↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/90

二幕 雪松

 山道は、やがて水の音を帯びはじめた。


 細く澄んだ流れが、岩のあいだを縫うように走っている。

川石をひとつ、ふたつと踏み越えるたび、ひんやりとした気配が肌に触れた。


「この先が、久留米(くるめ)村です」

 ムツが言う。


 視線の先には、大山が悠然とそびえていた。


 その麓に、村はある。


 水路が幾筋にも分かれ、家々のあいだを縫うように流れている。


 夕餉の煙。

機織りの音。

商いの呼び声。


 清らかな水と人の営みが混ざり合い、どこか神域めいた空気をつくっていた。


 村の中心には、大きな石像が据えられている。


 岩倉へ向かうなら、この村を抜けるしかない。


 そのときだった。


「雪松様だ……!」

「お戻りになられたぞ!」


 声が、あちこちから上がる。


 ムツが足を止めた。


 驚いたように、周囲を見回す。

かつて、自分へ向けられたことのない眼差しだった。


「……え」


 戸惑いが、そのまま零れる。


 年配の女が微笑み、子どもたちが駆け寄った。

「雪松(ゆきまつ)様すげぇんだってな!」

「忍なんでしょ!」


 ムツは、何も返せないまま立ち尽くしている。


「こらこら、道をおあけなさい!」

 千鶴子が得意げに胸を張った。

「雪松様は、これから久留米をお治めになるお方ですのよ!」


 コウが吹き出す。

「ちょっと、忍なのに全然隠れてないじゃん!」


 くすくすと笑いが広がった。

ムツは呆れた顔で千鶴子を見ている。


 一方、稲吉(いなよし)はすでに屋台へ視線を向けていた。

「……あれ、酒だな」


「ちょっと」

 コウが横から耳を引っ張った。

「いててててて!」

「まずは旅支度が先だからね! 千鶴子ちゃん、案内お願い!」


「もちろんでございます!」

 千鶴子は手を打ち、ぱっと顔を輝かせた。

「雪松様――のちほどまた!」


 騒がしい声が、そのまま遠ざかっていく。


 やがて喧騒が薄れ、気づけばふたりだけになっていた。


 導かれるように歩いた先。

村の中央に、それはあった。


 巨大な龍の石像。


 今にも動き出しそうなその姿は、この地を見守る神そのもののようだった。


 水音だけが、静かに響いていた。


 ムツが、像を見上げたまま口を開く。


「……変ですね。 昔は、誰もこんな顔しませんでした」

 自嘲気味に笑った。


「俺は――ここに、居場所がなかったんです」

 視線は龍へ向けたまま、ぽつりと続ける。


 戌助(いぬすけ)は、少しだけ目を見開いた。


「若は、六ツ門(むつもん)家のことはご存じですよね」


 六ツ門は、龍神の加護を受け、水を操る幻術を代々継ぐ一族だ。


「でも俺は――一族で、ひとりだけ。術が使えませんでした。」


「だから父上は、俺を小郡(おごおり)に預けた」


 風が、水面を揺らす。


「強くするためじゃない。潰れないように、です」

 ムツは小さく笑う。


 戌助の瞳が揺れる。


 ――ふと、視線がムツの袖へ落ちた。


 雪を抱いた松の文様。

重みに耐えるようなその姿が、今のムツと静かに重なる。


 ムツは続けた。

「正直、最初は怖かったです。

でも――

若は、何でもないように迎え入れてくれましたね。」


「“そんなこと、できなくても仲間だ”って」


 ふっと力を抜くように、ムツは笑った。


 戌助は何も言わず、微笑みを返す。

ほんの少し肩の力が抜けた。


(……そうか)

 胸の奥で、小さく息をつく。


 理由は知らなかった。

だが今、ようやく繋がる。


 ここへ帰ってきて迎えられている、その姿を見て。


(……よかった)


 それだけが、胸の奥に残った。


 ムツは、少しだけ照れたように視線を逸らす。

「でも、俺の居場所は――」


 そこで、言葉が止まる。

喉まで出かけたものを、ムツは飲み込んだ。


「……いえ、なんでも」


 言い切らなかった言葉だけが、わずかに残った。


 戌助は、瞬きをひとつして、やわらかく目を細めた。


 ――気づけば、目の前のムツは、もう子どもではなかった。


 背丈も、声も、まなざしも、立派な青年になっている。


 その面差しが、ふと重なる。


(……尚)


 戌助の胸の奥が、かすかに揺れた。


 ムツは気づかないまま、龍を見上げている。


「これで、ちゃんと幻術が使えたら、尚兄も喜んだかな」

 軽く笑い、少しだけ遠くを見る。

 

 戌助は答えなかった。


 胸の中で、別の記憶が静かにほどける。




 春。

まだ寒さの残る頃。


 熱に浮かされた視界の奥に――あの人が、いた。


(……誰……?)


