二幕 亡霊
船の上では、雨脚が先ほどより明らかに強まっていた。
細かかった粒はいつしか重さを増し、水面を打つ音が絶え間なく船底へ響いている。
端間は相変わらず落ち着きがなかった。
「小左ヱ門、落ちますよ!」
荷箱の上を、猿のようにひょいひょいと飛び渡る。
福童が制止するが、まるで聞いていない。
「落ちねえって!」
そのまま足を滑らせ――
「ほら見なさい」
襟を掴まれ、宙に止まる。
「離せって春居!!」
「静かに」
戌助は、その様子を見ながら小さく言った。
「……にぎやかですね」
福童は苦笑した。
「ええ。目を離すと、すぐああなります」
「あんたら、なんの商いをやってんだ?」
稲吉の問いに、福童はわずかに間を置き、川へ視線を流した。
「……お答えできません」
不意に、船がぎしりと軋んだ。
風も波も変わらない。
だが、船だけが不自然に揺れた。
「今……揺れた?」
コウが眉をひそめる。
水面が、ずるりとずれた。
ざわりと波が立つ。
だがそれは風ではなく、内側から押し上げられるような、不自然な揺れだった。
「……何か来る」
低く、戌助が言う。
空気が、冷える。
遠くの水面に、影が現れた。
最初は霞のようだった。
それが、ゆっくりと輪郭を持つ。
船だ。
――いや。
“船だったもの”が、こちらへ滑るように近づいてくる。
裂けた帆。
歪んだ柱。
黒ずんだ船体。
音もなく、水を裂いて進む。
「……っ、出やがった……!」
船乗りのひとりが息を呑む。
「岩倉水軍の――幽霊だ!!」
その言葉が落ちた瞬間、時間が歪んだ。
音が遅れ、風も世界も粘つくように鈍っていく。
その“隙間”に――火が走った。
轟音。
火縄銃が一斉に火を吹き、乾いた破裂音が遅れて空間を裂く。
「危ない!!」
福童の声を背に、戌助は一歩前へ出る。
次の瞬間、金属音とともに弾丸が刀へ弾かれた。
火花が散る。
二発。三発。
すべてを、正確に叩き落とす。
福童の目が、わずかに見開かれる。
(……やはり、この方は春日の忍……)
幽霊船が、さらに迫る。
船上の影たちが、こちらを睨む。
顔は見えない。
ただ――沈められ、焼かれ、殺された者たちの恨みだけが、そこに残っていた。
「来るぞ!!」
船乗りが叫び終わる前に、水面が不自然に盛り上がる。
川そのものが、ぐらりと持ち上がった。
波ではない。
壁だ。
巨大な水の塊が、船を押し潰すように迫る。
「……っ」
ムツが息を呑む。
「舵取れ!! 持たせろ!!」
船乗りたちの叫び。
だが、間に合わない。
水が、覆いかぶさる――
そのとき。
ふっと風が止み、音が遠のいた。
戌助の視界の端で――何かが、“立っていた”。
輪郭はない。
形もない。
だが、そこに“いる”と分かる。
誰かが自分たちの前に、守るように立っている。
その気配は、静かに首を横へ振った。
「……」
水が、止まった。
崩れかけた波が、力を失う。
ざあと音を立て、水はただの流れへ戻っていく。
幽霊船がわずかに揺れ、影たちが一瞬たじろぐ。
そして、静かに退いていく。
音もなく、霧の中へと溶けていった。
止まっていた風が、ようやく川面を渡った。
「……なに、今の」
ムツが呟く。
静寂の中、戌助だけが前を見ていた。
何も言わない。
だが、その視線だけがわずかに揺れていた。
しばらく、誰も動かなかった。
水は何事もなかったように流れている。
けれど今しがたの出来事だけが、現実から浮いていた。
「……」
コウが、へたりと座り込む。
「助かった……の……?」
その静けさを破ったのは――
「なあああんだよ今のォ!?」
端間だった。
船縁にしがみついたまま叫ぶ。
「水が大波になったぞ!? あんなの川じゃねえだろ!!」
「あとなんかいたよな!? 絶対いたよな!?」
まくし立てて、ぴたりと止まる。
「……待てよ」
目が、じわりと輝く。
「……幽霊船……
俺、見ちゃったってことだよな!?」
ぐいっと身を乗り出し、一気に顔色が変わる。
「すげえじゃん!」
「っしゃー! 帰ったら皆に自慢してやろっ!」
恐怖は、もうない。
「落ち着きなさい、小左ヱ門――あれ?」
福童が声をかける頃には、端間はもうどこかへ走り去っていた。
ムツが吹き出す。
ぽつり、と笑いが漏れる。
それが、少しずつ広がっていく。
張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。
戌助は、ただ一度だけ、小さく息を吐く。
その横顔を、福童は見ていた。
(……)
言葉にはならない。
だが、その振る舞いはどこか、ひどく引っかかる。
福童は、わずかに視線を落とした。
あの気配は、ただの自然ではなかった。
誰かの“意志”だった。
そしてあの瞬間、それは――戌助の前で、止まった。
(なぜ、あれは)
そこから先が、続かない。
「おーい、岩倉の湊が見えてきたぞ!」
船乗りのひとりが声を上げた。
福童は、顔を上げる。
そして、いつも通りの穏やかな声音で言った。
「皆さま、お怪我はありませんか?」
「下船の準備をしましょう」




