第八章 千年の果てに
西の大陸、魔界から最も近い都市、エリュネ。
魔界攻略の最前線に位置するこの都市は、世界各国から集まる軍人や冒険者たちによって、昼夜を問わず活気に満ちていた。
大通りには各国の軍旗を掲げた馬車が行き交い、武具店の軒先には剣や槍、鎧が所狭しと並んでいる。魔物の素材を買い取る商人、傷薬や解毒薬を売る薬師、遠征帰りの冒険者で賑わう酒場。宿屋や飲食店も数多く立ち並び、その中心には世界最大規模を誇る冒険者ギルドが存在していた。
各国の軍や精鋭部隊も、この都市に土地を購入して独自の拠点を構えている。国家間の対立や利害を抱えながらも、魔界という共通の脅威に立ち向かうため、数多くの実力者たちがこの地に集結していた。
エリュネは、まさに人類による魔界攻略の最前線だった。
その大通りを、三人の男が歩いていた。
剣聖クラウス、魔法帝ヴァルディス、そしてヘクトル・ヴァレウス。
ヘクトルの腕には、意識を失ったままのシリュウが抱えられていた。その傍らでは、ヴァルディスが魔法によってセレナの身体を浮かせ、慎重に運んでいる。
シリュウの右手は失われ、右目にも深い傷が残っていた。
ヴァルディスの治療魔法によって命に別状はなくなったものの、失われた腕や深く傷ついた右目を元に戻すことはできなかった。
「……しかし、何度考えても信じられねえな」
ヘクトルが腕の中の少年へ視線を落とした。
「死んだ母親を生き返らせるなんざ、聞いたこともねえ」
「僕も長く生きてきたけど、あんな光景は初めてだったよ」
クラウスの声には、普段の穏やかさとは異なる真剣な響きがあった。
死者は蘇らない。
それは人間だけでなく、聖級へ到達した者たちにとっても覆すことのできない絶対の理だった。
しかし、この少年はその理を破ってみせた。
「ハッハッハ! まったく、世の中にはまだまだ儂らの知らぬことがあるようじゃな!」
ヴァルディスは豪快に笑ったが、その目は真剣だった。
「しかし、あの長大な詠唱は見事じゃった。儂ですら理解の及ばぬ術式を、あの幼子が扱っておったのだからな」
「それも気になるけど、僕はあの三つの微精霊も引っかかっているんだ」
クラウスの言葉に、ヘクトルが眉を上げた。
「赤と青と金の光か?」
「うん。微精霊が人間のために命を懸けるなんて、普通じゃないよ」
ヘクトルは魔界での出来事を思い返した。
青い光に導かれ、魔狼王との戦いへ駆けつけたこと。赤と金の光が、圧倒的な力の差をものともせず、少年を守ろうとしていたこと。
「ああ。あの青いのがいなけりゃ、俺たちはあの親子を見つけられなかっただろうな」
「しかも、微精霊の身で魔狼王に立ち向かうとはのう。実に不可解じゃ」
ヴァルディスは感心したように頷いた。
「そういえば、いつの間にか姿が見えなくなったね」
クラウスが周囲へ目を向ける。
「母親を生き返らせた辺りからだったか?」
「そうじゃな。まあ、精霊の行動など人間には分からぬことも多い」
三人はそれ以上、微精霊たちについて深く考えることはなかった。
やがて、アウラ王国の軍旗が掲げられた広大な敷地へ到着した。
そこはクラウスが所有する土地であり、王国軍が魔界遠征の際に使用する拠点でもあった。
門を守っていた兵士たちは、クラウスの姿を認めると慌てて姿勢を正した。
「クラウス様! お戻りでしたか!」
「ただいま。それより、セラフィーナはまだこの街にいるかな?」
兵士は申し訳なさそうに頭を下げた。
「それが……聖王国から急報が届きまして、大聖女様はすでに帰国されました」
「えっ?」
予想外の返答に、クラウスは足を止めた。
「何か問題でも起きたのかい?」
「詳しい事情までは存じません。ただ、急ぎ戻る必要があるとのことでした」
「そうか……困ったな」
クラウスはシリュウへ視線を落とした。
大聖女セラフィーナならば、この少年の失われた右手も、傷ついた右目も治せるはずだった。そう考えて、エリュネへ戻ってきたのだ。
