↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年待った精霊たちは、忌み子を愛してやまない  作者: ゆい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/12

第十章 千年の愛は止まらない


柔らかな温もりに包まれていた。


身体を優しく受け止める心地よい感触と、ほのかに漂う花の香り。


これほど穏やかな眠りについたことが、今まであっただろうか。


深い眠りの底から、シリュウの意識がゆっくりと浮かび上がっていく。


最初に感じたのは、痛みがないことへの違和感だった。


魔狼に噛み砕かれた右腕も、鋭い爪に引き裂かれた右目も、まるで何事もなかったかのように静かだった。それどころか、いつも身体のどこかにあった鈍い痛みさえ感じられない。


恐る恐る瞼を開く。


視界に広がったのは、見知らぬ白い天井だった。


淡い黄金色の光が頭上を流れ、周囲には色とりどりの花々が咲き誇っている。壁らしい壁は見当たらず、透き通った水のような光が空間をゆっくりと巡っていた。


「……ここは……?」


掠れた声が漏れる。


起き上がろうとして、シリュウは自分が巨大な花の蕾にも似た、不思議な揺り籠の中に横たわっていることに気づいた。


そして、何気なく動かした右手を見て、息を呑んだ。


「……え?」


指が動いている。


手のひらを開き、握り締める。何度繰り返しても、五本の指は自分の意思に従って動いた。


確かに失ったはずだった。


魔狼の牙が腕に食い込み、骨が砕けたあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。


震える左手で右腕をなぞった。


傷跡すらない。


続いて、恐る恐る右目に触れる。


そこにも、あの深い傷は残っていなかった。


「……どうして……?」


夢なのだろうか。


それとも、自分は死んでしまったのだろうか。


そう考えた瞬間、最後に見た光景が脳裏をよぎった。


血に染まり、力なく倒れた母の姿。


何度呼びかけても、返事をしてくれなかった。


「……母様……?」


呟いた途端、胸の奥が冷たくなった。


「母様……!」


シリュウは勢いよく身体を起こした。


「母様! どこ!?」


揺り籠から飛び出そうとする。しかし、足に力が入らず、身体が大きく傾いた。


「シリュウ様!」


突然、少女の声が響いた。


倒れかけた身体を、誰かが慌てて支える。


「まだ起き上がってはいけません!」


「……え?」


目の前には、青い髪の少女がいた。


年齢は自分とそう変わらないように見える。透き通るような青い瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


