三幕 別れ
久留米村の夜は、音で満ちていた。
蛙の声。
虫の音。
水のせせらぎ。
淡い光が、闇の中にゆらめく。
川辺に沿って、蛍がひとつ、またひとつと灯っていた。
静かでやさしい夜が、かえって胸をざわつかせる。
「……で」
不意に、声が落ちる。
稲吉だった。
木にもたれ、腕を組んだまま、視線だけを寄越している。
「どうすんだ、“おぼっちゃん”」
軽い調子。
けれど、逃げ場のない声音だった。
「……俺は」
ムツの言葉が、止まる。
「やめとけよ。俺は反対だ」
かぶせるように、稲吉が言った。
まるで、どちらへ傾いているか見透かしているように。
「ここは、お前の“居場所”だろ。
領主様で、みんな笑って迎えてたじゃねぇか。」
ムツの唇が、わずかに結ばれる。
「それに――」
稲吉は、もたれていた木から身体を起こした。
ゆっくりと歩き出し、そのまま横に並び立つ。
「正直、もう疲れたんだよ。出来損ないの面倒見るのもさ」
ムツの顔は見ないまま、低く吐き出した。
その一言は、ムツの胸に深く残った。
背中同士が、すれ違う。
「人を殺せねぇ忍なんざ、長生きできねぇ。
……優しすぎるんだよ、お前は」
蛍が、二人の間で揺れた。
「いいじゃんか。向いてねぇこと、無理してやる必要もないだろ」
その声は、知らない人のようにやさしかった。
「――俺たちは行く」
ムツは、何も言えなかった。
夜の音が、遠のく。
立ち尽くしたまま――動けない。
やがて。
「……じゃあな」
振り返らずに、落とされた一言。
足音が、離れていく。
――幼い頃。
乱暴に手を引かれた記憶が、ふとよぎる。
転びそうになるたびに、ぐいと引き戻された、あの手。
文句ばかり言いながら、それでも離さなかった手。
――もう、その手は届かない。
少し離れた木立の陰で、稲吉が足を止めた。
「おい、戌助」
低く呼ぶ。
そこには、戌助とコウがいた。
「……あんま、俺に汚れ役やらせんなよ。
俺だって、こたえてんだ」
両手を頭に乗せ、気だるげに俯いた。
「……一気に酒が抜けた」
コウは何も言わず、そっと稲吉の背に手を置いた。
その指先が、ほんの少しだけ強くなる。
戌助は、静かにムツを見ている。
やがて、ぽつりと言った。
「……これでいい」
「自分で、決めないといけない。ここに残るのも、進むのも、どっちもムツの道だ」
風が、水辺の草を揺らして抜けていく。
戌助は、それ以上何も言わなかった。
明滅する蛍の中で、ムツはひとり立っている。
やがて、小さく息を吐いた。




