第十章 千年の愛は止まらない
柔らかな温もりに包まれていた。
身体を優しく受け止める心地よい感触と、ほのかに漂う花の香り。
これほど穏やかな眠りについたことが、今まであっただろうか。
深い眠りの底から、シリュウの意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
最初に感じたのは、痛みがないことへの違和感だった。
魔狼に噛み砕かれた右腕も、鋭い爪に引き裂かれた右目も、まるで何事もなかったかのように静かだった。それどころか、いつも身体のどこかにあった鈍い痛みさえ感じられない。
恐る恐る瞼を開く。
視界に広がったのは、見知らぬ白い天井だった。
淡い黄金色の光が頭上を流れ、周囲には色とりどりの花々が咲き誇っている。壁らしい壁は見当たらず、透き通った水のような光が空間をゆっくりと巡っていた。
「……ここは……?」
掠れた声が漏れる。
起き上がろうとして、シリュウは自分が巨大な花の蕾にも似た、不思議な揺り籠の中に横たわっていることに気づいた。
そして、何気なく動かした右手を見て、息を呑んだ。
「……え?」
指が動いている。
手のひらを開き、握り締める。何度繰り返しても、五本の指は自分の意思に従って動いた。
確かに失ったはずだった。
魔狼の牙が腕に食い込み、骨が砕けたあの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
震える左手で右腕をなぞった。
傷跡すらない。
続いて、恐る恐る右目に触れる。
そこにも、あの深い傷は残っていなかった。
「……どうして……?」
夢なのだろうか。
それとも、自分は死んでしまったのだろうか。
そう考えた瞬間、最後に見た光景が脳裏をよぎった。
血に染まり、力なく倒れた母の姿。
何度呼びかけても、返事をしてくれなかった。
「……母様……?」
呟いた途端、胸の奥が冷たくなった。
「母様……!」
シリュウは勢いよく身体を起こした。
「母様! どこ!?」
揺り籠から飛び出そうとする。しかし、足に力が入らず、身体が大きく傾いた。
「シリュウ様!」
突然、少女の声が響いた。
倒れかけた身体を、誰かが慌てて支える。
「まだ起き上がってはいけません!」
「……え?」
目の前には、青い髪の少女がいた。
年齢は自分とそう変わらないように見える。透き通るような青い瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
その背後には、赤髪の少年と金髪の少女もいる。
「よかった……! 本当にお目覚めになったんですね!」
青髪の少女は、今にも泣き出しそうな顔でシリュウを支えていた。
「まったく……どれだけ心配したと思ってるんですか」
赤髪の少年も、大きく息を吐く。
一方、金髪の少女は二人の間をするりと抜け、当然のようにシリュウの隣へ腰掛けた。
「ふふっ。おはようございます、シリュウ様」
そう言って、柔らかく微笑む。
シリュウは三人を順番に見つめた。
誰なのだろう。
見覚えのない顔ばかりだったが、三人とも自分を知っているらしい。
けれど、今はそれどころではなかった。
「あ、あの……!」
「はい、何でしょう?」
「母様は……? 母様はどこにいるの……?」
シリュウは青髪の少女の腕を掴んだ。
「母様が……魔狼に襲われて……血がいっぱい出て……!」
思い出すだけで、声が震える。
「僕が呼んでも……起きてくれなくて……!」
青髪の少女は、その小さな手を優しく握り返した。
「大丈夫です、シリュウ様。セレナ様はご無事ですよ」
「……本当?」
「はい。今は別のお部屋で治療を受けていらっしゃいます。まだお目覚めにはなっていませんが、命に別状はありません」
「……生きてる……?」
「はい。ちゃんと生きていらっしゃいます」
シリュウの瞳が大きく揺れた。
「……よかった……」
張り詰めていた力が抜け、シリュウはその場に座り込んだ。
目尻から涙がこぼれる。
