二幕 雪松
山道は、やがて水の音を帯びはじめた。
細く澄んだ流れが、岩のあいだを縫うように走っている。
川石をひとつ、ふたつと踏み越えるたび、ひんやりとした気配が肌に触れた。
「この先が、久留米村です」
ムツが言う。
視線の先には、大山が悠然とそびえていた。
その麓に、村はある。
水路が幾筋にも分かれ、家々のあいだを縫うように流れている。
夕餉の煙。
機織りの音。
商いの呼び声。
清らかな水と人の営みが混ざり合い、どこか神域めいた空気をつくっていた。
村の中心には、大きな石像が据えられている。
岩倉へ向かうなら、この村を抜けるしかない。
そのときだった。
「雪松様だ……!」
「お戻りになられたぞ!」
声が、あちこちから上がる。
ムツが足を止めた。
驚いたように、周囲を見回す。
かつて、自分へ向けられたことのない眼差しだった。
「……え」
戸惑いが、そのまま零れる。
年配の女が微笑み、子どもたちが駆け寄った。
「雪松様すげぇんだってな!」
「忍なんでしょ!」
ムツは、何も返せないまま立ち尽くしている。
「こらこら、道をおあけなさい!」
千鶴子が得意げに胸を張った。
「雪松様は、これから久留米をお治めになるお方ですのよ!」
コウが吹き出す。
「ちょっと、忍なのに全然隠れてないじゃん!」
くすくすと笑いが広がった。
ムツは呆れた顔で千鶴子を見ている。
一方、稲吉はすでに屋台へ視線を向けていた。
「……あれ、酒だな」
「ちょっと」
コウが横から耳を引っ張った。
「いててててて!」
「まずは旅支度が先だからね! 千鶴子ちゃん、案内お願い!」
「もちろんでございます!」
千鶴子は手を打ち、ぱっと顔を輝かせた。
「雪松様――のちほどまた!」
騒がしい声が、そのまま遠ざかっていく。
やがて喧騒が薄れ、気づけばふたりだけになっていた。
導かれるように歩いた先。
村の中央に、それはあった。
巨大な龍の石像。
今にも動き出しそうなその姿は、この地を見守る神そのもののようだった。
水音だけが、静かに響いていた。
ムツが、像を見上げたまま口を開く。
「……変ですね。 昔は、誰もこんな顔しませんでした」
自嘲気味に笑った。
「俺は――ここに、居場所がなかったんです」
視線は龍へ向けたまま、ぽつりと続ける。
戌助は、少しだけ目を見開いた。
「若は、六ツ門家のことはご存じですよね」
六ツ門は、龍神の加護を受け、水を操る幻術を代々継ぐ一族だ。
「でも俺は――一族で、ひとりだけ。術が使えませんでした。」
「だから父上は、俺を小郡に預けた」
風が、水面を揺らす。
「強くするためじゃない。潰れないように、です」
ムツは小さく笑う。
戌助の瞳が揺れる。
――ふと、視線がムツの袖へ落ちた。
雪を抱いた松の文様。
重みに耐えるようなその姿が、今のムツと静かに重なる。
ムツは続けた。
「正直、最初は怖かったです。
でも――
若は、何でもないように迎え入れてくれましたね。」
「“そんなこと、できなくても仲間だ”って」
ふっと力を抜くように、ムツは笑った。
戌助は何も言わず、微笑みを返す。
ほんの少し肩の力が抜けた。
(……そうか)
胸の奥で、小さく息をつく。
理由は知らなかった。
だが今、ようやく繋がる。
ここへ帰ってきて迎えられている、その姿を見て。
(……よかった)
それだけが、胸の奥に残った。
ムツは、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「でも、俺の居場所は――」
そこで、言葉が止まる。
喉まで出かけたものを、ムツは飲み込んだ。
「……いえ、なんでも」
言い切らなかった言葉だけが、わずかに残った。
戌助は、瞬きをひとつして、やわらかく目を細めた。
――気づけば、目の前のムツは、もう子どもではなかった。
背丈も、声も、まなざしも、立派な青年になっている。
その面差しが、ふと重なる。
(……尚)
戌助の胸の奥が、かすかに揺れた。
ムツは気づかないまま、龍を見上げている。
「これで、ちゃんと幻術が使えたら、尚兄も喜んだかな」
軽く笑い、少しだけ遠くを見る。
戌助は答えなかった。
胸の中で、別の記憶が静かにほどける。
春。
まだ寒さの残る頃。
熱に浮かされた視界の奥に――あの人が、いた。
(……誰……?)
