粒が舞い上がり、失われた右腕の付け根へと集まっていく。
光の中で骨が形成され、筋肉が編み込まれ、神経と血管が繋がっていく。
やがて柔らかな皮膚がそれらを覆い、失われていた右腕が完全な姿を取り戻した。
続いて、右目を覆っていた深い裂傷が消えていく。
損傷していた眼球も修復され、瞼の下には本来の形が戻った。
身体に残る新しい傷も、次々と塞がっていく。
ほんのわずかな時間だった。
人間の治癒魔法では到底成し得ない奇跡。
それを、エリュシアは静かに成し遂げた。
「……すごい……」
赤髪の少年が思わず声を漏らした。
青髪の少女は再生した右手を見つめ、何度も瞬きをしている。
「本当に……元に戻った……」
金髪の少女も、ほっとしたように息を吐いた。
しかし、エリュシアの表情は晴れなかった。
「……まだ、足りません」
再生した右腕をそっと撫でる。
傷は塞がった。
けれど、触れた身体の内側には、深刻な衰弱が残っていた。
エリュシアはシリュウの衣服へ手を伸ばし、身体の状態を確かめるため、慎重に脱がせていった。
そして、その手が止まった。
「…………」
あまりにも、痩せ細った身体だった。
肋骨が浮き上がり、腕も足も細い。
七歳の少年とは思えないほど身体は小さく、肉付きが乏しかった。
さらに、背中や肩、腹部、手足には、古い傷痕が幾つも残っていた。
打撲によるもの。
皮膚が裂け、十分な治療を受けないまま塞がったもの。
中には、何度も同じ場所を傷つけられたことが分かる痕まであった。
エリュシアは、その一つに指先を触れた。
古い傷痕だった。
別の場所にも、さらにその隣にも、同じような痕が残されている。
今回の魔界での負傷だけではない。
この小さな身体は、長い年月をかけて傷つけられてきたのだ。
「……どうして……」
かすれた声が漏れた。
エリュシアはシリュウの手を取った。
再生したばかりの小さな右手。
その指を包み込むように握りながら、俯いた。
千年前。
あの方は、誰よりも強く、誰よりも優しかった。
自分たち四大精霊を導き、世界を救った存在。
その方が今、こんなにも小さな身体で、傷だらけになって眠っている。
「……私が……」
エリュシアの唇が震えた。
「……もっと早く、見つけていれば……」
ぽたりと涙が落ちた。
ようやく再会できた喜びが、胸の奥に残っている。
それなのに、その身体を見るほど、自分がそばにいなかった時間の長さを思い知らされた。
どれほど苦しかっただろう。
どれほど寂しかっただろう。
彼女はシリュウの手を握ったまま、しばらく動けなかった。
やがて、涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
今は、後悔している場合ではない。
この身体を、本来あるべき状態へ戻さなければならない。
エリュシアが両手を広げると、寝台の奥に巨大な光の紋様が現れた。
床から淡い光が立ち上り、透明な楕円形の容器がゆっくりと姿を現す。
《生命の揺籃》
生命の根源に満ちた、エリュシアだけが扱える特別な治癒槽。
内部には、透明で淡く輝くゼリー状の物質が満たされ、無数の小さな気泡が静かに昇っていた。
「……少しだけ、眠っていてくださいね」
エリュシアはシリュウを抱き上げ、生命の揺籃へとそっと身体を沈めた。
透明な物質が、少年の全身を優しく包み込んでいく。
内部に満ちる濃密な生命の神気が、損傷した臓器や、栄養の不足した筋肉、成長を妨げられてきた骨格へと浸透していった。
長年の飢えによって衰弱した身体が、少しずつ本来あるべき状態へ導かれていく。
シリュウの呼吸は穏やかなままだった。
エリュシアは治癒槽の状態を確かめると、静かに振り向いた。
そこには、赤髪の少年、青髪の少女、金髪の少女が並んでいた。
三人とも、生命の揺籃の中で眠るシリュウを心配そうに見つめている。
「……あなたたちに、聞きたいことがあります」
三人が顔を上げた。
エリュシアは少し身を屈め、三人と視線を合わせた。