「……母様……生きてるんだ……」
「はい。もう魔狼に襲われる心配もありません。安心してください」
シリュウは何度も頷いた。
青髪の少女は、その背中を優しく撫でながら、落ち着くのを待った。
やがて涙を拭ったシリュウは、改めて三人を見上げた。
「……あの……」
「はい?」
「……みんなは、誰なの?」
赤髪の少年が、ぽんと手を打った。
「ああ、そうか! この姿じゃ分からないですよね!」
「そうでしたね。私たち、まだ自己紹介をしていませんでした」
青髪の少女も頷く。
金髪の少女は、そんな二人を眺めながら小さく笑った。
「ふふっ。二人とも、すっかり忘れていたのね」
「お前だって説明してなかっただろ!」
「あら、私はシリュウ様のお傍にいられるだけで幸せなの。あなたと一緒にしないでくれる?」
「何だよ、その理由!」
二人のやり取りに、シリュウは目を瞬かせた。
どこか懐かしい。
初めて聞くはずの声なのに、不思議と安心できる。
青髪の少女が、そんなシリュウの前に膝をついた。
「改めまして、シリュウ様。私たちは精霊です!」
「……精霊?」
「はい! シリュウ様がお生まれになったときから、ずっとお傍にいた三人です!」
シリュウは三人を見つめた。
赤い髪。
青い髪。
金色の髪。
そして、三人から感じる、よく知った温かな気配。
「……もしかして……」
「はい!」
「……いつも僕の周りにいた……?」
「そうです!」
「……赤と、青と、金?」
「はいっ!」
青髪の少女が満面の笑みを浮かべる。
その瞬間、シリュウの顔がぱっと明るくなった。
「ええっ!? みんな、人間になったの!?」
「人間ではありません! 人型になったんです!」
「すごい! 本当に!?」
シリュウは三人を交互に見つめた。
暗い離れで一人きりだったときも、母がいない夜も、三人だけは決して離れなかった。
誰にも話しかけてもらえない日でさえ、赤と青と金はいつも傍にいてくれた。
その三人が、今は自分と同じような姿をしている。
「……本当に、みんななの?」
「もちろんです!」
青髪の少女が嬉しそうに答える。
シリュウは思わず笑顔になった。
「じゃあ……これからは、みんなとお話できるの?」
「はい! いくらでもお話できますよ!」
「本当!? 僕、みんなに聞きたいことがいっぱいあるんだ!」
その言葉に、赤髪の少年が得意げに胸を張った。
「何でも聞いてください! 俺が全部お答えしますよ!」
「ふふっ。頼もしいですねぇ」
金髪の少女が、おっとりと微笑む。
「でも、赤の頭で答えられることって、そんなにあるのかしら?」
「お前、いちいち余計なこと言うな!」
「余計なこと? 私はシリュウ様のお役に立てるか心配しているだけよ」
「その言い方が余計なんだよ!」
「心配してあげているのに怒るなんて、ずいぶん恩知らずね」
赤髪の少年が額を押さえた。
そんな二人を見て、シリュウはくすくすと笑った。
「……シリュウ様?」
青髪の少女が首を傾げる。
「ううん。なんだか嬉しくて」
シリュウは照れくさそうに微笑んだ。
「今までは、みんなとお話したくても、できなかったから……」
青髪の少女の瞳が潤む。
赤髪の少年は慌てて顔を逸らした。
金髪の少女は、そんなシリュウの腕にそっと抱きついた。
「ふふっ。これからは、いつでもお話できますよ」
「うん!」
「それに、こうしてぎゅーっとすることもできます」
「わっ!」
金髪の少女が嬉しそうに頬を寄せる。
「……ずるい!」
青髪の少女が抗議した。
「私だって、まだ抱きしめていないのに!」
「ふふっ。でしたら、青もこちらへどうぞ?」
金髪の少女が優しく微笑む。
青髪の少女が嬉しそうに身を乗り出した、その瞬間だった。
「……と言いたいところだけど、今は私が抱きしめているの。少しは遠慮してくれる?」
「だったら最初から誘わないでください!」
「ふふっ。冗談よ。そんなに必死にならなくても、シリュウ様は逃げたりしないわ」
赤髪の少年は呆れたように肩を竦めた。