その背後には、赤髪の少年と金髪の少女もいる。


「よかった……! 本当にお目覚めになったんですね!」


青髪の少女は、今にも泣き出しそうな顔でシリュウを支えていた。


「まったく……どれだけ心配したと思ってるんですか」


赤髪の少年も、大きく息を吐く。


一方、金髪の少女は二人の間をするりと抜け、当然のようにシリュウの隣へ腰掛けた。


「ふふっ。おはようございます、シリュウ様」


そう言って、柔らかく微笑む。


シリュウは三人を順番に見つめた。


誰なのだろう。


見覚えのない顔ばかりだったが、三人とも自分を知っているらしい。


けれど、今はそれどころではなかった。


「あ、あの……!」


「はい、何でしょう?」


「母様は……? 母様はどこにいるの……?」


シリュウは青髪の少女の腕を掴んだ。


「母様が……魔狼に襲われて……血がいっぱい出て……!」


思い出すだけで、声が震える。


「僕が呼んでも……起きてくれなくて……!」


青髪の少女は、その小さな手を優しく握り返した。


「大丈夫です、シリュウ様。セレナ様はご無事ですよ」


「……本当?」


「はい。今は別のお部屋で治療を受けていらっしゃいます。まだお目覚めにはなっていませんが、命に別状はありません」


「……生きてる……?」


「はい。ちゃんと生きていらっしゃいます」


シリュウの瞳が大きく揺れた。


「……よかった……」


張り詰めていた力が抜け、シリュウはその場に座り込んだ。


目尻から涙がこぼれる。


「……母様……生きてるんだ……」


「はい。もう魔狼に襲われる心配もありません。安心してください」


シリュウは何度も頷いた。


青髪の少女は、その背中を優しく撫でながら、落ち着くのを待った。


やがて涙を拭ったシリュウは、改めて三人を見上げた。


「……あの……」


「はい?」


「……みんなは、誰なの?」


赤髪の少年が、ぽんと手を打った。


「ああ、そうか! この姿じゃ分からないですよね!」


「そうでしたね。私たち、まだ自己紹介をしていませんでした」


青髪の少女も頷く。


金髪の少女は、そんな二人を眺めながら小さく笑った。


「ふふっ。二人とも、すっかり忘れていたのね」


「お前だって説明してなかっただろ!」


「あら、私はシリュウ様のお傍にいられるだけで幸せなの。あなたと一緒にしないでくれる?」


「何だよ、その理由!」


二人のやり取りに、シリュウは目を瞬かせた。


どこか懐かしい。


初めて聞くはずの声なのに、不思議と安心できる。


青髪の少女が、そんなシリュウの前に膝をついた。


「改めまして、シリュウ様。私たちは精霊です!」


「……精霊?」


「はい! シリュウ様がお生まれになったときから、ずっとお傍にいた三人です!」


シリュウは三人を見つめた。


赤い髪。


青い髪。


金色の髪。


そして、三人から感じる、よく知った温かな気配。


「……もしかして……」


「はい!」


「……いつも僕の周りにいた……?」


「そうです!」


「……赤と、青と、金?」


「はいっ!」


青髪の少女が満面の笑みを浮かべる。


その瞬間、シリュウの顔がぱっと明るくなった。


「ええっ!? みんな、人間になったの!?」


「人間ではありません! 人型になったんです!」


「すごい! 本当に!?」


シリュウは三人を交互に見つめた。


暗い離れで一人きりだったときも、母がいない夜も、三人だけは決して離れなかった。


誰にも話しかけてもらえない日でさえ、赤と青と金はいつも傍にいてくれた。


その三人が、今は自分と同じような姿をしている。


「……本当に、みんななの?」


「もちろんです!」


青髪の少女が嬉しそうに答える。


シリュウは思わず笑顔になった。


「じゃあ……これからは、みんなとお話できるの?」


「はい! いくらでもお話できますよ!」


「本当!? 僕、みんなに聞きたいことがいっぱいあるんだ!」


その言葉に、赤髪の少年が得意げに胸を張った。


「何でも聞いてください! 俺が全部お答えしますよ!」


「ふふっ。頼もしいですねぇ」


金髪の少女が、おっとりと微笑む。


「でも、赤の頭で答えられることって、そんなにあるのかしら?」


「お前、いちいち余計なこと言うな!」


「余計なこと? 私はシリュウ様のお役に立てるか心配しているだけよ」


「その言い方が余計なんだよ!」


「心配してあげているのに怒るなんて、ずいぶん恩知らずね」