「シリュウがこれまで、どのように暮らしていたのか。知っていることを教えてください」
赤髪の少年が、青髪と金髪の少女を見た。
そして、真剣な表情で口を開く。
「……全部、話せばいいんだな?」
「ええ。あなたたちが見てきたことを、聞かせてください」
赤髪の少年は一度唇を噛みしめた。
「シリュウは、大きな屋敷に住んでたんだ。でも、ほかの人たちとは一緒に暮らしてなかった」
「……どういうことですか?」
「屋敷の端にある、古い離れで暮らしていたの」
青髪の少女が答えた。
「部屋は暗くて、雨が降ると屋根から水が落ちてきたわ。寒い日も、あまり暖かくしてもらえなかった」
金髪の少女も頷く。
「食事だって、ひどかったのよ。硬いパンと、ほとんど味のしないスープばかり。シリュウはいつもお腹を空かせていたわ」
エリュシアの眉が、わずかに動いた。
「……家族は、いなかったのですか?」
「お母さんはいたよ」
赤髪の少年が答える。
「お母さんだけは、いつもシリュウのことを大切にしてた。でも、ほかの家族は違ったんだ」
「……違った?」
「シリュウのことを、嫌ってた」
赤髪の少年の表情が険しくなった。
「大きな男の子が何度も離れに来て、シリュウを殴ったんだ。シリュウが何もしてなくても、いきなり殴ったり、蹴ったりしてた」
「……何も、していなくても?」
「うん。シリュウが謝っても、やめなかった」
エリュシアは黙って聞いていた。
青髪の少女が続ける。
「屋敷の人たちも、シリュウに冷たかったわ。お母さんが食事を頼みに行っても、断られることがあったの」
「それだけじゃないわ」
金髪の少女が、悔しそうに拳を握った。
「お母さんまで、ひどい目に遭わされたのよ」
エリュシアの視線が動いた。
「……お母さんも?」
「ええ。ある日、女の人が離れに来たの。シリュウのお母さんと言い争いになって、その人が炎の神気を使ったのよ」
青髪の少女は、そのときの光景を思い出したのか、表情を曇らせた。
「お母さんはシリュウを守ろうとしていたの。でも、炎を受けて火傷を負ってしまったわ」
「シリュウ、すごく心配してた」
赤髪の少年が俯いた。
「自分のせいだって、何度も謝ってたんだ。悪いのはシリュウじゃないのに……」
エリュシアは何も言わなかった。
ただ、膝の上で重ねた指に、ゆっくりと力がこもっていく。
自分が今見た古傷。
その一つ一つに、こんな出来事があったのだろうか。
「……それでも、シリュウは優しかったわ」
金髪の少女が、ぽつりと言った。
「お腹が空いていても、寒くても、私たちには笑ってくれたの」
赤髪の少年も頷く。
「一緒に遊んだり、話したりしてくれた。僕たちがそばにいると、シリュウは嬉しそうだった」
エリュシアは、生命の揺籃へ視線を向けた。
透明な光の中で、少年は静かに眠っている。
その顔には、まだ幼さが色濃く残っていた。
「……その後、何があったのですか?」
エリュシアが尋ねると、三人の表情が変わった。
赤髪の少年は、しばらく迷った末に口を開いた。
「……シリュウが七歳になってから、急に屋敷を出ることになったんだ」
「屋敷を?」
「うん。馬車に乗せられて、知らない場所へ連れていかれた」
青髪の少女が続けた。
「ずいぶん長い間、馬車に揺られていたわ。着いたのは、魔界だったの」
エリュシアの瞳が細められた。
「……魔界?」
「そう。そこで、シリュウとお母さんは置き去りにされたの」
金髪の少女の声が震える。
「周りには誰もいなかったわ。帰るための馬車もなくなって、二人だけになってしまったのよ」
赤髪の少年が拳を握りしめた。
「それでも、シリュウのお母さんは諦めなかった。シリュウを守ろうとして、ずっと頑張ってたんだ」
三人は、魔界で起きた出来事を順番に話した。
魔狼たちに襲われたこと。
洞窟へ逃げ込んだこと。
翌朝、さらに恐ろしい魔物と、その群れに襲われたこと。
母親が必死にシリュウを守ろうとしたこと。