「まったく、少しは落ち着いたらどうですか」
すると、金髪の少女がにっこり微笑んだ。
「そうね。では、赤は少し離れたところで静かにしていて。あなたがいると空気が騒がしくなるの」
「なんで俺だけ!?」
シリュウの笑い声が、聖域に響いた。
それは、七年間の人生で数えるほどしかなかった、心からの笑顔だった。
そして、その光景を少し離れた場所から見つめている女性がいた。
生命と魂を司る四大精霊、エリュシア。
千年前に神ゼウリオスを失って以来、ただ一人の帰還を待ち続けてきた存在である。
彼女は、楽しそうに笑うシリュウを愛おしそうに見つめていた。
だが、金髪の少女がシリュウの腕に抱きつき、嬉しそうに頬を擦り寄せた瞬間、その笑顔が僅かに引きつった。
「……随分と楽しそうですね」
穏やかな声が響いた。
三人が振り返る。
そこに立つ女性の姿を認め、青髪の少女が丁寧に頭を下げた。
「エリュシア様。シリュウ様のお怪我を治していただき、ありがとうございました」
「いいえ。当然のことをしたまでですよ」
エリュシアは微笑んだ。
その隣で、赤髪の少年が気まずそうに視線を落とした。
「……エリュシア様」
「はい?」
「さっきは……ごめんなさい。大精霊エリュシア様に、あんな口の利き方をして……」
赤は頭を下げた。
「シリュウ様があんな大怪我をして……俺、どうしたらいいか分からなくて……」
普段は勢いのある赤も、今ばかりはしょんぼりしている。
エリュシアはその姿を見て、優しく微笑んだ。
「もうよいのですよ。あなたがシリュウ様を助けようと必死だったことは、分かっていますから」
「……怒ってないんですか?」
「ええ。もちろんです」
赤髪の少年は、ほっとしたように顔を上げた。
「……ありがとうございます!」
その隣で、金髪の少女が小さく笑った。
「ふふっ。赤にも反省する頭があったのね。少し見直したわ」
「お前なぁ……!」
「私、褒めているのよ?」
「どこがだよ!」
「褒められ慣れていないなら仕方ないわね」
赤髪の少年が何か言い返そうとしたが、エリュシアが口元に手を添えて微笑んだため、渋々口を閉じた。
エリュシアは改めてシリュウへ視線を向けた。
その隣には、相変わらず金髪の少女がぴったりと寄り添っている。
「……ところで、金」
「なあに?」
「少し場所を空けていただけますか?」
「どうして?」
金髪の少女は、シリュウの腕を抱いたまま首を傾げた。
「私も、シリュウ様のお傍に座りたいのです」
「そうなんだ」
金髪の少女はにこりと微笑んだ。
「でも、私が先に座っていたの。あとから来た人が当然のように席を譲ってもらえると思うなんて、ずいぶん図々しいのね」
「……金!」
青髪の少女が慌てて声を上げた。
赤髪の少年も眉をひそめる。
「お前、今度はエリュシア様に何言ってるんだよ!」
「何って、先に座っていたのは私だと説明しているだけよ?」
金髪の少女は不思議そうに首を傾げた。
エリュシアは一瞬言葉を失ったものの、すぐに微笑みを取り戻した。
「……確かに、先に座っていたのはあなたですね」
「ええ。理解してもらえてよかったわ」
「ですが、私もシリュウ様とお話したいのです」
「お話なら、そこからでもできるでしょう?」
金髪の少女は空いている場所を指差した。
「それとも、わざわざ隣に座らないとお話もできないの? 四大精霊って、意外と不便なのね」
青髪の少女が両手で顔を覆った。
赤髪の少年も、今度ばかりは何も言えずに天井を仰いでいる。
エリュシアは小さく咳払いをした。
「……では、まずはご挨拶をさせていただきますね」
そう言って、シリュウへ向き直る。
その瞬間、先ほどまでの困惑が消え、花が綻ぶような笑顔が浮かんだ。
「お目覚めになられたのですね、シリュウ様」
「……あ、はい」
シリュウは少し緊張した面持ちで頷いた。
目の前の女性は、今まで出会った誰よりも美しかった。
柔らかな光を帯びた長い髪に、透き通るような瞳。
そして、見つめられているだけで身体が温かくなるような、不思議な雰囲気。
