一幕 越えてはならぬもの
道は、山の稜線に沿ってゆるやかに続いていた。
乾いた風の中に、わずかに夏の匂いが混じる。
コウが、少し先を歩きながら振り返った。
「鬼姫って、ほんとにあの伊織様なの?」
軽い調子のようで、どこか引っかかる声音だった。
「だって、私覚えてるもん。伊織様が岩倉に嫁ぐとき、護衛したでしょ」
くるりと向き直る。
「あのときの伊織様、ちっちゃいのに全然怖がらなくてさ。
“自分が行けば戦は終わる”って、あんな顔で言うんだよ?」
懐かしむように、ふっと笑う。
「無茶苦茶だけど、まっすぐで――」
「……あの子が鬼姫?」
納得できない顔で、歩き続ける。
ムツは、遠く飛び去る鳥を見ながら口を開く。
「……あの任、失敗したら、若が代わりに嫁ぐ話でしたね」
その言葉に、戌助が目を丸くする。
「よく覚えてるね」
「ええ、だから俺は、とにかく必死でした」
ムツは苦く笑った。
稲吉が面白がるように煽った。
「そのわりに、お前はぴーぴー泣いてたけどな。“おぼっちゃん”」
ムツの眉がぴくりと動いた。
「……今は違う」
「ん、今も?」
ムツが、じとりと稲吉を見た。
「怒るよ。腕相撲じゃ、もう俺に勝てないくせに」
その言葉に、稲吉の目元がいたずらっぽく緩んだ。
「あんなのまぐれだろ」
わずかな軽さが、場をつなぐ。
そして、稲吉がその流れのまま、何気なく言った。
「そういや――伊織姫の文が途絶えたのは、尚之が死んでからだったな」
誰も、すぐには続けなかった。
だからこそ、稲吉は、あえて踏み込んだ。
「あのときの姫は、異常だった」
「あの時って?」
ムツが問う。
戌助は目を伏せ、短く息を吐いた。
「……尚の弔いの日、小郡に来てた」
「え……?」
コウが思わず声を漏らした。
「岩倉にいるはずなのに、従者をひとりだけ連れて」
風が、強く吹き抜ける。
言葉は少ないが、その間にすべてが詰まっていた。
「……それだけじゃない」
戌助の声が、ほんのわずかに沈み、記憶が引きずり出される。
土の匂い。
白い布。
焚き火の煙。
その中で、伊織は人の輪から少し離れた場所にいた。
隠れるように、弔いをただ見ていた。
乱れたままの髪。
土に汚れた、馬駆けの装束。
おそらく――あそこにいることに気づいていたのは、戌助と稲吉だけだった。
最初はただ、見ていた。
表情ひとつ変えず。
――次の瞬間。
喉の奥から、押し潰されたような音が漏れた。
叫びとも、泣き声ともつかない。
獣が息を奪われたときのような――押し殺された、壊れかけの声。
「――ぁ、……っ」
膝から崩れ落ち、そのまま両耳を押さえた。
まるで、何かを拒むように地面に突っ伏して、声にならない声を何度も漏らす。
「許して……許して……!」
あそこまで壊れる理由を、戌助は知らない。
「……おかしかった」
それだけしか、言えなかった。
コウが、小さく息を呑む。
「……そんな」
やがて、戌助はゆっくりと前を見た。
前方に、関所が見えてきた。
木組みの門。
槍を持つ番兵。
現実が、ゆっくりと視界に戻る。
歩みを進めるたび、その輪郭がはっきりしていった。
稲吉が、首を鳴らす。
「……昔話はここまでだ」
山風が吹き、関所の旗が鳴った。
ムツが一歩、前に出た。
「通ります」
その声は、わずかに硬い。
戌助は何も言わず、隣に並ぶ。
そして、ついに戌助たちの番が来た。
「止まれ」
番兵の槍の先が傾く。
ムツが前へ出る。
「これを」
懐から木札を取り出す。
刻まれているのは、久留米村の領主、六ツ門家の紋だった。
番兵が受け取り――眉をひそめた。
「……古いな。今の証にはならん。確認が取れなければ通せない」
あっさりと返される。
一瞬、ムツの動きが止まった。
「……」
コウが小声で囁く。
「え、どうすんのよこれ」
稲吉がぼそりと返す。
「お得意の正面突破でもするか?」
「冗談言うなよ」
間髪入れず、ムツが返した。
短く息を吐く。
「……仕方ない」
指をくわえ、鋭く口笛を吹く。
すると、黒い影がすっと現れた。
鴉だ。
「行け」
低く命じると、空へ放つ。
黒が、山の向こうへ消えていく。
静寂の間を縫うように、風だけが通り抜けた。
――しばらくして。
どたばたと、場違いなほど騒がしい足音が響いた。
「雪松様ーーーー!」
栗色の髪を振り乱し、赤い着物の少女が全力で駆けてくる。
ムツは思わず三人の陰に隠れた。
少女は勢いのまま滑り込み、戌助たちをかき分けると――
「雪松様!」
がし、と腕を掴む。
「お戻りになったのですね!」
息も絶え絶えなのに、声だけはやたらと大きい。
ぱっと顔を上げると、周囲を見回し、ぴしっと背筋を伸ばす。
「皆様、ごきげんよう!わたくし、久留米村の――大依千鶴子と申します!」
「雪松様の許嫁ですわ!」
胸を張り、堂々と言い切った。
コウは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「えっ!?」
稲吉が、にやりとする。
「初耳だな」
「ちょっと、離れて」
ムツは、絡みついた蔦でもほどくように、ぎこちなく腕を外した。
だが。
「嫌です」
蔦は余計に絡みついてしまった。
「ずっとお待ちしておりましたのよ?」
大きな瞳が、星を含んだようにうるんでいる。
泣きそうな顔のまま、嬉しそうに笑っていた。
一歩も引かない距離。
ムツの眉間に、深い皺が刻まれる。
――ふと、視線が合った。
戌助が、澄んだ目でただまっすぐにこちらを見ている。
(いや、若、違うんです、これは――)
腕を掴まれたままの距離が、やけに近い。
言い訳が、頭の中で空回りする。
(……せめて何か言ってください……!)
何も読み取れない戌助の顔が、余計に落ち着かない。
「……とにかく」
千鶴子は、番兵へ向き直った。
その瞬間、声の調子がきれいに整う。
「この方はまぎれもなく、六ツ門家の嫡男――六ツ門雪松様ですわ。わたくしが証いたします」
空気が変わる。
番兵たちは顔を見合わせ、やがて槍を引いた。
「これは、無礼をいたした。さ、お通り下さい」
門が、ゆっくりと開く。
ムツは一歩、踏み出した。
その横で、当然のように千鶴子がついてくる。
「離れて」
「嫌です」
そのやり取りに、コウがけらけら笑う。
張り詰めていた空気が、ふっとほどけた。
――その直後。
門が閉じる音が、背後で鈍く響いた。
誰も、振り返らなかった。