そして、シリュウが右腕を失い、右目にも深い傷を負ったこと。
「……最後には、お母さんまで動かなくなっちゃったんだ」
赤髪の少年の声が掠れた。
「シリュウ、何度も呼んでた。でも、返事がなくて……」
青髪の少女が俯く。
「ずっと泣いていたわ。何度呼んでも、お母さんは目を開けなかった」
「……それから、シリュウの様子が変わったの」
金髪の少女が続けた。
「泣かなくなって、何も言わなくなって……」
エリュシアは、三人の話を遮らなかった。
「……それで?」
赤髪の少年が顔を上げた。
「突然、ものすごい力が溢れ出したんだ。シリュウの髪も、目も、金色になって……」
「……金色に?」
「うん。今まで感じたことがないくらい、強くて、温かい力だった」
青髪の少女が頷いた。
「私たちも驚いたわ。でも、あの光を見たとき、なぜか懐かしい気持ちになったの」
エリュシアは静かに目を閉じた。
あのとき、一瞬だけ感じた神気。
千年間、忘れたことのなかった気配。
それが、今の話と重なった。
「……そうでしたか」
エリュシアは小さく息を吐いた。
「……話してくれて、ありがとう」
三人が顔を上げる。
「あなたたちが、ずっとシリュウのそばにいてくれたのですね」
「……うん」
赤髪の少年が頷いた。
「僕たち、シリュウが大好きだから」
青髪の少女も、金髪の少女も頷いた。
エリュシアは三人を見つめ、静かに頭を下げた。
「シリュウとともにいてくれたこと、感謝します」
三人は少し驚いたように顔を見合わせた。
エリュシアは姿勢を戻し、もう一つ尋ねた。
「……最後に、教えてください」
「何だ?」
赤髪の少年が答える。
「シリュウが暮らしていた国の名前を、覚えていますか?」
三人は顔を見合わせた。
少し考えた後、青髪の少女が口を開いた。
「……確か、アウラ王国って言っていたわ」
その瞬間、エリュシアの動きが止まった。
「…………アウラ、王国?」
「ええ。屋敷の人たちがそう呼んでいたのを覚えているわ」
青髪の少女は不思議そうに首を傾げた。
「……どうかしたの?」
エリュシアは、すぐには答えなかった。
アウラ王国。
秩序と審判を司る四大精霊、アストレアが守護する国。
よりにもよって、あの国で。
千年間、ともに待ち続けたはずのアストレア。
再会を願い、わずかな手掛かりさえ見逃すまいとしていた彼女の、すぐそばに。
この方は、いたのだ。
それなのに。
「……そう、ですか」
エリュシアの声は、驚くほど静かだった。
赤髪の少年が、心配そうに顔を覗き込む。
「エリュシア様……?」
「……もう、大丈夫ですよ。あなたたちは、シリュウのそばにいてあげてください」
エリュシアは立ち上がり、生命の揺籃へ歩み寄った。
透明な光の中で、シリュウは穏やかな呼吸を続けている。
その寝顔を見つめながら、エリュシアはそっと手を伸ばした。
指先が、治癒槽の表面に触れる。
「……アストレア……」
小さな呟きだった。
あなたも、千年間待ち続けていたはず。
誰よりも、あの方との再会を望んでいたはず。
それなのに、なぜ。
その存在に、気づかなかったのですか。
エリュシアは唇を噛みしめた。
もちろん、自分も同じだった。
もっと早く見つけられていれば、こんな苦しみを味わわせずに済んだかもしれない。
その後悔は、誰に責められるまでもなく胸の奥にある。
けれど。
あの方が生まれ育った国を守護しながら、その苦しみを見過ごしていたアストレアを、どうしても許すことができなかった。
「……アストレア……あなたは、あの方のすぐそばにいたはずなのに……」
エリュシアの瞳から、温もりが消えた。
「……どうして、気づいてあげられなかったの……」
生命の揺籃を満たす光が、わずかに揺らめいた。
エリュシアはそれ以上何も言わず、眠るシリュウのそばに立ち続けた。
* * *
翌日。
白亜の塔の広間には、クラウス、ヴァルディス、ヘクトルの三人が再び集められていた。
レグルスも、その場に控えている。
「……で、何の用なんだ?」
