二幕 別の顔
皆が寝静まったころ。
稲吉はひとり、酒瓶を傾けていた。
「……俺が甘かった」
ぽつりと落ちる。
脳裏に浮かぶのは、稲吉しか知らない尚之の顔だった。
(あいつは、俺を殺しに来た)
あの夜。
――君は、知ってしまったんだな。
光の届かぬ深海のような、冷たい目。
遠慮のない殺気で、尚之は刀を翻した。
だが――ほんの一瞬、刃が鈍った。
「俺の“顔”がなんだよ……」
(……あんな目、するなよ)
そこを仕留められるはずだった。
なのに、助けて、手当までして。
酒をあおり、吐き捨てるように笑う。
「何やってんだ、俺。
……一番ダメなやつだ」
逃がしていれば――変わっていたかもしれない。
「……くだらねえ」
最後の一口を飲み干した。
朝。
霧はすっかり晴れ、山道にはやわらかな光が差していた。
支度を終え、戌助たちは歩き出す。
「……じゃあ、行くね」
御井は、いつもの調子で手を上げた。
「おう、気ぃつけろよー」
あっさりした別れだった。
「あ、これ! 忘れ物な!!」
思い出したように差し出されたのは――蒔絵の櫛だった。
「……あ」
戌助の目が、わずかに見開かれる。
「風呂場に置きっぱだったぞ」
御井は、にやっと笑った。
「大事なもんだろ、それ」
戌助は、そっと受け取り、指先で確かめるように触れた。
「……ありがとう」
「いいっていいって」
御井は軽く手を振り――そのまま、もう片方の肩をぐいっと持ち上げた。
「あとさ!こいつも忘れんなよ!!」
どさっ。
目の前に、ひとり落ちる。
「……んぁ……」
ぐったりした稲吉だった。
「朝から全然起きねえんだよ! マジで死んでんのかと思った!」
ムツがすかさず言う。
「ああ、それはわざと」
「……てめ……」
足元から、ぼそりとかすれた声が飛ぶ。
コウが呆れた顔でため息をついた。
「完全に二日酔いじゃない」
御井が腹を抱えて笑う。
「ははっ、弱すぎだろ!」
コウも思わず笑った。
その空気の中で、
戌助はもう一度櫛を握り直し、懐にしまう。
今度は、手放さないように。
「……じゃあ、本当に行く」
「おう。 またな」
その言葉は、さきほどよりも少しだけ静かだった。
「――うん」
戌助は背を向けて、歩き出す。
一行は、山道にゆっくりと溶けていった。
御井は、その背中を見送り、ふっと息を吐く。
「……気を付けろよ」
それから、くるりと背を向けた。
温泉のほうへ戻っていく。
霧は晴れていた。
――だが、その先の道は、なお深い木立の影に包まれていた。