「セラフィーナがおれば、失われた腕も元に戻せたのじゃがな」
ヴァルディスが腕を組む。
「儂の治療魔法では、傷口を塞ぎ、身体の状態を安定させるのが精一杯じゃ」
「じゃあ、どうする?」
ヘクトルが尋ねた。
クラウスはしばらく考え込み、やがて街の中心から少し離れた場所にそびえる白亜の塔へ目を向けた。
「……一つだけ、心当たりがある」
その視線を追ったヴァルディスが、わずかに眉を上げる。
「まさか、あの方に頼むつもりか?」
「うん。望みは薄いけどね」
「無駄じゃと思うぞ。あの方が人間の治療など引き受けるとは思えん」
「分かってる。でも、お願いするだけしてみよう」
二人の会話を聞いていたヘクトルも、白亜の塔を見上げた。
エリュネで長年活動している彼にとって、その塔は見慣れた存在だった。
「……あそこか。簡単には通してもらえねえだろうな」
「そうだね。でも、この子の事情を話せば、会ってもらえるかもしれない」
クラウスは改めて白亜の塔を見つめた。
そこには、四大精霊の一人。
生命と魂を司る大精霊エリュシアが暮らしていた。
エリュネの街を見下ろすように建つ白亜の塔。
その周囲は高い城壁に囲まれ、正門には武装した二人の男が立っていた。
彼らは精霊守護団――通称『精衛』の団員だった。
精衛は幹部十一名、団員百名からなる精鋭集団である。
一般団員ですら上級の中位に位置する実力を持ち、十一名の幹部は全員が特級へ到達していた。
彼らの使命は、ただ一つ。
大精霊エリュシアを守ること。
団員たちは交代で塔を警護し、それ以外の時間は魔界へ赴いて実戦を重ねていた。
より強くなるためだった。
エリュシアが望む時、どのような敵を相手にしても、その剣となり盾となれるように。
その徹底した姿勢から、エリュネの冒険者たちには尊敬と呆れを半分ずつ込めて、筋金入りの戦闘狂集団とも呼ばれていた。
「止まれ」
正門へ近づいた一行を、団員の一人が制止した。
「何の用だ?」
「エリュシア様にお会いしたいんだ」
クラウスが穏やかに答える。
団員は三人の顔を確認すると、驚いたように目を見開いた。
「剣聖クラウス様に、魔法帝ヴァルディス陛下……」
世界に名を知られる二人の聖級が揃っている。
しかし、団員はすぐに表情を引き締めた。
「申し訳ありませんが、面会の許可がなければお通しできません」
「事情があってね。どうしてもお願いしたいことがあるんだ」
「お気持ちは分かりますが、規則ですので」
クラウスが困ったように笑う一方、ヴァルディスは感心したように顎を撫でた。
「相変わらず徹底しておるのう」
「おい、少しくらい融通を利かせろよ」
ヘクトルが口を挟むと、団員の表情が露骨に険しくなった。
「……ヘクトルか。また面倒事を持ち込んだのではないだろうな」
「人を厄介者みてえに言うんじゃねえ」
「普段の行いを考えてから言ってくれ」
ヘクトルが言い返そうとした、その時だった。
「朝っぱらから何騒いでんだ、お前ら」
塔の入口から、気怠そうな声が響いた。
現れたのは、銀色の髪を無造作に後ろへ流した、二十代後半ほどの男だった。
長身で引き締まった身体。整った顔立ちには荒々しい雰囲気が漂い、鋭い目つきが近寄りがたい印象を与えている。
両手をズボンのポケットへ突っ込み、面倒そうに歩いてくる姿からは、とても塔を守る幹部には見えなかった。
しかし、門を守っていた二人は即座に姿勢を正した。
「レグルス様!」
精衛十一幹部の一人、レグルス・ヴァレン。
特級の中でも上位に位置する実力者だった。
レグルスは三人の姿を確認すると、最後にヘクトルへ目を向け、露骨に顔をしかめた。
「……朝から最悪だな。よりによってあんたかよ」
「そりゃこっちの台詞だ。相変わらず寝起きみてえな面してんな」
「うるせえな。あんたこそ、もう少しまともな格好できねえのか?」
