一幕 伊織
岩倉城の門は、静かに開かれていた。
城下の喧騒を背に、戌助たちはその内へ足を踏み入れる。
中は、思っていたよりも広い。
石を敷いた道の両脇に、詰所や蔵が並び、行き交う者の気配も、まだかすかに残っている。
だが、進むにつれ人の声は少しずつ遠のいていった。
代わりに、衣擦れと足音ばかりが耳につく。
戌助は、わずかに視線を上げた。
城下とは違う、澄んだ風が流れていた。
やがて、一行の前にもうひとつの門が現れた。
黒々とした木の扉は、固く閉ざされ、沈黙している。
「――まて」
番兵が、槍の石突で地を打つ。
乾いた音が、低く響いた。
「この先は中門の内。許しなき者は通せぬ」
その声には、先ほどまでの城の気配とは違う、はっきりとした“線”があった。
戌助は書状を差し出し、番兵は無言で目を通す。
「……八坂様の御意か」
一拍。
「通れ」
――ぎ、と。
重い音を立てて、門が開いた。
「他の者は、ここで待て」
ムツが、すぐに一歩前へ出た。
「え、いや、私たちも――」
「許されているのは化野殿おひとりだ」
遮るように言葉が落ちる。
ムツは、大きな目で心配そうに戌助を見る。
「……何かあったら、すぐ知らせてくださいね」
「あと、だんごも切らしたら――」
「わかってる」
戌助はふっと笑い、短く言った。
それでもムツは、なお言いかけて――飲み込む。
代わりに、小さく頷いた。
一方で。
「……ちょうどいい。調べたいことがあったんだよ」
稲吉が、ぽつりと呟く。
コウが横目で見る。
「……ねえ。あのことも、でしょ」
稲吉の視線が、ふとコウへ向く。
コウは軽く息を吐き、城下町へ目をやった。
「お七さんのこと。どうして、ああなったのか」
稲吉はわずかに目を見開いた。
「……覚えてたのかよ」
「忘れるわけないでしょ。
約束したじゃん。一緒に突き止めるって」
稲吉は何も言わない。
ただ、藍の手ぬぐいに触れた指先だけが、わずかに止まった。
「じゃあまた後でな」
軽く手を上げる。
三人は、それぞれの方向へ散っていった。
戌助はひとり、中門の前へ残された。
一歩、踏み出す。
敷居を越えるその瞬間、足裏へ伝わる感触が変わった。
砂利ではない。
細かく均された白砂。
整えられた松。
揺れる紫陽花。
――音が、消える。
踏みしめる音だけが、妙に乾いて耳へ残った。
つい先ほどまでの城とは、まるで別の場所だった。
戌助は何も言わず、静かに歩く。
その背を、門の影が長く追っていた。
やがて通されたのは、広い座敷だった。
誰もいない。
開け放たれた障子の向こうに、庭が見える。
白砂の上へ、風が細く線を引いていた。
かすかに、甘い香りがした。
気のせいかと思うほど、淡かった。
風に乗ってきたのか、それとも最初からそこにあったのかも分からない。
戌助は、わずかに視線を庭へ向ける。
紫陽花の陰に、白いクチナシがひっそりと咲いていた。
ただ、それだけだった。
けれど、なぜか――そこに、誰かの気配が残っているような気がした。
そのとき、衣擦れの音が近づく。
戌助はすぐに膝をつき、頭を下げた。
「姫様お待ちください、そのようなお振舞は――」
障子の向こうから、侍女の制する声が聞こえた。
だが、次の瞬間。
ばっ、とそれを振り切るように足音が踏み込んできた。
「戌助!!」
弾けるような声に、戌助は思わず顔を上げてしまう。
そこにいたのは、黒い髪を長く垂らしたひとりの少女――伊織姫だった。
格式ある桃色の小袖に、空色の打掛。
だが、その表情は――明るく、ほどけていた。
「戌助……! 来てくれたのですね……!」
子供のように駆け寄る。
その呼び方だけで、胸の奥に安堵が広がる。
――あのときと同じだ。
西の地から、この岩倉へ。
まだ幼かった伊織が、不安を押し隠して笑っていた道中。
振り返っては、何度も名前を呼んだ。
――変わっていない。
そう思った、そのとき。