ヘクトルが腕を組んだ。
「俺が知るか」
レグルスが不機嫌そうに答える。
「エリュシア様がお呼びだ。それ以上のことは聞いていない」
「お前、本当に側近なのかよ」
「黙れ」
「昨日からそればっかりだな」
「貴様……!」
「二人とも、静かにしろ」
クラウスが低い声で制した。
その直後、精霊聖域へ続く扉が音もなく開いた。
エリュシアが姿を現す。
白い衣には金糸の刺繍が施され、長い髪が柔らかく揺れていた。
その表情は、昨日とは打って変わって穏やかなものだった。
「皆さん。お待たせいたしました」
レグルスが深く頭を下げる。
「エリュシア様」
「まずは、お礼を申し上げます」
エリュシアは三人へ向き直った。
「シリュウを、私のもとへ連れてきてくださったこと。心から感謝いたします」
クラウスが一礼する。
「もったいないお言葉です」
「少年の容態はいかがでしょうか?」
ヴァルディスが尋ねた。
「失われた右腕と、傷ついた右目は、すでに回復しております」
「……何だと?」
ヴァルディスが思わず声を漏らした。
「右腕まで……再生したのですか?」
「ええ。古傷や、長年の栄養不足による衰弱は治療を続けておりますが、あと数日もあれば身体は回復するでしょう」
ヴァルディスは言葉を失った。
自分が持つ最高位の治癒魔法でさえ、切断された腕を再生させることはできない。
それを、わずか一日で。
改めて、四大精霊という存在の途方もなさを思い知らされた。
「それから、皆さんにお伝えしたいことがございます」
エリュシアが続ける。
「今後、シリュウの保護と療養については、すべて私が引き受けます」
クラウスが顔を上げた。
「……すべて、ですか?」
「ええ。ですから、皆さんはそれぞれのお役目にお戻りください」
穏やかな声だった。
しかし、クラウスには、その言葉に明確な意思が込められていることが分かった。
彼は一度姿勢を正すと、慎重に口を開いた。
「エリュシア様。恐れながら、一つお願いがございます」
「何でしょう?」
「その少年について、アストレア様への報告がございます。すでに概要はお伝えしておりますが、我々が目撃した神気や、神槍の顕現については、アストレア様ご自身が直接お確かめになるべき事柄だと考えております」
エリュシアは黙って聞いていた。
クラウスは続ける。
「以前より、アストレア様は特別な存在の出現を予見されておりました。今回発見された少年が、その予知に関わる人物である可能性は十分にございます」
「……それで?」
「可能であれば、少年を一度アウラ王国へお連れし、アストレア様にお会いいただきたいのです」
その瞬間、エリュシアの微笑みが消えた。
「……アウラ王国へ?」
「はい」
「……認めません」
即座の返答だった。
クラウスは表情を引き締めた。
「……理由を、お聞かせいただけますか?」
エリュシアは、しばらく彼を見つめていた。
「シリュウを、あの国へ戻すつもりはありません」
「……戻す?」
クラウスの眉が動く。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味です。シリュウは、アウラ王国で生まれ育ちました」
「……何ですと?」
クラウスだけでなく、ヴァルディスとヘクトルも顔を上げた。
「それは、確かなのですか?」
「ええ。シリュウとともにいた三人の精霊から、直接聞きました」
エリュシアの声が静かに低くなる。
「そして、あの国でシリュウがどのような扱いを受けていたのかも」
クラウスは、その表情の変化を見逃さなかった。
「……何が、あったのでしょうか?」
「まともな食事も与えられず、雨漏りのする離れに追いやられ、繰り返し暴力を受けていたそうです」
「…………!」
「そして最後には、母親とともに魔界へ置き去りにされました」
クラウスの顔から血の気が引いた。
ヘクトルが低く呟く。
「……何だと……」
ヴァルディスも険しい表情を浮かべた。
エリュシアは三人を見渡した。