「服装で強さが決まるなら、てめえはとっくに最強だろうよ」
レグルスは舌打ちした。
ヘクトルとは古くからの付き合いだった。
精衛の幹部という立場ではレグルスが上だが、ヘクトルは彼より遥かに長い年月を生き、エリュネでも古参として知られる男だった。
その実力についても、レグルスは十分に理解している。
だからといって、素直に敬意を示すような性格でもなかった。
「で、何の用だ? まさか借金の取り立てから逃げてきたんじゃねえだろうな」
「誰がそんな理由で来るか!」
「前に似たようなことがあっただろ」
「昔の話を持ち出すんじゃねえ!」
二人のやり取りに、クラウスは思わず笑みを浮かべた。
「相変わらずだね、二人とも」
「ハッハッハ! 実に愉快な連中じゃ!」
ヴァルディスが豪快に笑うと、レグルスはようやく二人へ視線を移した。
「それで、クラウスにヴァルディスまで揃って何の用だ?」
相手が剣聖であろうと魔法帝であろうと、レグルスの態度は変わらなかった。
「エリュシア様に会わせてほしいんだ。この子のことでね」
クラウスがシリュウを示す。
レグルスは傷だらけの少年を見下ろした。
失われた右手と、深く傷ついた右目。
まだ幼い子供が負うには、あまりにも痛ましい傷だった。
「……治療か?」
「うん」
「だったら無理だ」
レグルスは即答した。
「エリュシア様が人間の治療を引き受けねえことくらい、知ってるだろ」
「もちろん。でも、この子には特別な事情があるんだ」
クラウスは一度、シリュウへ視線を落とした。
「この子は、死んだ母親を生き返らせたんだ」
レグルスの表情が止まった。
「……何だと?」
「僕たち三人が、その場で見た」
「おい、冗談にしちゃ笑えねえぞ」
レグルスの目つきが鋭くなる。
死者の蘇生。
それがどれほど常識外れの話なのか、彼にも十分理解できた。
「冗談じゃないよ」
クラウスの表情は真剣だった。
レグルスはヴァルディスへ視線を移した。
「……本当なのか?」
「うむ。儂もこの目で確認した。間違いなく死んでいた女が、あの少年の力で蘇ったのじゃ」
ヴァルディスは傍らに浮かぶセレナへ目を向けた。
「今はまだ意識が戻っておらんが、命は確かに宿っておる」
レグルスは言葉を失った。
人類最高峰の実力者である二人が、揃って同じ証言をしている。
容易に信じられる話ではなかったが、無視できるものでもなかった。
クラウスはレグルスの反応を確かめると、さらに声を落とした。
「それに、もしかすると、この子はアストレア様が予知された人物かもしれない」
レグルスの表情が変わった。
アウラ王国の大精霊アストレアには、遥か昔から探し続けている人物がいると伝えられていた。
だが、それはアストレアだけではなかった。
四大精霊の全員が、千年もの間、ある人物の行方を探し続けていたのである。
その人物がいつ、どこに現れるのか。
どのような姿をしているのか。
詳しいことは明かされていない。
ただ、四大精霊がその人物の到来を待ち望み、長い年月をかけて探し続けていることだけは、一部の者たちにも知られていた。
そして、エリュシアもまた、毎年多くの子供たちを塔へ招き、何かを確かめていた。
レグルスも、その人物が何者なのか、なぜ四大精霊がそこまで執着するのか、詳しい事情を聞かされたことはなかった。
「……根拠はあるのか?」
先ほどまでの軽薄な態度は消え、レグルスの声には慎重さが滲んでいた。
「確証はないよ。ただ、僕たちが見たのは、聖級の力でも不可能な死者の蘇生だった」
クラウスは静かに続けた。
「アストレア様が長い年月をかけて探している人物について、僕も詳しいことは知らない。でも、人間には決してできないことを、この子は成し遂げたんだ。だから、もしかしたらと思ってね」
クラウス自身、予知と少年を結びつける明確な証拠を持っているわけではなかった。