後に、旅の行き倒れだったと聞かされた。
彼が戌助の額に触れた手は、不思議なほど穏やかで異質だった。
次の瞬間、淡い光がにじむ。
――幻術。
あのときは、何が起きたのか分からなかった。
ただ、現実ではない何かに包まれて、熱が引いていくのを感じていた。
その直前。
ほんの一瞬だけ、ためらう気配があった。
けれど次の瞬間にはもう、あの人は、それを選んでいた。
何かを隠すように。
何かを押し切るように。
迷いではなく、覚悟の速さで。
あれは、この地のものではない。
岩倉の術だった。
ここでそれを使うということが、どれほど危ういことなのか。
だのに。
「大丈夫」
あの人は、ほっとしたように息をつき、
心から安堵した顔をしていた。
――その声とその顔を、ずっと、覚えている。
「尚兄、変なこと言ってました」
ムツの声が静かに差し込み、記憶が現実へ引き戻される。
「“君の術を封じているものは、一体なんだろうな”って」
ムツは、少し首を傾げた。
「俺には、よく分からなかったけど」
戌助は、黙って聞いていた。
ただ、胸の奥にかすかな棘のようなものが残る。
それが何なのかは、まだ分からない。
けれど――消えずに、そこにあった。
「……」
そのとき、よく通る声が不意に割り込んだ。
「雪松」
振り向くと、そこに立っていたのは――六ツ門家当主、松風だった。
物腰は柔らかで、眼鏡の奥の目は穏やかだった。
だが、その佇まいには、この地を束ねる者の揺るがぬ芯があった。
「戻ったか」
まるで、ずっとそこで待っていたかのような声だった。
「……父上」
ムツの肩が、少しだけ強張る。
松風は一歩、近づいた。
ふと、視線が戌助へ流れる。
「……お久しぶりです、若」
丁寧に頭を下げる。
「平次郎殿には、世話になりました」
その一礼には、忍頭への敬意と、後を継ぐ若への礼が込められていた。
戌助は、目を伏せた。
松風は、ゆるやかに頷く。
そして再び、視線をムツへ戻した。
「話がある。 家へ戻ってこい」
ムツは、すぐには答えない。
ほんの一瞬だけ、戌助を見る。
戌助は何も言わず、ただ、まっすぐに受け止めている。
それが、かえって逃げ場をなくした。
ムツが口を開く。
「……今は、任務の途中で――」
「承知している」
言葉は、やわらかく遮られた。
そのまま、今度は戌助へ向き直る。
「若、厚かましい願いであることは承知の上で申し上げます」
一礼。
「雪松を――ここで返していただきたい」
ムツの目が、見開かれた。
「……父上」
戌助は、すぐには答えない。
松風の言葉を、逃げも否定もせず、そのまま胸に置いていた。
「この子には、務めがある」
松風の声は静かだった。
だが、断る余地はどこにもなかった。
ムツの拳が、ぎゅっと握られる。
戌助は、ゆっくりと口を開いた。
「……ご子息が決めることです」
松風はほんのわずかに目を細め、頷いた。
「……そうでしょうな」
木の葉が、風にざわりと揺れた。
「雪松、一度答えを持て」
それだけ言い残し、松風は背を向けた。
呼び止める者はいない。
その背が見えなくなって、ようやくムツは大きく息を吐いた。
「……参ったな」
力の抜けた声だった。
だが、その目は、どこにも逃げていなかった。
ムツは、視線だけを戌助へ寄越す。
一瞬、何かを問うような色。
だが、すぐに消えた。
「……少し、一人にしてください」
戌助は、ひとつ頷いた。
そのまま、踵を返す。
振り返ることはしない。
ただ、龍の像の前に立つムツの背に、選択の重さだけが残された。