「お取込み中でしたか」
低い声が、割り込んだ。
ぴたり、と姫の足が止まる。
花が閉じるように表情が消え、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、濃い紫の小袖に黒い肩衣を纏った男。
鷹のような目だった。
「……八坂様」
姫は静かに一歩引き、頭を下げる。
八坂は、ゆっくりと室内へ入った。
その視線が、戌助へ落ちる。
「遠路、ご苦労。家老の八坂玄随と申す」
穏やかな声音だった。
それなのに、なぜか気が緩まない。
「近頃、“鬼姫”などという噂が立っていてな。
情勢も、安定しているとは言い難い」
淡々と続く。
「同郷の者がいれば、姫の心も幾分か安らぐだろうと思い、そなたを呼んだ」
戌助は、黙って頭を垂れる。
「しばらく、護衛を任せる」
短い言葉。
それだけで、決定は下された。
「部屋は用意してある。案内をつけよう」
そこで、八坂は視線を姫へ向ける。
「よろしいな」
問いではない。確認でもない。
ただ、告げるだけの声。
姫は、わずかに息を吸った。
ほんの一瞬だけ、何かを言いかけるように唇が動く。
だが。
「……はい」
それ以上は、何も言わなかった。
「では、頼んだぞ」
八坂はそのまま去り、障子が閉まる。
音が、やけに大きく響いた。
しばしの静寂。
「……ふう、びっくりした?」
ようやく、姫の肩から力が抜け、くすりと笑う。
その顔に、色が戻っていた。
少しだけ近づく。
「ほんとに……戌助なんだ」
「久しぶり……!」
あの日の続きが、そこにあった。
姫は、少しだけ視線を落とす。
「八坂様はね、昔からここにいらして――
水軍の総大将だったの。強くて、でも……優しくて」
一瞬、言葉が止まる。
「昔は……もっとよく笑う方だったのよ。
……でも」
その目が、どこか遠くを見る。
その先の言葉は、落ちなかった。
「あ、ごめんなさい。まずは着替えましょう?」
姫の指示で、侍女が衣を運び入れ、襖を閉める。
戌助が帯に手をかけた、そのとき。
――ごん!!
天井に、鈍い音が響いた。
「いったぁ……!」
梁の影から、顔が覗く。
「ムツ……」
「あ……あの、若、心配で……!」
きまり悪そうな顔で、ムツは畳へ降り立った。
膝をつき、伊織へ深く礼をする。
「ご無礼をどうかお許しください」
「うちの、ムツです」
戌助はさらりと紹介する。
飼い犬を紹介するようなその仕草に、姫が思わず吹き出した。
「ふふ……」
その笑い声に、空気が一段軽くなる。
「本来なら、切腹ものですよ」
呆れた声が、障子の向こうからした。
立っていたのは、ふたり。
「姫の小姓を務めております、福童春居と申します」
あの船で聞いた、柔らかな声。
「端間小左ヱ門だ!」
隣で、胸を張る。
「先の船では、素性も明かさず失礼いたしました。姫のお側に仕える身ゆえ、ご容赦を」
福童は、軽く一礼した。
戌助へ視線を流す。
「……やはり、あなただったのですね。八坂殿が招いたという方は」
確かめるように。
しかし、踏み込みすぎない距離で。
「なあなあ! 小郡の若頭なんだろ!? すげえな!」
端間が、ぐいっと身を乗り出す。
福童がすぐにたしなめた。
「小左ヱ門、控えなさい」
「だって本当だろ!」
そのやり取りを、福童は小さく息をついて収める。
そして改めて、戌助へ向き直った。
「――姫を、よろしくお願いいたします」
変わらない声音。
だが、その奥に、確かに意志がある。
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
福童はそれ以上何も言わず、静かに踵を返した。
「お部屋へご案内いたします」
整った所作に、隙のない言葉。
先を行く端間の足音だけが、やけに騒がしい。
その少し後を、福童は静かに歩いた。
戌助は、何も言わずにその背を追った。