赤髪の少年が額を押さえた。


そんな二人を見て、シリュウはくすくすと笑った。


「……シリュウ様?」


青髪の少女が首を傾げる。


「ううん。なんだか嬉しくて」


シリュウは照れくさそうに微笑んだ。


「今までは、みんなとお話したくても、できなかったから……」


青髪の少女の瞳が潤む。


赤髪の少年は慌てて顔を逸らした。


金髪の少女は、そんなシリュウの腕にそっと抱きついた。


「ふふっ。これからは、いつでもお話できますよ」


「うん!」


「それに、こうしてぎゅーっとすることもできます」


「わっ!」


金髪の少女が嬉しそうに頬を寄せる。


「……ずるい!」


青髪の少女が抗議した。


「私だって、まだ抱きしめていないのに!」


「ふふっ。でしたら、青もこちらへどうぞ?」


金髪の少女が優しく微笑む。


青髪の少女が嬉しそうに身を乗り出した、その瞬間だった。


「……と言いたいところだけど、今は私が抱きしめているの。少しは遠慮してくれる?」


「だったら最初から誘わないでください!」


「ふふっ。冗談よ。そんなに必死にならなくても、シリュウ様は逃げたりしないわ」


赤髪の少年は呆れたように肩を竦めた。


「まったく、少しは落ち着いたらどうですか」


すると、金髪の少女がにっこり微笑んだ。


「そうね。では、赤は少し離れたところで静かにしていて。あなたがいると空気が騒がしくなるの」


「なんで俺だけ!?」


シリュウの笑い声が、聖域に響いた。


それは、七年間の人生で数えるほどしかなかった、心からの笑顔だった。


そして、その光景を少し離れた場所から見つめている女性がいた。


生命と魂を司る四大精霊、エリュシア。


千年前に神ゼウリオスを失って以来、ただ一人の帰還を待ち続けてきた存在である。


彼女は、楽しそうに笑うシリュウを愛おしそうに見つめていた。


だが、金髪の少女がシリュウの腕に抱きつき、嬉しそうに頬を擦り寄せた瞬間、その笑顔が僅かに引きつった。


「……随分と楽しそうですね」


穏やかな声が響いた。


三人が振り返る。


そこに立つ女性の姿を認め、青髪の少女が丁寧に頭を下げた。


「エリュシア様。シリュウ様のお怪我を治していただき、ありがとうございました」


「いいえ。当然のことをしたまでですよ」


エリュシアは微笑んだ。


その隣で、赤髪の少年が気まずそうに視線を落とした。


「……エリュシア様」


「はい?」


「さっきは……ごめんなさい。大精霊エリュシア様に、あんな口の利き方をして……」


赤は頭を下げた。


「シリュウ様があんな大怪我をして……俺、どうしたらいいか分からなくて……」


普段は勢いのある赤も、今ばかりはしょんぼりしている。


エリュシアはその姿を見て、優しく微笑んだ。


「もうよいのですよ。あなたがシリュウ様を助けようと必死だったことは、分かっていますから」


「……怒ってないんですか?」


「ええ。もちろんです」


赤髪の少年は、ほっとしたように顔を上げた。


「……ありがとうございます!」


その隣で、金髪の少女が小さく笑った。


「ふふっ。赤にも反省する頭があったのね。少し見直したわ」


「お前なぁ……!」


「私、褒めているのよ?」


「どこがだよ!」


「褒められ慣れていないなら仕方ないわね」


赤髪の少年が何か言い返そうとしたが、エリュシアが口元に手を添えて微笑んだため、渋々口を閉じた。


エリュシアは改めてシリュウへ視線を向けた。


その隣には、相変わらず金髪の少女がぴったりと寄り添っている。


「……ところで、金」


「なあに?」


「少し場所を空けていただけますか?」


「どうして?」


金髪の少女は、シリュウの腕を抱いたまま首を傾げた。


「私も、シリュウ様のお傍に座りたいのです」


「そうなんだ」


金髪の少女はにこりと微笑んだ。


「でも、私が先に座っていたの。あとから来た人が当然のように席を譲ってもらえると思うなんて、ずいぶん図々しいのね」


「……金!」


青髪の少女が慌てて声を上げた。


赤髪の少年も眉をひそめる。


「お前、今度はエリュシア様に何言ってるんだよ!」


「何って、先に座っていたのは私だと説明しているだけよ?」


金髪の少女は不思議そうに首を傾げた。


エリュシアは一瞬言葉を失ったものの、すぐに微笑みを取り戻した。


「……確かに、先に座っていたのはあなたですね」


「ええ。理解してもらえてよかったわ」