それでも、魔界で目撃した出来事は、単なる偶然として片づけるにはあまりにも異常だった。
レグルスは改めてシリュウを見つめた。
傷だらけの小さな身体。
意識を失ったままの少年からは、今は何の力も感じられない。
しかし、クラウスがここまで言う以上、単なる思い込みとは考えにくかった。
「……ちっ。面倒な話を持ってきやがって」
レグルスは銀髪をかき上げ、しばらく考え込んだ。
普段なら、どのような事情があろうと門前払いにするところだった。
だが、今回は違う。
死者の蘇生という前代未聞の出来事に加え、四大精霊が探し続けている人物に関わる可能性まである。
自分の判断だけで追い返してよい話ではなかった。
「少し待ってろ。俺が話を聞いてくる」
「ありがとう、レグルス」
「礼はまだ早えよ。会わせるかどうか決めるのはエリュシア様だ」
そう言い残すと、レグルスは塔の中へ戻っていった。
白亜の塔の上層。
大きな窓からエリュネの街を一望できる一室に、エリュシアはいた。
室内には上質な絨毯が敷かれ、壁際の書棚には古い書物が整然と並んでいる。窓辺には白い花が飾られ、長い年月をかけて選び抜かれた調度品が、落ち着いた気品を漂わせていた。
その窓辺に、一人の女性が立っていた。
四大精霊の一人、エリュシア。
腰を越えて流れる長い銀髪は、陽光を受けて白銀に輝いている。
人間離れした美貌に、すらりとした手足と細い腰、豊かな胸元が美しい均整を描いていた。
鮮やかな衣装には精緻な金糸の刺繍が施され、宝石をあしらった装飾品が華やかさを添えている。
その姿には、千年を生きた者の深い知性と、自然と人を惹きつける気品が備わっていた。
「失礼します」
扉の向こうから声がした。
「入りなさい、レグルス」
穏やかな声に促され、レグルスが入室した。
「何かあったの?」
「少々、厄介な客が来まして」
「あら。あなたが厄介だと言うなんて、珍しいわね」
エリュシアは小さく微笑んだ。
「ヘクトルが来ています」
「まあ。それは確かに騒がしくなりそうね」
「クラウスとヴァルディスも一緒です」
「随分と豪華な顔ぶれね。それで?」
「怪我をした子供を連れてきて、治療してほしいそうです」
エリュシアは不思議そうに首を傾げた。
「……それを、なぜわざわざ私に報告するの?」
レグルスはすぐには答えなかった。
エリュシアは人間の傷を癒やさない。
生命と魂を司る彼女にとって、失われた肉体を再生することなど難しいことではない。
だが、彼女は人間の運命に安易に介入することを好まなかった。
人の傷も苦しみも、そしてその先にある運命も、人間自身の力で乗り越えるべきもの。
それがエリュシアの考えだった。
レグルスも、その信条を誰より理解している。
だからこそ、エリュシアには彼がわざわざ報告に来た理由が分からなかった。
「何か、特別な事情があるのかしら?」
「……その子供、死んだ母親を生き返らせたそうです」
エリュシアの微笑みが消えた。
「……何ですって?」
「クラウスとヴァルディスが、二人とも目撃したと言っています」
「死者を……?」
エリュシアは静かに目を伏せた。
死した魂を現世へ呼び戻す。
それは人間の力では決して到達できない領域だった。
そして、その言葉を聞いた瞬間、彼女の脳裏に一つの記憶が蘇った。
少し前。
世界のどこかで、ほんの一瞬だけ、懐かしい神力が解き放たれた。
千年間、一度として感じることのなかった力。
あまりにも短い一瞬だったため、その発生場所も、誰が放ったものなのかも分からなかった。
しかし、あの神力を感じた時、エリュシアの胸は確かに高鳴った。
忘れるはずのない気配だった。
何度も思い出し、何度も夢に見た、あの方の力。
「それと、クラウスが妙なことを言っていまして」
レグルスが続けた。
「アストレア様が予知された人物かもしれない、と」
エリュシアが顔を上げた。
「……アストレアが?」