「……あの、あなたは……?」
「申し遅れました」
エリュシアは優雅に一礼した。
「私はエリュシア。生命と魂を司る四大精霊の一柱です」
「……四大精霊……?」
シリュウの目が大きく見開かれた。
四大精霊。
その名は、幼いシリュウでも知っている。
千年前、神と共に破壊神を封印し、今も大陸の人々から崇められている偉大な存在。
その一人が、目の前にいる。
「……ええっ!?」
シリュウは慌てて姿勢を正した。
「ご、ごめんなさい! 僕、知らなくて……!」
「まあ、シリュウ様!」
エリュシアは慌てて首を振った。
「どうか、そのように畏まらないでください。私のことは、もっと気軽に接していただいて構わないのですよ?」
「で、でも……四大精霊様ですよね……?」
「ええ。ですが、シリュウ様には何の遠慮も必要ありません」
エリュシアは満面の笑みを浮かべた。
「それに、私のことはエリュシアと呼び捨てにしてくださっても構いません。いえ、むしろ、そう呼んでいただけたら嬉しいです」
「えっ……?」
「もちろん、もっと親しみを込めた呼び方でも構いませんよ?」
シリュウが困惑していると、青髪の少女が控えめに口を挟んだ。
「あの……エリュシア様」
「何でしょう?」
「シリュウ様は、まだエリュシア様とお会いしたばかりですので……」
「ええ、承知していますよ」
「でしたら、もう少しゆっくりお話しされてはいかがでしょうか?」
エリュシアは一瞬きょとんとした。
「……私は、何かおかしなことを申しましたか?」
赤髪の少年が苦笑する。
「いえ、その……少々距離が近いといいますか……」
「距離……?」
エリュシアは自分とシリュウの間を見た。
そして、何かを納得したように頷く。
「なるほど。確かに、まだ少し離れていますね」
そう言うと、さらにシリュウへ身を寄せた。
「……え?」
「これでよろしいでしょうか?」
青髪の少女が絶句した。
赤髪の少年も、開いた口が塞がらない。
金髪の少女は、そんなエリュシアを見つめながら柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。エリュシア様は、本当にシリュウ様がお好きなのね」
「……ええ。それはもう」
エリュシアが嬉しそうに頷く。
すると、金髪の少女は小さく首を傾げた。
「でも、初めてお話する七歳の男の子にそこまで必死になるなんて、見ていて笑えるくらい余裕がないのね」
「……金」
エリュシアの笑顔が僅かに引きつった。
「なあに?」
「もう少し、言葉を選んでいただけますか?」
「選んだ結果よ。選ばなかったら、もっとひどいことになっていたと思うけど?」
赤髪の少年は額を押さえた。
「……お前、さっきから本当に容赦ないな」
「だって、赤が言わないんだもの。誰かが教えて差し上げないと、お気の毒でしょう?」
「俺を巻き込むな!」
エリュシアの笑顔が固まる。
シリュウは、そんな四人の様子を不思議そうに眺めていた。
四大精霊というのは、もっと恐ろしく、近寄りがたい存在だと思っていた。
けれど、目の前のエリュシアは三人と普通に言葉を交わしている。
それどころか、金に注意されて困った顔までしていた。
「……ふふっ」
思わず笑いが漏れた。
エリュシアが振り返る。
「……シリュウ様?」
「ご、ごめんなさい……」
「いいえ!」
エリュシアは即座に首を振った。
「謝る必要などありません。どうぞ、もっと笑ってくださいませ!」
そう言う彼女の表情は、心から幸せそうだった。
シリュウも、つられて微笑んだ。
しかし、ふと視線が右手へ落ちた。
何度見ても、そこには失ったはずの腕がある。
指を動かす。
手のひらを握る。
確かな感触が返ってくる。
その様子に気づいたエリュシアが、静かに問いかけた。
「……お身体の具合はいかがですか? どこか痛むところはありませんか?」
「……はい。どこも痛くないです」
「それは何よりです」
エリュシアは安堵したように微笑んだ。