「私は、シリュウの身体に残された傷を確認しました。長年、十分な食事も治療も与えられていなかったことは明らかです」
「……そのようなことが……我が国で……」
クラウスは拳を握りしめた。
しかし、エリュシアの言葉は続いた。
「クラウス。あなたがアストレアに報告することを止めるつもりはありません」
「…………」
「ですが、シリュウをアウラ王国へ連れていくことは、決して認めません」
その声には、反論の余地がなかった。
クラウスは深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
エリュシアは静かに頷いた。
そして、続けた。
「それから、アストレアに伝えなさい」
クラウスが顔を上げる。
「……はい」
「私たちの誰よりも近くにいながら、シリュウを救えなかったあなたを、私は許せないと」
その場にいた全員が息を呑んだ。
「……エリュシア様……?」
クラウスは思わず聞き返した。
「今のお言葉は……アストレア様に対して、でございますか?」
「ええ」
エリュシアは目を伏せた。
「私も、もっと早く見つけられなかったことを悔やんでいます。あの子が苦しんでいた間、何もできなかったことを……」
その声には、深い悲しみが滲んでいた。
しかし、次に顔を上げたとき、その瞳には冷たい光が宿っていた。
「それでも、アストレアはあの国の守護精霊です。誰よりも近くにいたはずのあの子を、見つけることも、救うこともできなかった」
「…………」
「その責任を、私は見過ごすことができません」
クラウスは言葉を失った。
秩序と審判を司るアストレア。
アウラ王国が建国以来、最も深く崇めてきた存在。
その大精霊に対し、同じ四大精霊であるエリュシアが、明確な怒りを向けている。
「……お待ちください、エリュシア様!」
クラウスが思わず一歩踏み出した。
「そのお言葉を、そのままアストレア様へお伝えしてよろしいのですか!?」
「構いません」
「しかし、それでは――」
その瞬間、鋭い風切り音が響いた。
ヒュンッ!
クラウスの眼前に、一本の槍が突きつけられていた。
「……そこまでだ」
レグルスだった。
銀色の瞳が、冷たくクラウスを睨んでいる。
「エリュシア様は、すでにお考えを示された。それ以上、何を言うつもりだ」
「レグルス殿……!」
「これ以上、無礼を働くつもりなら……相手になるぞ」
槍の穂先から、鋭い神気が漏れ出した。
クラウスの表情が険しくなる。
剣聖と精衛幹部。
両者の間に、一触即発の緊張が走った。
「……おいおい」
ヘクトルが額を押さえた。
「今度はお前らかよ……」
「クラウス。ここで争っても何も解決しない」
ヴァルディスが静かに口を開く。
「エリュシア様のお言葉は、そのままアストレア様へ伝えればよい。その後の判断は、アストレア様ご自身に委ねるべきだ」
クラウスは唇を噛みしめた。
やがて、静かに息を吐く。
「……分かった」
レグルスは、それを確認してから槍を下ろした。
エリュシアは一連のやり取りを見届けると、踵を返した。
「それでは、失礼いたします」
「エリュシア様」
クラウスが呼びかける。
彼女は足を止めたものの、振り向かなかった。
「……その少年は、いったい何者なのでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、エリュシアが静かに答えた。
「……私にとって、何よりも大切な方です」
それ以上は語らなかった。
エリュシアが精霊聖域へ戻っていく。
扉が閉ざされるまで、クラウスはその背中を見つめていた。
「……何なんだよ、あいつは……」
ヘクトルが低く呟いた。
ヴァルディスも、答えることができなかった。
クラウスは閉ざされた扉を見つめたまま、拳を握りしめる。
エリュシアがアストレアを責める理由は聞いた。
しかし、なぜあの少年が、それほどまでに特別な存在なのか。
その答えだけは、まだ分からなかった。