「ええ。もちろん、確証はないそうですが」
エリュシアは何も答えなかった。
千年。
あまりにも長い時間だった。
何度も期待し、そのたびに違うと知った。
それでも、探すことをやめなかった。
もし、あの神力と、死者を蘇らせたという少年に関係があるのなら。
「……レグルス」
「はい」
「その子を、ここへ連れてきてちょうだい」
レグルスは驚いたように目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「ええ」
エリュシアは静かに微笑んだ。
「少し、確かめたいことがあるの」
その頃、塔の入口ではヘクトルが壁にもたれ、退屈そうに煙草をくわえていた。
「ったく、いつまで待たせる気だ」
「もう少し待とうよ。レグルスだって事情を説明してくれているはずだから」
クラウスがなだめる。
ヘクトルは鼻を鳴らし、腕の中のシリュウへ目を落とした。
少年は相変わらず目を覚まさない。
魔界で見せた凄まじい力が嘘だったかのように、その寝顔は幼く、無防備だった。
「……妙なガキだぜ」
そう呟いた時だった。
「シリュウ様!」
聞き慣れない声が響いた。
三人が振り返ると、いつの間にか小さな子供たちが立っていた。
赤い髪の少年。
青い髪の少女。
そして、金色の髪の少女。
いずれも五、六歳ほどに見える、愛らしい顔立ちの子供たちだった。
赤い髪の少年は、燃える炎を思わせる短い髪と、勝ち気な印象を与える紅い瞳を持っていた。小柄ながらも引き締まった身体を赤と黒の軽装に包み、その表情には隠しきれない闘争心が滲んでいる。
青い髪の少女は、肩の下まで伸びる淡い水色の髪を持ち、澄んだ青い瞳には年齢に似合わぬ落ち着きが宿っていた。白と青を基調とした清楚な衣装を身につけ、柔らかな顔立ちと丁寧な所作が印象的だった。
金色の髪の少女は、腰まで流れる艶やかな金髪を緩やかに巻き、琥珀色の大きな瞳を輝かせていた。白と金を基調とした華やかなドレスをまとい、まるで貴族の令嬢のような優雅さを漂わせている。
三人とも人間の子供と変わらぬ姿をしていたが、その美しさにはどこか現実離れしたものがあった。
赤い少年が真っ先に駆け寄った。
「シリュウ様! まだ目を覚まさないのか!?」
その声には焦りが滲んでいた。
魔界での戦いは、三人とも覚えている。
シリュウの右手が失われた瞬間も、右目を傷つけられた時も、すぐ側にいた。
守ろうとした。
だが、守りきれなかった。
その悔しさは、今も三人の胸に深く刻まれていた。
「おい、お前! シリュウ様は大丈夫なんだろうな!」
赤い少年がヘクトルへ詰め寄る。
「あ? 何だ、てめえら?」
「いいから答えろよ!」
今にも飛びかかりそうな勢いの少年を、青い少女が制した。
「赤、落ち着いてください。この方たちがシリュウ様を助けてくださったのでしょう」
青い少女自身も、平静ではいられなかった。
シリュウの傷を見つめる青い瞳には、深い悲しみが浮かんでいた。
それでも感情を抑え、ヘクトルへ丁寧に頭を下げる。
「突然失礼いたしました。シリュウ様をお助けいただき、ありがとうございます。お身体の状態を教えていただけませんでしょうか」
「……命に別状はねえ。だが、まだ意識は戻ってねえんだ」
その答えに、青い少女は小さく息を吐いた。
「そうですか……」
安堵と不安が入り交じった表情で、眠るシリュウを見つめる。
その隣で、金色の少女はヘクトルをじっと観察していた。
「まあ。シリュウ様を助けてくださった方でしたのね。それは大変失礼いたしましたわ」
優雅に一礼すると、金色の少女はにこやかに微笑んだ。
「ですが、そのお顔では、目を覚まされたシリュウ様が驚いてしまいますわ。ここからは私がお抱きいたしましょうか?」
「……てめえ、喧嘩売ってんのか?」
ヘクトルの額に青筋が浮かんだ。