「シリュウ様の右腕と右目は、私の権能で元通りにいたしました。ほかのお怪我も、すべて治しております」
「……エリュシア様が……?」
「はい」
シリュウは自分の右手を見つめた。
「……すごい……」
小さく呟く。
「……ありがとうございます」
そして、深々と頭を下げた。
エリュシアは目を細めた。
「どうか、お顔を上げてください。シリュウ様が無事にお目覚めになってくださったことが、私には何より嬉しいのです」
「……でも……」
シリュウは膝の上で両手を握った。
「……どうして、僕を治してくれたんですか?」
その問いに、エリュシアの表情が変わった。
「……どうして、ですか?」
「はい……」
シリュウは俯いた。
「僕、エリュシア様に何もしてないのに……こんなにすごいことをしてもらって……」
エリュシアは静かに彼を見つめた。
「……理由が必要なのですか?」
「……だって……」
シリュウの声が小さくなる。
「僕、何も返せないから……」
エリュシアの胸が締めつけられた。
「母様も……助けてもらったんですよね?」
「……はい。セレナ様も、今は安全な場所で治療を受けていらっしゃいます」
「それなら……僕、ちゃんとお礼をしないと……」
「シリュウ様」
エリュシアが優しく呼びかける。
「私たちは、見返りが欲しくてあなた方を助けたのではありません」
「……でも……」
「あなたとセレナ様が無事でいてくださる。それだけで十分なのです」
シリュウは顔を上げた。
エリュシアの瞳には、先ほどまでの冗談めいた色はなかった。
ただ、深い愛情が宿っていた。
その眼差しを受け、シリュウは何かを決心したように唇を噛んだ。
「……あの……!」
「はい」
「……お願いが、あります……」
エリュシアは姿勢を正した。
「何でしょう?」
シリュウは揺り籠から降りようとした。
「シリュウ様?」
「……お願いします……」
足を床につける。
まだ身体に力が入りきらず、少しよろめいた。
エリュシアが手を伸ばそうとした、そのときだった。
シリュウは彼女の前で膝をついた。
そして、小さな身体を折り曲げ、深く頭を下げた。
「……お願いです……!」
エリュシアの動きが止まった。
「……シリュウ様?」
「……僕と母様を……この国に置いてください……!」
震える声が、静かな聖域に響いた。
三人の精霊が息を呑む。
「……母様は……何も悪くないんです……」
シリュウは必死に言葉を紡いだ。
「僕が……神気を持たない、出来損ないの忌み子だから……母様まで……」
エリュシアの表情から、笑みが消えた。
「……忌み子……?」
その言葉を、彼女は小さく繰り返した。
シリュウは俯いたまま頷いた。
「……僕が生まれてこなかったら……母様は、あんな目に遭わなかったのに……」
エリュシアの指先が僅かに震えた。
「でも……母様は……ずっと僕を守ってくれて……!」
声が震える。
「だから……母様だけでも……!」
エリュシアは何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
「……僕、ちゃんと働きます……!」
シリュウは小さな拳を握り締めた。
「掃除も、お洗濯も……何でもします……!」
ぽたぽたと、床に涙が落ちた。
「言われたことも、ちゃんと聞きます……! 僕にできることなら、何でもします……!」
エリュシアは、膝の上に置いた手を強く握り締めた。
「ご飯も……少しだけでいいです……! 僕、あんまり食べなくても大丈夫だから……!」
「……シリュウ様……」
「だから……お願いです……!」
シリュウはさらに深く頭を下げた。
「……母様と一緒に……ここに住ませてください……!」
一瞬、聖域から音が消えた。
エリュシアは、目の前で頭を下げる小さな少年を見つめていた。
神気を持たない出来損ない。
忌み子。
その言葉を、シリュウは自分のこととして口にした。
誰かに言われた言葉を、ただ繰り返しているのではない。
自分はそういう存在なのだと、信じている。