「ですが、私もシリュウ様とお話したいのです」


「お話なら、そこからでもできるでしょう?」


金髪の少女は空いている場所を指差した。


「それとも、わざわざ隣に座らないとお話もできないの? 四大精霊って、意外と不便なのね」


青髪の少女が両手で顔を覆った。


赤髪の少年も、今度ばかりは何も言えずに天井を仰いでいる。


エリュシアは小さく咳払いをした。


「……では、まずはご挨拶をさせていただきますね」


そう言って、シリュウへ向き直る。


その瞬間、先ほどまでの困惑が消え、花が綻ぶような笑顔が浮かんだ。


「お目覚めになられたのですね、シリュウ様」


「……あ、はい」


シリュウは少し緊張した面持ちで頷いた。


目の前の女性は、今まで出会った誰よりも美しかった。


柔らかな光を帯びた長い髪に、透き通るような瞳。


そして、見つめられているだけで身体が温かくなるような、不思議な雰囲気。


「……あの、あなたは……?」


「申し遅れました」


エリュシアは優雅に一礼した。


「私はエリュシア。生命と魂を司る四大精霊の一柱です」


「……四大精霊……?」


シリュウの目が大きく見開かれた。


四大精霊。


その名は、幼いシリュウでも知っている。


千年前、神と共に破壊神を封印し、今も大陸の人々から崇められている偉大な存在。


その一人が、目の前にいる。


「……ええっ!?」


シリュウは慌てて姿勢を正した。


「ご、ごめんなさい! 僕、知らなくて……!」


「まあ、シリュウ様!」


エリュシアは慌てて首を振った。


「どうか、そのように畏まらないでください。私のことは、もっと気軽に接していただいて構わないのですよ?」


「で、でも……四大精霊様ですよね……?」


「ええ。ですが、シリュウ様には何の遠慮も必要ありません」


エリュシアは満面の笑みを浮かべた。


「それに、私のことはエリュシアと呼び捨てにしてくださっても構いません。いえ、むしろ、そう呼んでいただけたら嬉しいです」


「えっ……?」


「もちろん、もっと親しみを込めた呼び方でも構いませんよ?」


シリュウが困惑していると、青髪の少女が控えめに口を挟んだ。


「あの……エリュシア様」


「何でしょう?」


「シリュウ様は、まだエリュシア様とお会いしたばかりですので……」


「ええ、承知していますよ」


「でしたら、もう少しゆっくりお話しされてはいかがでしょうか?」


エリュシアは一瞬きょとんとした。


「……私は、何かおかしなことを申しましたか?」


赤髪の少年が苦笑する。


「いえ、その……少々距離が近いといいますか……」


「距離……?」


エリュシアは自分とシリュウの間を見た。


そして、何かを納得したように頷く。


「なるほど。確かに、まだ少し離れていますね」


そう言うと、さらにシリュウへ身を寄せた。


「……え?」


「これでよろしいでしょうか?」


青髪の少女が絶句した。


赤髪の少年も、開いた口が塞がらない。


金髪の少女は、そんなエリュシアを見つめながら柔らかく微笑んだ。


「ふふっ。エリュシア様は、本当にシリュウ様がお好きなのね」


「……ええ。それはもう」


エリュシアが嬉しそうに頷く。


すると、金髪の少女は小さく首を傾げた。


「でも、初めてお話する七歳の男の子にそこまで必死になるなんて、見ていて笑えるくらい余裕がないのね」


「……金」


エリュシアの笑顔が僅かに引きつった。


「なあに?」


「もう少し、言葉を選んでいただけますか?」


「選んだ結果よ。選ばなかったら、もっとひどいことになっていたと思うけど?」


赤髪の少年は額を押さえた。


「……お前、さっきから本当に容赦ないな」


「だって、赤が言わないんだもの。誰かが教えて差し上げないと、お気の毒でしょう?」


「俺を巻き込むな!」


エリュシアの笑顔が固まる。


シリュウは、そんな四人の様子を不思議そうに眺めていた。


四大精霊というのは、もっと恐ろしく、近寄りがたい存在だと思っていた。


けれど、目の前のエリュシアは三人と普通に言葉を交わしている。


それどころか、金に注意されて困った顔までしていた。


「……ふふっ」


思わず笑いが漏れた。


エリュシアが振り返る。


「……シリュウ様?」


「ご、ごめんなさい……」


「いいえ!」


エリュシアは即座に首を振った。


「謝る必要などありません。どうぞ、もっと笑ってくださいませ!」


そう言う彼女の表情は、心から幸せそうだった。