「まあ、滅相もございません。シリュウ様のことを第一に考えて申し上げただけですわ。お気を悪くされたのでしたら、お顔ではなく性格の問題でしたのね」
金色の少女は、最後まで優雅な微笑みを崩さなかった。
ヘクトルが言い返そうとしたところで、クラウスが静かに口を開いた。
「ちょっと待って。君たちは……精霊なのかい?」
三人の身体からは、人間の神力や魔力とは異なる、精霊特有の気配が感じられた。
ヴァルディスも興味深そうに目を細める。
「ほう。人の姿をした精霊とはのう」
精霊は成長し、下位精霊以上になると人間の姿を取るようになる。
その多くは自分より上位の精霊に仕え、白亜の塔にも大精霊エリュシアを慕う数多くの精霊が暮らしていた。
だが、人間に仕える精霊は極めて珍しい。
まして、まだ七歳の子供に三人もの人化した精霊が付き従うなど、クラウスもヴァルディスも見聞きしたことがなかった。
「……妙じゃのう。この少年と、どのような関係なのじゃ?」
ヴァルディスが尋ねると、青い少女が静かに顔を上げた。
「シリュウ様は、私たちにとって何より大切なお方です」
その声には、揺るぎない意志が込められていた。
クラウスは少女の眼差しを見つめた。
「……君たちは、この子のことを以前から知っているのかい?」
「はい。ずっとお側におりました」
その言葉に、クラウスはふと魔界で見た三つの光を思い出した。
赤、青、金。
色が一致している。
そして、シリュウを守ろうとする態度も。
「……もしかして、君たちは、あの時の三つの微精霊なのかい?」
青い少女は静かに頷いた。
「はい。あの時はお力が足りず、シリュウ様をお守りすることができませんでした」
その声が、わずかに震えた。
赤い少年は悔しそうに拳を握りしめ、金色の少女も目を伏せた。
クラウスとヴァルディスは顔を見合わせた。
魔界で見た小さな光が、今は人間の姿を取っている。
いつ、どのように進化したのかは分からない。
しかし、シリュウとの間に特別な繋がりがあることだけは明らかだった。
その時、塔の扉が開いた。
「おい、待たせたな」
レグルスだった。
「エリュシア様がお会いになるそうだ。ついてこい」
「本当かい?」
クラウスの表情が明るくなった。
「ああ。ただし、余計なことはするなよ」
レグルスはそこで、三人の子供に気づいた。
「……何だ、そいつら?」
赤い少年が即座に睨み返した。
「何だとは何だ!」
その威勢のよさに、レグルスの眉がぴくりと動いた。
「……随分と威勢のいいガキだな」
「赤、失礼ですよ」
青い少女が注意する。
金色の少女はレグルスを見上げ、にこやかに微笑んだ。
「どうぞお気になさらず。この子は少々気が短いだけですの。もちろん、初対面の相手にそのような言葉遣いをなさる方にも、多少の問題はあると思いますけれど」
「……何だと?」
レグルスのこめかみが引きつった。
ヘクトルはその様子を見て、思わず鼻で笑った。
「お前も大変だな」
「……あんたが連れてきたんじゃねえのか?」
「今さっき現れたんだよ」
レグルスは深いため息をついた。
「……ったく。で、そいつらも一緒に来るつもりか?」
「うん。おそらく、この子と契約している精霊たちだと思う。できれば一緒に通してほしいんだ」
クラウスの説明に、レグルスは三人を見直した。
精霊が人間と契約すること自体は、まったくない話ではない。
しかし、人化した精霊が三人も、一人の幼い少年に付き従っている。
それだけでも異例だった。
「……三人もかよ。ますます妙なガキだな」
レグルスはシリュウへ視線を向け、少し考えた後、肩をすくめた。
「分かった。ただし、エリュシア様の御前では騒ぐなよ」
赤い少年は不満そうに鼻を鳴らしたが、青い少女に促され、渋々その後に続いた。
金色の少女だけは、何事もなかったかのように優雅な足取りで歩いている。
こうして三人の男と、意識を失った母子、そして三人の精霊は、白亜の塔へと足を踏み入れた。
