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一幕 霧ヶ峰

 山道は、白い霧に呑まれていた。


 足元も、先も曖昧だ。


「……ほんとに合ってんのかよ」

 稲吉(いなよし)がぼやく。


「この先で間違いない」

 戌助(いぬすけ)は短く答えた。


 そのとき、ふっと風が抜ける。


 霧が割れ――その奥に、湯気の立ちのぼる岩場が現れた。


「あれ、温泉!?」

 コウが嬉しそうに声を上げる。


 思えば、久留米(くるめ)村の一件から、皆ほとんど休めていない。


「若、一休みしましょう」

 ムツが振り返ると同時に、稲吉が一目散に駆け出した。

「もうけ!」


 着物を雑に脱ぎ捨て、足早に湯へ浸かる。


「ふう~……生き返る……」


 何気なく隣を見ると、大きな影があった。


「おや、新顔ですか」


 ――次の瞬間。


「ぎゃあああああああ!!!」


 悲鳴が山に響いた。


 戌助たちが駆けつけると、湯の中に、大熊がいた。

その隣には、鶏、犬、狐。

様々な獣たちが、湯に浸かっていた。


 しかも。


「こんにちは、旅の人!」


 人のように、喋った。


「……っ」

 ムツが後ずさる。


 コウは顔色を変え、さっと戌助の後ろへ隠れた。

「また、しゃべる獣……!?」


 だが大熊たちは、あの時のキジとは違った。

妙に人間くさい、気安いしゃべり方だった。


 稲吉はそっと距離を取り、湯の端で猫のように警戒している。


 湯気の向こうで、動物たちがくすくすと笑っていた。


(……なんだ、ここ)

