一幕 福童と端間
霧ヶ峰を下りるにつれ、風が変わっていった。
はじめに気づいたのは、匂いだった。
湿った土と木の香りに、かすかに潮の気配が混じる。
「……風、変わりましたね」
ムツが鼻先を上げる。
頬を撫でる風は、山のそれよりもやわらかく、重たい。
遠くでは、水のうねるような低い音が絶え間なく響いていた。
「海が近い」
戌助が短く言った。
道は次第に緩やかになり、木々の背も低くなっていく。
やがて視界がひらけた。
その先に広がっていたのは、海へと注ぐ巨大な川だった。
下流へ向かうにつれ川幅は大きく広がり、対岸さえ白く霞んで見える。
かつてこの水域では、春日の忍と岩倉の水軍が幾度も血を流したという。
今は戦の影も薄れ、川沿いには小さな荷場や倉が並び、往来する商人たちの声がかすかに行き交っている。
だが――どこか静かすぎた。
「……船、出てねえな」
稲吉が舌打ちまじりに言う。
川岸に並ぶはずの船は、どれも繋がれたまま動く気配がない。
人の気配はあるのに、流れだけが止まっているようだった。
「岩倉の情勢のせいでしょうか」
ムツが静かに言う。
「渡しは当分止める、ってさ」
近くの商人がぼやく声が聞こえた。
空を見上げれば、いつの間にか雲が厚くなっている。
風も、どこか湿り気を帯びていた。
そのときだった。
「なんとかしてくれよー! これじゃ足りねえよ!」
少年の甲高い声が、場の静けさを破った。
振り向くと、荷場の一角で、ひとりの少年が店主に食ってかかっている。
柿色の着物に、短く結った髷。
落ち着きのない動きが、そのまま言葉に出ていた。
「この書付の分だけ、すぐ必要なんだよ!」
「いや……急にそんな量を言われてもなあ……」
店主が困り果てたように頭を掻く。
その背後には、束ねられた鉄。
個人の買い付けには、多すぎる量だ。
「小左ヱ門、少し控えなさい」
やわらかな声が、割って入る。
少年の後ろから現れたのは、ひとりの若者だった。
淡い紫の小袖。
藤の花の意匠が、雨前の薄闇に滲んでいる。
ススキのような淡い茶の髪を高く結い、笠の奥の目は、静かだった。
「どうしても必要なのです」
丁寧に言って、懐から包みを取り出す。
包みの口がわずかに開き、鈍く金が光った。
差し出されたそれを見て、店主の顔色が変わる。
「……こ、これは……」
店主の喉が、ごくりと鳴った。
「足りませんか?」
「……そこまで言うなら……なんとか、手配は……」
「助かります」
若者は、丁寧に頭を下げた。
その横で、
「なあ! 春居ー! 刀は!? 刀はねえのかよ!」
柿色の着物の少年が騒いでいる。
「静かになさい」
ぴしゃり、とたしなめられる。
「えー!」
「えー、ではありません」
軽いやり取り。
だが、その裏にある空気は、どこか不自然だった。
戌助は、取引をする若者の指が、わずかに震えていたのを見逃さなかった。
(……無理を押している)
不意に、若者の体が揺れる。
「……っ」
次の瞬間。
そのまま崩れるように倒れ込んだ。
「春居!?」
少年――端間が叫ぶ。
戌助がすぐに駆け寄り、その体を支えた。
「大丈夫ですか」
顔色が悪く、息も浅い。
稲吉が舌打ちしながら、懐から包みを取り出した。
「ほら、飲め」
無理やり口元に運ばれる薬湯。
若者――福童は、わずかに眉を寄せながらも、それを飲み下した。
しばらくして。
「……失礼しました。
助けていただき、ありがとうございます」
若者はゆっくりと体を起こしたが、顔色はまだ優れない。
「少し休め」
稲吉が低く言う。
「ええ。でも、急がなければなりませんので」
「船、止まってるって話だぞ」
その言葉に、福童はわずかに視線を上げた。
「――いえ」
「私の船がありますから」
一瞬の沈黙。
雨の匂いが、強くなる。
ぽつり、と水滴が地面に落ちた。
そのとき、福童の目が戌助をとらえた。
――ほんの一瞬。
何かを測るような色。
だが、すぐに消える。
「皆さんも……岩倉へ?」
戌助は頷く。
「はい」
「でしたら、ご一緒に」
福童は、わずかに微笑んだ。
端間が顔を上げる。
「いいのかよ!?」
「ええ。このままでは、濡れてしまいますから」
雨脚が、少しずつ強くなる。
岸の船頭たちがざわつく。
「福童様!」
「こんな天気で出すつもりですか!?」
その声を、福童は軽く受け流した。
「問題ありません」
静かにそう言って、振り返る。
「――参りましょう」