塔の上層へ続く長い階段を上り、一行は大きな扉の前へ到着した。
レグルスが振り返る。
「もう一度言っておく。エリュシア様の御前だ。無礼な真似は許さねえ」
クラウスとヴァルディスは静かに頷いた。
ヘクトルも面倒そうに肩をすくめる。
しかし、三人の精霊は、すでに扉の向こうへ意識を向けていた。
赤い少年は落ち着きなく拳を握り、青い少女は祈るように両手を胸の前で組んでいる。
金色の少女もまた、いつもの微笑みを浮かべながら、その瞳には焦りを隠しきれずにいた。
彼らにとって重要なのは、大精霊の権威ではなかった。
ただ一つ。
シリュウの傷を治してもらうこと。
それだけだった。
レグルスが扉を開いた。
その瞬間、三人の精霊が真っ先に室内へ駆け込んだ。
「おい、待て!」
レグルスの制止など聞こえていない。
陽光の差し込む広い部屋。
その窓辺に、大精霊エリュシアが立っていた。
赤い少年は彼女の姿を認めるなり、声を張り上げた。
「おい! お前がエリュシアだな!」
突然の呼びかけに、エリュシアは驚いたように目を瞬かせた。
「……あら?」
「シリュウ様を治してくれ! お前なら治せるんだろ!」
赤い少年の声には、怒りと焦りが入り交じっていた。
自分たちが守るはずだった。
どれほど強大な敵が現れようとも、決して傷つけさせないと誓っていた。
それなのに、シリュウは右手を失い、右目にも深い傷を負ってしまった。
その事実が、赤い少年には何よりも耐え難かった。
青い少女も前へ進み、深々と頭を下げた。
「突然の無礼をお許しください。大精霊エリュシア様、どうかシリュウ様のお怪我を治していただけませんでしょうか」
その声は丁寧だったが、必死さが滲んでいた。
「失われた右手も、傷ついた右目も……どうか、元に戻して差し上げてください」
青い少女は頭を下げたまま、返答を待った。
その隣で、金色の少女が静かに口を開く。
「生命と魂を司る大精霊でいらっしゃるのでしょう? でしたら、この程度のお怪我など、さぞ簡単に治せるのでしょうね」
にこやかな笑顔のまま、さらに続ける。
「まさか、できるのに治してくださらないなんて、そんな薄情なことはなさいませんわよね?」
室内の空気が凍りついた。
レグルスの表情から、先ほどまでの気怠さが消えた。
「……てめえら」
低い声とともに、その手に一本の槍が現れた。
「エリュシア様に向かって、何て口を利きやがる!」
凄まじい殺気が室内を満たした。
特級上位の実力者が放つ威圧。
並の人間なら、その場に立っていることすらできないほどの圧力だった。
しかし、三人の精霊は一歩も引かなかった。
赤い少年は拳を握りしめ、レグルスを睨み返した。
青い少女は静かに頭を上げ、赤い少年の前へ進み出る。
その小さな身体はわずかに震えていた。
恐怖を感じていないわけではない。
目の前の男が、自分たちなど容易く倒せるほどの実力者であることは理解していた。
それでも、退くわけにはいかなかった。
「無礼はお詫びいたします。ですが、私たちはシリュウ様をお救いしたいだけなのです」
少女は真っ直ぐにレグルスを見つめた。
金色の少女も微笑みを崩さなかった。
「まあまあ、槍など持ち出して。小さな子供相手に随分と勇ましいことですわね」
「てめえ……!」
レグルスの怒りが頂点に達しかけた、その時だった。
「やめなさい、レグルス」
静かな声が響いた。
エリュシアだった。
「ですが、エリュシア様!」
「いいの。槍を下ろしてちょうだい」
その声に怒りはなかった。
エリュシアの関心は、目の前の三人の精霊に向けられていた。
彼女たちは下位精霊だった。
本来なら、大精霊である自分を敬い、その意向に従う立場にある。
ところが、この三人は違った。
自分の権威にも、レグルスの殺気にも屈することなく、ただ一人の少年のために必死になっている。