 戌助が目を細めた、そのとき。


「おーい! どうかしたかー?」

 明るい声が飛んできた。


 振り返ると、ひとりの青年が駆けてくる。


 鹿毛のような髪を無造作にかき上げた、がさつそうな僧だった。

だが、戌助の顔を見た瞬間。


「……戌助?」

 足が止まる。


「……御井(みい)か」

 戌助もまた、わずかに目を見開いた。


 青年はぱっと笑った。


「やっぱりお前か! 久しぶりだな、ちっこい頃に一緒に修行して以来じゃねぇか!?」

 ぐいっと距離を詰める。

「で、なんでこんなとこに――」


 そこで、戌助の姿をまじまじと見て。

「まあいいや、疲れてるんだろ。男湯こっちだぜ!」


「――っ」


 空気が止まる。


「いやいやいや!!そ、それは違くて!!」

 ムツが慌てて飛び出した。

「は? 何がだよ?」

「えっとその……!」

 言葉に詰まるムツ。


 戌助は、静かに一歩引いた。


「……私は、向こうに行く」

 それだけ言って、女湯へ向かう。


 御井は首をかしげ、立てた親指を戌助のほうへ向けた。

「あいつなんだよ……のぞきか?」

 おもしろそうに笑う。


「嘘だろ……」

 ムツは額を押さえた。




 戌助とコウが湯から上がると、夜気がひんやりと肌を撫でた。


 コウは手際よく手ぬぐいで髪を拭きながら、ふと戌助を見る。


「……伸びたねぇ、髪」


 戌助はきょとんとしてから、自分の髪に触れた。

濡れた赤い髪は、肩を越え、胸元近くまで落ちている。


 コウはくすっと笑った。

「前はもっと短くてさ。ほんとに“男の子”みたいだったよね」


「今も似たようなものだよ」

「ううん、違う」


 きっぱりと言われ、戌助は少しだけ言葉を詰まらせた。


 コウは、やわらかく目を細める。

「ちゃんと、女の子の顔してるよ」


 ――その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。


 誤魔化すように、戌助は荷を探る。


 指先に触れたのは、小さな硬い感触。

取り出したのは、蒔絵の施された櫛だった。


 灯りを受け、静かに光る。


 コウがそれに気づき、ぱちりと目を瞬かせた。

「……綺麗。そんなの持ってたんだ!」


「うん……昔、もらった」


 少し間を置いてから、戌助はそれを髪に通した。

まだ濡れて重たい髪が、すっとほどけて整っていく。


 櫛を通す仕草は、どこかぎこちない。

けれど――その手つきは驚くほど丁寧だった。


「似合ってる」

 コウが静かに言う。


「……そう」


 戌助は、照れくさそうに口元をゆるめた。


 少しの沈黙。


 やがて、コウがふと視線を落とす。

「ねえ」

「ん?」


「岩倉行き……こわい?」


 唐突な問いに、戌助は一瞬だけ言葉を失った。

だが、すぐに視線を上げる。


「……こわくないって言ったら、嘘になるかも」

 正直な言葉だった。


 コウは小さく頷く。

「そっか。――でも、あんた一人じゃないからね」

 その声は、どこか姉のようにやわらかい。


 戌助は櫛を握ったまま、ほんの少しだけ笑った。

「うん、ありがとう」


 その指先は、無意識に櫛をなぞっていた。




 一方、稲吉とムツは、御井の案内で男湯へ向かっていた。


 その途中、先ほどの“獣の湯”の脇を通り過ぎる。


 ――先刻まで賑やかだったはずの場所。


 けれど。


「……あれ」

 稲吉が足を止めた。


 湯にいたはずの獣たちが、ほとんどいない。

残っている数匹も、前とは様子が違った。


 妙な静けさ。

黙って、湯に浸かっている。


「……さっき、喋ってなかった?」

 ムツが小声で言う。


 ――そのとき。


 湯の端にいた一匹の狐が、ゆっくりと立ち上がった。


 濡れた毛並みのまま、こちらを見ている。


 口が、動いた。


「……モウ、イキマス」


「……アリガトウ」


 たどたどしいが、はっきりした言葉。


 ムツが息をのむ。


 狐は、ぺこりと頭を下げた。


 それから静かに湯を出て――霧の中へ消えていった。


「……なんだ、あいつ」

 稲吉が両腕をさすりながら、露骨に顔をしかめた。


「気にすんなって」

 後ろから声。


 御井だった。


「ほら、こっちこっち。人間用は奥」

 軽い調子で、男湯へ案内する。


 湯に浸かる。

静けさの中へ、湯気が吸い込まれていくようだった。


 岩に囲まれた湯は、人のために整えられている。


「……さっきの、何?」

 ムツがぽつりとこぼす。


「ん? ああ、あいつらか」

 御井は肩まで湯に沈みながら、あっさり答えた。


 ぱしゃ、と湯をすくう。

「最初は普通に喋るんだよ」


「最初?」


「そ」

 御井は、何でもないように続ける。

「だんだん言葉が減ってってさ。

最後は、喋れなくなる」


「……」

 ムツの表情が、わずかに強張る。

稲吉は何も言わない。


 御井は続けた。


「で、そのまま普通の獣になる」


 あまりにも軽い口調。

だからこそ、余計に重い。


 稲吉が低く言う。

「さっきの狐……“もう行きます”って言ってたやつ」

 

「ああ。ちょうど最後だったな」

 御井は、消えていく湯気を見ながら返した。


 沈黙。


「……なんで、そんなもん世話してんだ」


「んー……別に理由なんてねえよ」

 笑いながら湯をすくって、落とす。

「最後くらい、あったけぇとこで過ごした方がいいだろ」

 それだけ言って、御井はまた湯に肩まで沈んだ。


 少し重くなった空気も気にせず、御井がにやっと笑う。

「つーかお前らさ、顔整ってんな~」


 二人をじろじろと見て、目線が稲吉で止まった。

「お前とか……なんかこう、女みてーじゃん?」


 稲吉の眉がぴくりと動いた。


 ムツが吹き出す。

「よく言われてる」


「言うな!」

「だよな!?」

「言うなって言ってんだろ!!」


 稲吉は湯を乱暴にすくい、顔を覆った。


 御井はけらけら笑った。

「かあちゃん似だろ! そんで絶対美人!」


 ――ほんの一瞬。


 稲吉の目が、わずかに細くなる。


「……知らねぇよ」


 御井は軽く言った。

けれど、その言葉は妙に残った。




 湯から上がり、食事と焚き火の準備が整うころ。

御井が、ぐいっと戌助へ歩み寄った。


「――っていうかさ!!」


 次の瞬間。


 バンッ!! 