千年前、自分たちが誰よりも敬い、愛した存在。
その魂を宿した少年が、今、自分に向かって必死に頭を下げている。
温かな食事を求めることさえ遠慮し、住む場所を与えてもらうために、何でもすると申し出ている。
エリュシアは、ゆっくりと膝をついた。
「……シリュウ様」
返事はなかった。
小さな肩が震えている。
「……どうか、お顔を上げてください」
「……お願い……します……」
「……シリュウ様」
その声が、僅かに震えた。
エリュシアは両手を伸ばし、シリュウの肩にそっと触れた。
「……私に、そのようなお願いをなさらないでください……」
シリュウの身体がびくりと強張った。
「……だめ……ですか……?」
その一言に、エリュシアは息を呑んだ。
拒絶されたと思ったのだろう。
少年の顔から、僅かに残っていた希望が消えかけていた。
エリュシアは思わず、その小さな身体を抱きしめた。
「……違います!」
強く、けれど決して痛くないように。
「違うのです、シリュウ様……!」
「……エリュシア……様……?」
「あなたが、そこまでなさらなくてもよいのです……」
エリュシアは震える声で続けた。
「どうか……私に頭を下げないでください……」
シリュウは戸惑ったまま、彼女の腕の中にいた。
「……僕……ここにいても……いいんですか……?」
「もちろんです」
エリュシアは即座に答えた。
「あなたも、セレナ様も、ここに暮らしていただいて構いません」
「……本当……?」
「はい。私がお約束します」
エリュシアはシリュウの頬に手を添え、涙を拭った。
「お食事も、お洋服も、温かいお部屋も、何一つ心配なさらなくてよいのです」
「……でも……僕……」
「何も差し出す必要はありません」
エリュシアは優しく微笑んだ。
「あなたがここで笑ってくださる。それだけで、私は十分幸せなのですよ」
シリュウの瞳から、再び涙が溢れた。
「……ありがとう……ございます……!」
小さな両手が、エリュシアの衣装を握り締める。
「……本当に……ありがとう……!」
エリュシアは、その身体を抱きしめながら静かに目を閉じた。
千年待ち続けた再会。
ようやく取り戻した、何よりも大切な存在。
二度と、この手を離したくない。
その想いを胸に、エリュシアはシリュウの髪を優しく撫で続けた。
青髪の少女は涙を拭い、赤髪の少年は顔を逸らしていた。
金髪の少女も、珍しく何も言わずに二人を見守っている。
やがて、シリュウが落ち着きを取り戻した頃。
エリュシアは、腕の中の少年をそっと見つめた。
「……ところで、シリュウ様」
「……はい?」
「先ほど、一つ気になることをおっしゃっていましたね」
「……気になること?」
「ええ。確か……ご自分にできることなら、何でもすると」
シリュウは涙の残る顔で頷いた。
「……はい。僕にできることなら、何でもします」
「……本当に、何でもよろしいのですか?」
「はい!」
エリュシアの表情が、僅かに明るくなった。
その様子を見て、青髪の少女が不思議そうに首を傾げる。
「……エリュシア様?」
「何でしょう?」
「先ほど、シリュウ様には何も差し出す必要がないと……」
「ええ。もちろん、そのつもりですよ」
「でしたら、どうして……?」
エリュシアは優しく微笑んだ。
「少しだけ、お願いしたいことがあるのです」
赤髪の少年が眉をひそめる。
「……お願い、ですか?」
「はい」
金髪の少女も、シリュウの隣からエリュシアを見上げた。
「ふうん。何をお願いするつもりなの?」
金髪の少女が興味深そうに首を傾げる。
エリュシアは答えず、ただ意味ありげに微笑んだ。
そして、シリュウへ向き直ると、その小さな両手を優しく包み込んだ。
「シリュウ様」
「……はい?」
「一つだけ、私の願いを聞いていただけますか?」
「はい! 何でしょう?」
エリュシアの笑みが深まった。
千年もの間、胸の奥に秘め続けてきた想い。
ようやく再会できた愛しい存在を前に、彼女は幸せそうに微笑んだ。
「では、私を伴侶にしてください」