その姿は、エリュシアにとって奇妙なほど心に引っかかるものだった。
精霊が人間にこれほど深い忠誠を捧げるなど、尋常ではない。
しかも、三人とも自分の命より、その少年を大切にしていることが伝わってくる。
「……まさか」
エリュシアの胸に、ある可能性が浮かんだ。
少し前に感じた、あの懐かしい神力。
死者を蘇らせたという少年。
そして、大精霊である自分にさえ臆することなく、その少年を守ろうとする三人の精霊。
それぞれが別々の出来事でありながら、一つの答えへと結びついていくような予感がした。
エリュシアの胸が、激しく高鳴り始めた。
その時だった。
「おいおい、入った途端に何騒いでやがる」
ヘクトルの声が、開いた扉の向こうから響いた。
クラウスとヴァルディスに続き、ヘクトルがシリュウを抱えて室内へ入ってきた。
ヴァルディスの傍らには、魔法によって浮かされたセレナの姿もあった。
死の淵から呼び戻された彼女は、静かに眠り続けている。
エリュシアが顔を上げる。
そして、ヘクトルの腕の中で眠る少年を見た。
黒い髪。
幼い顔立ち。
深く傷ついた右目と、失われた右手。
まだ七歳の、小さな身体。
その姿を目にした瞬間、エリュシアの呼吸が止まった。
「…………あ」
千年間、探し続けてきた。
いつの日か人間として生まれ変わる、あの方を。
そのために、毎年多くの子供たちと顔を合わせてきた。
姿も名前も変わっているはずだった。
それでも、会えば必ず分かる。
その確信だけは、千年間、一度も揺らいだことがなかった。
そして今。
目の前の少年を見た瞬間、エリュシアには分かった。
間違えるはずがない。
千年前、世界が滅びようとしていたあの日。
自らの命を懸けて人類を守り抜いた、ただ一人の神。
神ゼウリオス。
その愛しい人が、今、人間の少年として目の前にいる。
「……ゼウリオス……様……?」
かすれた声が、静かな室内に響いた。
クラウスたちは顔を見合わせた。
レグルスも、主の様子が普段とまるで違うことに気づき、息を呑んだ。
千年もの間、どのような時でも気品と余裕を失わなかった大精霊。
その彼女が、今は目の前の少年を見つめたまま、動けなくなっていた。
「……本当に……帰って……」
言葉が続かなかった。
エリュシアの銀色の瞳が揺れた。
何度も夢に見た再会だった。
いつか必ず帰ってくると信じながらも、長い年月の中で、その願いが叶わないのではないかと恐れたこともあった。
けれど、今は違う。
夢ではない。
あの方が、確かにそこにいる。
エリュシアはゆっくりと歩み寄った。
その足取りは、普段の彼女からは想像もできないほど覚束なかった。
ヘクトルの前で立ち止まり、眠るシリュウを見つめる。
傷だらけの小さな身体を前に、胸が締めつけられた。
かつて世界を救った神が、なぜこれほど痛ましい姿になっているのか。
尋ねたいことは山ほどあった。
けれど、今は何も考えられなかった。
エリュシアは震える手を伸ばし、そっとシリュウの頬に触れた。
温かかった。
その小さな身体には、確かに命が宿っていた。
「……ああ……」
一筋の涙が頬を伝った。
やがて、それを堪えることもできなくなった。
千年前、最後に見たあの方の姿が脳裏に浮かぶ。
自分たちを残し、世界のために消えていった神。
もう一度、その声を聞きたかった。
もう一度、その笑顔を見たかった。
そして何より、今度こそ、あの方の側にいたかった。
エリュシアはシリュウの頬に触れたまま、静かに涙を流した。
室内にいた誰もが、言葉を失っていた。
ただ、赤と青と金の三人だけは、エリュシアの涙を見つめながら、何も言わずに立っていた。
エリュシアは震える唇を開いた。
「……お帰りなさい……」
涙に濡れた顔に、ようやく微笑みが浮かぶ。
「……ずっと……お待ちしておりました……」
千年の時を越え、彼女が待ち続けた愛しい人は、今、その腕の届く場所にいた。