勢いよく背中を叩く。


「悪ぃ!! 俺ずっとお前のこと男だと思ってた!!」


「っ……!」

 思わず前につんのめる戌助。


「マジでごめん! いやでも仕方なくね!? あの見た目でさ――」

 御井はガハハと笑いながら、さらに背を叩いた。


 コウが腕を組み、呆れた目を向ける。

「……反省してるやつの行動とは思えないわね」


 戌助は軽く咳き込みながら体勢を戻した。

「……別に、気にしてない」


「ほんとか! さすが戌助だわ~!」

 にかっと笑う御井。


(こいつ……)

 ムツは、嫌そうに目を細めた。


 やがて四人は、焚き火を囲んで座る。


 ムツは、さりげなく御井と戌助の間へ滑り込んだ。


「……?なんだお前」

 御井が首をかしげる。


「いや、別に」

 ムツは涼しい顔で、火に手をかざした。


 それを見たコウが小さく吹き出す。

(わかりやす……)


 薪が、ぱちりと爆ぜた。


 焼けた魚の脂が火へ落ち、小さく煙が立つ。

夜気に混じる香ばしい匂いの中、御井がふと思い出したように口を開いた。


「そういやさ。尚之(なおゆき)、元気か?」

 串を返しながら、何気なく言う。


「小郡(おごおり)で会ったんだろ?」


 ムツとコウが同時に顔を上げた。

戌助も、わずかに目を見開く。


「……御井、尚兄のこと知ってるのか!?」

 ムツが身を乗り出す。


 御井はきょとんとした。

「は? なんだよその反応」


「いや、だって……!」

 ムツは言葉を飲み込む。


 御井は気にした様子もなく、焼き魚を火から少し離した。


「で? 元気なんだろ?」


 だが、その問いに誰もすぐには答えない。

薪が崩れ、赤い火の粉がふわりと舞う。


 戌助が、ゆっくり口を開いた。


「……死んだ」


 御井の表情が止まる。


「は?」


 笑うでもなく、怒るでもなく。

ただ、理解が追いついていない顔。


「小郡で……戦があった」

 戌助は静かに続ける。


「その中で――

……私を庇って、死んだ」


 魚の焼ける音だけが残る。


 やがて、御井がぽつりとこぼした。


「……なんだよ、それ」

 力の抜けた声だった。


「ふざけんなよ……」


 責めるような響き。

だが、それは戌助ではなく――“納得のいかない現実”へ向けられていた。


 戌助は何も答えない。


 沈黙が落ちる。


 やがて御井は、ふう、と息を吐いた。

「……あいつさ、そんな簡単に死ぬやつじゃねえだろ」


「あ、焼けた」

 御井は串を持ち上げた。

何事もない調子で、そのまま一本を戌助へ差し出す。


「ほら」


 戌助は受け取る。

だが、手の中の魚を見たまま動かなかった。


 御井は気にした様子もなく、自分の魚へかぶりつく。

「人懐っこくて。よく笑うやつで。なんか飯もめっちゃ食うし。……うるさいくらいでさ」

 焼けた皮が、ぱり、と鳴る。


 コウが尋ねた。

「……どういう関係?」


「少しの間、一緒に修行してたんだよ」


 ムツが顔を上げる。

「修行?」


「ああ。師匠んとこに急に来てさ。

“少しの間、稽古をつけてほしい”って。どっかの偉い奴の紹介だとかでさ」

 御井は魚を咀嚼しながら肩をすくめた。


「まあ、強かったよ。普通に」

 苦く笑う。


「でもそれより、楽しそうだったな」


 その言葉に、戌助の目がわずかに揺れる。


「修行の合間でもさ、くだらねえ話して、喧嘩して」


「……」


「なんつーか、“普通のやつ”だった」


 火が静かに揺れる。


「でもさ、最後の日だけ変だった」

 御井の声が、少しだけ落ちた。


 稲吉が、無言のまま視線を向ける。


「朝から妙に静かでさ、

……ずっと、何か考えてる顔してた」


 御井は串の先で火をいじった。

「んで、帰る前にさ」


 一瞬、言葉を探す。


「――“やることがある”って言ってた」


 崩れた薪が、赤い火の粉を散らす。


 稲吉の指先が、わずかに動いた。

だが、何も言わない。


「……それが、なんだったのかは知らねえけどさ。

聞いても、はぐらかされたし」

 御井は少しだけ笑った。


「でもまあ――戻ってくる気は、なさそうだったよな」


 その言葉に、火がぱちりと弾けた。


 戌助は何も言わず、膝の上で手を握っている。


 あの夜。


 櫛を渡されたときの、穏やかな顔が脳裏に浮かぶ。


 御井は、焚き火へ視線を落とした。

「……そっか」


 それ以上は、何も聞かなかった。


 ただ、焚き火を見つめたまま、ぽつりと呟く。


「まあ、あいつらしいか」


 その声は、どこか寂しかった。

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