 後に、旅の行き倒れだったと聞かされた。


 彼が戌助の額に触れた手は、不思議なほど穏やかで異質だった。


 次の瞬間、淡い光がにじむ。


 ――幻術。


 あのときは、何が起きたのか分からなかった。

ただ、現実ではない何かに包まれて、熱が引いていくのを感じていた。


 その直前。


 ほんの一瞬だけ、ためらう気配があった。


 けれど次の瞬間にはもう、あの人は、それを選んでいた。


 何かを隠すように。

何かを押し切るように。

迷いではなく、覚悟の速さで。


 あれは、この地のものではない。

岩倉の術だった。


 ここでそれを使うということが、どれほど危ういことなのか。


 だのに。


「大丈夫」


 あの人は、ほっとしたように息をつき、

心から安堵した顔をしていた。


 ――その声とその顔を、ずっと、覚えている。




「尚兄、変なこと言ってました」

 ムツの声が静かに差し込み、記憶が現実へ引き戻される。


「“君の術を封じているものは、一体なんだろうな”って」


 ムツは、少し首を傾げた。

「俺には、よく分からなかったけど」


 戌助は、黙って聞いていた。

ただ、胸の奥にかすかな棘のようなものが残る。


 それが何なのかは、まだ分からない。

けれど――消えずに、そこにあった。


「……」


 そのとき、よく通る声が不意に割り込んだ。


「雪松」


 振り向くと、そこに立っていたのは――六ツ門(むつもん)家当主、松風(まつかぜ)だった。


 物腰は柔らかで、眼鏡の奥の目は穏やかだった。

だが、その佇まいには、この地を束ねる者の揺るがぬ芯があった。


「戻ったか」

 まるで、ずっとそこで待っていたかのような声だった。


「……父上」

 ムツの肩が、少しだけ強張る。


 松風は一歩、近づいた。

ふと、視線が戌助へ流れる。


「……お久しぶりです、若」

 丁寧に頭を下げる。

「平次郎殿には、世話になりました」


 その一礼には、忍頭への敬意と、後を継ぐ若への礼が込められていた。


 戌助は、目を伏せた。

松風は、ゆるやかに頷く。


 そして再び、視線をムツへ戻した。


「話がある。 家へ戻ってこい」


 ムツは、すぐには答えない。


 ほんの一瞬だけ、戌助を見る。


 戌助は何も言わず、ただ、まっすぐに受け止めている。

それが、かえって逃げ場をなくした。


 ムツが口を開く。

「……今は、任務の途中で――」

「承知している」

 言葉は、やわらかく遮られた。

そのまま、今度は戌助へ向き直る。


「若、厚かましい願いであることは承知の上で申し上げます」


 一礼。


「雪松を――ここで返していただきたい」


 ムツの目が、見開かれた。

「……父上」


 戌助は、すぐには答えない。

松風の言葉を、逃げも否定もせず、そのまま胸に置いていた。


「この子には、務めがある」

 松風の声は静かだった。

だが、断る余地はどこにもなかった。


 ムツの拳が、ぎゅっと握られる。


 戌助は、ゆっくりと口を開いた。


「……ご子息が決めることです」


 松風はほんのわずかに目を細め、頷いた。

「……そうでしょうな」

 

 木の葉が、風にざわりと揺れた。


「雪松、一度答えを持て」


 それだけ言い残し、松風は背を向けた。


 呼び止める者はいない。


 その背が見えなくなって、ようやくムツは大きく息を吐いた。


「……参ったな」

 力の抜けた声だった。

だが、その目は、どこにも逃げていなかった。


 ムツは、視線だけを戌助へ寄越す。


 一瞬、何かを問うような色。

だが、すぐに消えた。


「……少し、一人にしてください」


 戌助は、ひとつ頷いた。


 そのまま、踵を返す。


 振り返ることはしない。


 ただ、龍の像の前に立つムツの背に、選択の重さだけが残された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。