シリュウも、つられて微笑んだ。


しかし、ふと視線が右手へ落ちた。


何度見ても、そこには失ったはずの腕がある。


指を動かす。


手のひらを握る。


確かな感触が返ってくる。


その様子に気づいたエリュシアが、静かに問いかけた。


「……お身体の具合はいかがですか? どこか痛むところはありませんか?」


「……はい。どこも痛くないです」


「それは何よりです」


エリュシアは安堵したように微笑んだ。


「シリュウ様の右腕と右目は、私の権能で元通りにいたしました。ほかのお怪我も、すべて治しております」


「……エリュシア様が……?」


「はい」


シリュウは自分の右手を見つめた。


「……すごい……」


小さく呟く。


「……ありがとうございます」


そして、深々と頭を下げた。


エリュシアは目を細めた。


「どうか、お顔を上げてください。シリュウ様が無事にお目覚めになってくださったことが、私には何より嬉しいのです」


「……でも……」


シリュウは膝の上で両手を握った。


「……どうして、僕を治してくれたんですか?」


その問いに、エリュシアの表情が変わった。


「……どうして、ですか?」


「はい……」


シリュウは俯いた。


「僕、エリュシア様に何もしてないのに……こんなにすごいことをしてもらって……」


エリュシアは静かに彼を見つめた。


「……理由が必要なのですか?」


「……だって……」


シリュウの声が小さくなる。


「僕、何も返せないから……」


エリュシアの胸が締めつけられた。


「母様も……助けてもらったんですよね?」


「……はい。セレナ様も、今は安全な場所で治療を受けていらっしゃいます」


「それなら……僕、ちゃんとお礼をしないと……」


「シリュウ様」


エリュシアが優しく呼びかける。


「私たちは、見返りが欲しくてあなた方を助けたのではありません」


「……でも……」


「あなたとセレナ様が無事でいてくださる。それだけで十分なのです」


シリュウは顔を上げた。


エリュシアの瞳には、先ほどまでの冗談めいた色はなかった。


ただ、深い愛情が宿っていた。


その眼差しを受け、シリュウは何かを決心したように唇を噛んだ。


「……あの……!」


「はい」


「……お願いが、あります……」


エリュシアは姿勢を正した。


「何でしょう?」


シリュウは揺り籠から降りようとした。


「シリュウ様?」


「……お願いします……」


足を床につける。


まだ身体に力が入りきらず、少しよろめいた。


エリュシアが手を伸ばそうとした、そのときだった。


シリュウは彼女の前で膝をついた。


そして、小さな身体を折り曲げ、深く頭を下げた。


「……お願いです……!」


エリュシアの動きが止まった。


「……シリュウ様?」


「……僕と母様を……この国に置いてください……!」


震える声が、静かな聖域に響いた。


三人の精霊が息を呑む。


「……母様は……何も悪くないんです……」


シリュウは必死に言葉を紡いだ。


「僕が……神気を持たない、出来損ないの忌み子だから……母様まで……」


エリュシアの表情から、笑みが消えた。


「……忌み子……?」


その言葉を、彼女は小さく繰り返した。


シリュウは俯いたまま頷いた。


「……僕が生まれてこなかったら……母様は、あんな目に遭わなかったのに……」


エリュシアの指先が僅かに震えた。


「でも……母様は……ずっと僕を守ってくれて……!」


声が震える。


「だから……母様だけでも……!」


エリュシアは何かを言いかけたが、言葉にならなかった。


「……僕、ちゃんと働きます……!」


シリュウは小さな拳を握り締めた。


「掃除も、お洗濯も……何でもします……!」


ぽたぽたと、床に涙が落ちた。


「言われたことも、ちゃんと聞きます……! 僕にできることなら、何でもします……!」


エリュシアは、膝の上に置いた手を強く握り締めた。


「ご飯も……少しだけでいいです……! 僕、あんまり食べなくても大丈夫だから……!」


「……シリュウ様……」


「だから……お願いです……!」


シリュウはさらに深く頭を下げた。


「……母様と一緒に……ここに住ませてください……!」


一瞬、聖域から音が消えた。


エリュシアは、目の前で頭を下げる小さな少年を見つめていた。


神気を持たない出来損ない。


忌み子。


