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四幕 侮るな

 月の光が、山の輪郭を濃くしていた。


 戌助(いぬすけ)たちは、朝を待たずに久留米(くるめ)村を離れた。



 川のせせらぎだけが、静かな夜道に寄り添っている。

風は山肌をなぞるように吹き抜けた。


 そのときだった。


 静かな山の気配が、ひと呼吸だけ乱れた。


「……?」

 コウが足を止める。


 違和感は、一瞬。

けれど確かに――何かが、境を越えた。


 次の瞬間、白が現れた。


 音もなく、雪が形を持ったような巨躯。


 虎だった。


 だが、そこに“いる”のに、どこか現実に触れていない。


「……なによ、あれ」

 コウの声が低く落ちる。


 稲吉(いなよし)は、額の藍の手ぬぐいをぎゅっと締め直した。

「やる気か?」


 踏み込む。

迷いなく刃が閃き、確かな軌道で斬った。


――はずだった。


「……は?」

 手応えが、ない。


 白い身体が霧のように揺れ、裂けたはずの箇所が滑らかに戻っていく。

血も、傷も、残らない。


 虎が、低く唸った。

地を踏む気配だけが、やけに重い。


「効かない……?」

 戌助が距離を取る。


 稲吉が舌打ちし、再び踏み込む。

だが、今度は虎が先に動いた。


 閃いた爪と同時に、衝撃が走る。


「っ……!」

 戌助の身体が弾かれ、地面へ叩きつけられる。


「戌助!」

 コウが動く。


 だが、虎は消えていた。

次の瞬間には、別の位置に現れる。


 逃げ場がない。


「……ちっ」

 稲吉は短く息を吐いた。


(力じゃ、抜けられない)

その確信だけが、腹の底へ沈んだ。




 同じ頃。


 久留米村の川辺で、ムツはまだ動けずにいた。


 答えは、まだ出ない。

胸の奥だけが、ざわついたままだった。


 ――そのとき。


 空気が、揺れた。


 水の流れが、ほんの一瞬だけ乱れる。


 見えない何かが、入り込んできたような。


 ムツが顔を上げる。

「……今の」


「雪松(ゆきまつ)様!!」

 次いで、切り裂くような声が飛びこんだ。


 千鶴子だった。


 息を切らし、髪を乱して駆けてくる。


「大変ですの……!村の東に、妖(あやかし)が……!」


 ムツの腕を掴む。

息が整わないまま、それでも続けた。


「そちらには……戌助様たちが……!」


 その一言で、ムツの思考が止まる。


「……若……」


 低く、落ちる声。


 千鶴子は唇を強く噛む。

「このままでは……!」


 言い切れない。

代わりに、袖を強く握る。


 ほんの一瞬、沈黙が落ち――

ムツは顔を上げた。


「……行ってくる」


 短く、だが、はっきりと。


「……はい」

 千鶴子の指先が、わずかに震える。


「ずっと……お待ちしておりましたのに」

 揺れそうな声。けれどすぐに顔を上げ、一度息を吸う。


「ですが、雪松様が選ばれた道なら――

わたくし、お支えしますわ」


 言葉は少し詰まった。

それでも、千鶴子は笑った。


 ムツは、わずかに目を見開く。

「千鶴子……」


 千鶴子は、強く頷いた。


「これ」

 差し出されたのは、手織りの羽織だった。

「わたくしが織りましたの」

 誇らしげに言う。けれど大きな瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。


 ムツは受け取り、軽く広げて――

「これ……丈、短くない?」


 ぽつりと言った。


「なっ……!? 失礼ですわね!」

 千鶴子は強く言い返し、いつもの調子に戻った。


 ムツは、小さく笑う。

「うそだよ」


 羽織を肩にかけ、

「ありがとう」

 と、静かに言った。


 千鶴子の睫毛が、かすかに揺れる。

それでも――崩さない。


「泣いたりしませんよ、私! 武家の娘ですもの!」


 ムツは、静かに頷く。


「……行ってらっしゃいませ」

 千鶴子は、美しい所作で頭を下げた。


 ムツは、振り返らない。

そのまま、迷いなく駆け出した。


 足音が、遠ざかる。


 やがて完全に消えて、静寂が戻る。


「……っ」

 千鶴子の肩が、震える。


 堪えていたものが、あふれ出す。

「う、ううっ……」


 ぽろぽろと涙が落ちる。


 やがて、子どものように声をあげて泣いた。


 その涙は、誰にも見られなかった。




 木々のざわめきが、不自然に途切れていた。


 その中心で――戌助は、地に押さえつけられていた。


 白い虎の足が胸を踏みつけ、骨が軋む。

息が入らず、身動きもできない。

「……っ」


 視界の端では、コウと稲吉が倒れたまま動かない。


 白い虎がゆっくりと力を込めると、骨がさらに軋んだ。


 その瞬間、風を裂くような声が響いた。


「――若ァ!!」


 地を打つ足音とともに、一直線に飛び込んできたのはムツだった。


 息は乱れ、足運びも粗い。

それでも、止まらない。


「離せぇぇぇ!!」

 振りかぶった槍を、叩きつける。


 理も何もない、感情の一撃。


 だが、弾かれた。

手応えが、ない。


「……っ、くそ……!」


 分かっていた。

妖に、物理は通らない。


「……来るな」

 戌助の、かすれた声。


 それでもムツは歯を食いしばり、もう一度叩き込む。

しかし、虎はびくともしない。


 やがて、感情のない目をぎょろりと動かし、視線をムツへ移した。


「……来い」


 足が、わずかにすくむ。

それでも、踏み出す。


 ぎこちない指で、覚えたとおりに印を切る。


(九字――)


 震える指では、結びが甘くなる。


「臨(りん)、兵(ぴょう)、闘(とう)……」

 声が揺れる。


 ――違う。


 背後に、気配が立つ。

あのときと同じ、静かな声。


(そこは、力を込めすぎない)


 尚之の声が、すぐ後ろから導くように響く。


(流れを見ろ)


「……っ」

 もう一度、やり直す。


 だが、何も起きない。


「なんで……っ!!」


 焦りだけが募っていく。

それでも、何度でも印を切る。


「臨、兵、闘、者……!」


 ――出ない。


 次の瞬間、虎が動いた。


 一瞬で距離を詰められ、反応が遅れた身体へ鈍い衝撃が走る。


 身体が吹き飛び、岩壁へ叩きつけられる。


 骨が軋み、肺が潰れる。


「あ゛……っ」


 息ができない。

白く弾ける視界の中、立ち上がることもできなかった。


(……どうしたらいい)


 ぼやける意識の中で、尚之の背が浮かぶ。


(尚兄、どうしたら……)


 視界の先で、再び虎が戌助へ向く。


(このままじゃ、守れない……!!)

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