五幕 居場所
胸が、締めつけられる。
弱いままの自分が、そこにいた。
何もできず、誰かに守られて。
それでも笑っていられた自分が。
(でも)
(そんなの――)
血の味を噛みしめ、歯を食いしばる。
(もう嫌だ)
その瞬間、水の音が――変わった。
地の底から滝が逆流するような圧。
川が爆ぜ、水面が持ち上がる。
鋭く弾けた飛沫とともに、空気が重く沈んだ。
ムツの背後に、“それ”は立っていた。
龍。
輪郭は曖昧だった。
だが、確かに“在る”。
その時、ムツの瞳が――変わった。
深い水底のような静けさ。
その奥で、青い光が静かに揺れている。
「……ああ」
ムツはゆっくりと立ち上がる。
袖が揺れる。
雪を抱いた松の文様が、水飛沫の中で静かに翻った。
――雪を抱いてなお、枝は折れない。
地を蹴る。
さきほどとはまるで違う動きに、水が応じた。
奔流が槍へ絡みつき、流れそのものが刃になる。
「――ッ!!」
突き出した槍が、戌助を押さえつけていた虎の足を、確かに貫いた。
初めて、白い巨躯が揺らいだ。
戌助は驚きの色を隠せなかった。
そのまま、ムツは止まらない。
振り抜いた槍に応じ、水が唸りを上げる。
叩きつける水塊のような連撃が、
一撃、二撃、三撃と白い巨躯を穿つ。
荒削りだった。
だが、そのすべてが押し通る。
ついに、白い体が裂け、ほどけた。
水に殺がれるように、その輪郭が崩れていく。
その姿を、戌助は見ていた。
(……ああ)
一瞬、尚之の気配が重なる。
だが、そこにいるのはムツだった。
最後の一撃とともに、水が渦を巻く。
――違う、水ではない。
龍が、うねっていた。
「――消えろ!!」
振り下ろす。
咆哮とともに、白が砕けた。
静寂のあと、虫の声と川のせせらぎが戻ってきた。
ムツは、その場に立っていた。
肩で、荒く息をしている。
まだ、水の気配が体の奥で渦巻いていた。
自分のものではない力が、遅れて引いていくような感覚。
やがて、力が抜ける。
ムツは、はっと顔を上げた。
「若……!」
戌助のもとへ駆け、膝をつく。
「大丈夫ですか……!」
手を伸ばしかけて、止まる。
触れていいのか、一瞬だけ迷った。
戌助は、ゆっくりと息を吐く。
「……うん」
短く、それだけ。
だがその目は、ムツから離れない。
「……見てたよ」
掠れた声だった。
ムツは、眉を下げた。
張りつめていたものがほどけ、ようやく柔らかな笑みが戻った。
そのとき、後ろで小さくうめき声がした。
「……いってぇ……」
稲吉だった。
顔をしかめながら、身体を起こす。
と、すぐに身構える。
「くっそ、もう一発……
……ん? あ?」
「終わったよ」
戌助が静かに笑った。
コウも、少し遅れて目を覚ます。
「……ん……?」
状況を飲み込めず、周囲を見回す。
そして、ムツを見る。
しばしの沈黙。
「……あんたがやったの?」
ムツは答えない。
ただ、自分の手を見つめていた。
稲吉は、鼻で笑った。
「は、やるじゃねぇか」
そのまま、またごろりと倒れる。
「……あとでちゃんと説明しろよ……」
その中で、ムツはまっすぐ戌助を見た。
少しだけ息を吸い、言葉を選ぶように目を伏せて。
「……俺の居場所は、
――若の隣です」
その声は、もう揺れていなかった。
戌助が、目を瞬く。
川面を渡る風が、ふたりのあいだを吹き抜けた。
そして、ふっと笑った。
それは普段の戌助にはない、あどけなさの残った素の表情だった。
(……っ)
ムツの顔が、一気に熱くなる。
まともに、顔を見られなかった。
その時、ふと尚之の声がよぎる。
(ムツ、焦らなくていい)
――恐れよりも大切なものがあると知った時。
人は初めて、本当の勇気を手に入れる。
(……そういうことか)
胸の奥で、何かがひとつほどけた気がした。
――ぱちり。
乾いた音が、やけに近くで弾けた。
ムツの視線が、わずかに揺れる。
水に濡れた草の陰。
印の描かれた小さな紙片が、黒く焦げている。
「……」
見覚えがあった。
(……父上)
あの虎の気配が、父と重なる。
最初から、すべて試されていた。
わずかに、息を吸う。
言葉にはしない。けれど胸の奥で、静かに告げた。
(――俺は、行きます)
風が吹く。
紙片が、さらりと崩れて消えた。
ムツは立ち上がり、振り返る。
「行きましょう」
戌助が頷く。
稲吉が、面倒くさそうに起き上がった。
「……もう一回、酒買ってきていいか?」
「いいわけないでしょ」
コウが即答する。
夜は、まだ深い。
だが、彼らの足取りは軽かった。