その言葉を、シリュウは自分のこととして口にした。


誰かに言われた言葉を、ただ繰り返しているのではない。


自分はそういう存在なのだと、信じている。


千年前、自分たちが誰よりも敬い、愛した存在。


その魂を宿した少年が、今、自分に向かって必死に頭を下げている。


温かな食事を求めることさえ遠慮し、住む場所を与えてもらうために、何でもすると申し出ている。


エリュシアは、ゆっくりと膝をついた。


「……シリュウ様」


返事はなかった。


小さな肩が震えている。


「……どうか、お顔を上げてください」


「……お願い……します……」


「……シリュウ様」


その声が、僅かに震えた。


エリュシアは両手を伸ばし、シリュウの肩にそっと触れた。


「……私に、そのようなお願いをなさらないでください……」


シリュウの身体がびくりと強張った。


「……だめ……ですか……?」


その一言に、エリュシアは息を呑んだ。


拒絶されたと思ったのだろう。


少年の顔から、僅かに残っていた希望が消えかけていた。


エリュシアは思わず、その小さな身体を抱きしめた。


「……違います!」


強く、けれど決して痛くないように。


「違うのです、シリュウ様……!」


「……エリュシア……様……?」


「あなたが、そこまでなさらなくてもよいのです……」


エリュシアは震える声で続けた。


「どうか……私に頭を下げないでください……」


シリュウは戸惑ったまま、彼女の腕の中にいた。


「……僕……ここにいても……いいんですか……?」


「もちろんです」


エリュシアは即座に答えた。


「あなたも、セレナ様も、ここに暮らしていただいて構いません」


「……本当……?」


「はい。私がお約束します」


エリュシアはシリュウの頬に手を添え、涙を拭った。


「お食事も、お洋服も、温かいお部屋も、何一つ心配なさらなくてよいのです」


「……でも……僕……」


「何も差し出す必要はありません」


エリュシアは優しく微笑んだ。


「あなたがここで笑ってくださる。それだけで、私は十分幸せなのですよ」


シリュウの瞳から、再び涙が溢れた。


「……ありがとう……ございます……!」


小さな両手が、エリュシアの衣装を握り締める。


「……本当に……ありがとう……!」


エリュシアは、その身体を抱きしめながら静かに目を閉じた。


千年待ち続けた再会。


ようやく取り戻した、何よりも大切な存在。


二度と、この手を離したくない。


その想いを胸に、エリュシアはシリュウの髪を優しく撫で続けた。


青髪の少女は涙を拭い、赤髪の少年は顔を逸らしていた。


金髪の少女も、珍しく何も言わずに二人を見守っている。


やがて、シリュウが落ち着きを取り戻した頃。


エリュシアは、腕の中の少年をそっと見つめた。


「……ところで、シリュウ様」


「……はい?」


「先ほど、一つ気になることをおっしゃっていましたね」


「……気になること?」


「ええ。確か……ご自分にできることなら、何でもすると」


シリュウは涙の残る顔で頷いた。


「……はい。僕にできることなら、何でもします」


「……本当に、何でもよろしいのですか?」


「はい!」


エリュシアの表情が、僅かに明るくなった。


その様子を見て、青髪の少女が不思議そうに首を傾げる。


「……エリュシア様?」


「何でしょう?」


「先ほど、シリュウ様には何も差し出す必要がないと……」


「ええ。もちろん、そのつもりですよ」


「でしたら、どうして……?」


エリュシアは優しく微笑んだ。


「少しだけ、お願いしたいことがあるのです」


赤髪の少年が眉をひそめる。


「……お願い、ですか?」


「はい」


金髪の少女も、シリュウの隣からエリュシアを見上げた。


「ふうん。何をお願いするつもりなの?」


金髪の少女が興味深そうに首を傾げる。


エリュシアは答えず、ただ意味ありげに微笑んだ。


そして、シリュウへ向き直ると、その小さな両手を優しく包み込んだ。


「シリュウ様」


「……はい?」


「一つだけ、私の願いを聞いていただけますか?」


「はい! 何でしょう?」


エリュシアの笑みが深まった。


千年もの間、胸の奥に秘め続けてきた想い。


ようやく再会できた愛しい存在を前に、彼女は幸せそうに微笑んだ。



「では、私を伴侶にしてください」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。