三幕 ここが岩倉
船が岸に着いたとき、雨はすでに弱まっていた。
重く垂れ込めていた雲の切れ間から、わずかに光が落ちている。
濡れた板を踏みしめながら、ひとり、またひとりと陸へ降りていく。
「……地面だ……」
ぼそりと呟いたのは、稲吉だった。
ふら、と一歩踏み出し――ぐらりと揺れる。
顔色が明らかに悪い。青を通り越して、白い。
「ムツ……肩貸せ……」
ムツはすぐに片膝をつき、肩を差し出す。
「う゛ぉえっ……」
その声に、ムツの動きがぴたりと止まる。
何事もなかったかのように、すっと半歩ぶん距離を取った。
「なんだ、船酔いか。妙に静かだと思ってたんだよ」
「おまっ……待て……!」
「無理」
即答だった。
端間が腹を抱えて笑う。
「はははっ! あの状況で酔ってたのかよ!? だっせーーー!!」
「小左ヱ門」
福童がたしなめるが、端間は止まらない。
「ははっ、弱っ! お前弱っ!」
「……あのチビ……今に見てろ……」
稲吉が低く呟いた。
その横で、戌助が少し迷うように懐をごそごそと探る。
「……だんご、いる?」
「はぁ……?」
「甘いもの、効くって聞いた」
「今それどころじゃねえよ……!」
言い終わる前に、稲吉はぐっと口元を押さえてうずくまった。
コウがくすくす笑った。
「やめなさいよ、ほんとに吐くわよ」
そんなやり取りの中、船の荷が降ろされ、人の流れが動き出す。
福童が静かに声をかけた。
「皆さま、ここからはそれぞれの道になりますね」
端間が「えー!」と声を上げる。
「一緒に行こうぜ!」
「用があるでしょう」
やんわりと制しながら、福童は戌助たちへ向き直った。
「本日は、助けていただきありがとうございました」
「こちらのほうこそ」
戌助が短く答える。
ほんの一瞬。
互いに何かを測るような沈黙が流れる。
福童は、ふっとやわらかく微笑んだ。
「また、近いうちに」
笠を傾け、踵を返す。
端間がぶんぶん手を振った。
「おい! 次会ったら勝負な!」
「何のですか」
「なんかだよ!!」
騒がしい声を残して、二人は人混みの中へ消えていった。
戌助は、しばらくその背を見送った。
やがて、静かに前を向く。
この先が、岩倉。
遠く、雲を背にして白い天守が浮かんでいた。
低く垂れた灰雲が、その輪郭を鈍くなぞっている。
――ついに、来た。
それぞれの胸に、同じ思いだけが沈んでいた。
道を進むにつれ、人の往来が増えていく。
荷を担ぐ者や、行き交う商人。
急ぎ足の使いたちが、絶え間なく道を横切っていく。
すれ違う声のひとつひとつが、土地の大きさを物語っていた。
「……今、なんどきだ?」
ぽつりと、稲吉が言う。
「昼過ぎ、かな」
ムツが空を見上げた。
気づけば、雲は重く沈みはじめている。
「やけに暗いな」
誰も、否定しなかった。
道を抜けた先で、視界が大きくひらける。
黒々とした大門が、道の先にそびえていた。
厚い木組みは、光を吸うように暗く、開かれているにもかかわらず、どこか圧を帯びていた。
「……でか」
コウが、思わずといった調子で呟く。
一歩、踏み入れる。
――途端に、世界が変わる。
石畳。
軒を連ねる店。
行き交う人々。
灯りがともりはじめ、橙の光が水のように通りを満たしていく。
ふと、頭上に揺れるものへ目が留まる。
細くしなる笹。
そこに結ばれた、色とりどりの短冊。
風を受けて、さらさらと鳴る。
竹で編まれた灯籠が、あちこちに吊るされ、柔らかな光を落としていた。
そのひとつひとつが、まるで星の欠片のように瞬いている。
コウが、小さく息を漏らす。
「……きれいね……!」
「これは……何かのお祭りでしょうか……?」
ムツも、思わず見上げた。
通りのあちこちで、子どもたちが短冊を結び、笑い合っている。
店先には、願い事を書いた紙が揺れていた。
誰もが当たり前のようにそれをくぐり、笑っている。
――あまりにも、穏やかで。
――あまりにも、何も知らないように。
戌助はその光景を見つめたまま、静かに目を伏せた。
そして顔を上げたときには――
そこに残っていたのは、覚悟だけだった。




