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二幕 痛み

 案内された部屋は、質素な造りながら、隅々まで手入れが行き届いていた。


 床の間には、季節の花が一輪。

ほのかに香が焚かれている。


 乱れたところが、どこにもなかった。


「……本当に、この城で不幸が続いているのですか」

 ムツが、ぽつりと漏らした。


 鬼姫。


 あまりにも不穏な噂と、この部屋の穏やかさが結びつかない。


「噂の出所を探る必要があるな」

 戌助(いぬすけ)は静かに返す。


 福童(ふくどう)は一歩、室内へ進んだ。

「こちらを、お使いください」

 畳の上に用意された寝具へ目を向ける。


「姫のお側に控えられるよう、この部屋をお取りしております」


 そして――


「……どうか。姫を、お救いください」


 初めて、福童の声が揺れた。


 ムツが、わずかに目を見開く。

その言葉は、軽く受け流せるものではなかった。


 戌助は、福童を見つめる。

(……この人は)


 嘘を言っている顔ではない。

だが、何かを知っている。


 静かな沈黙を、控えめな足音が破った。


「福童様、端間(はたま)様。お時間にございます」

 障子の向こうから、従者の声が届く。


 福童が顔を上げた。


「……もう、そんな時刻ですか」

 短く息を吐く。


 端間は、わずかに顔を曇らせた。


 戌助が眉をひそめる。

「城下へ?」


「ええ。姫が見回りに行きますので、早速ですが、護衛を頼みます」


「……護衛が必要なのですか」


 城主が城下へ出ること自体は、珍しいことではない。


 だが、福童ははっきりと言った。


「必要なのです。今は」




 戌助たちは、中庭で待機していた。


 石畳の上に、やわらかな影が伸びている。


 日は傾き、空は淡く色づきはじめていた。

どこからか、ひぐらしの声が聞こえる。

静かで、穏やかな初夏の夕暮れだった。


 やがて、襖が静かに開く。


 現れたのは、伊織(いおり)だった。


 先ほどの打掛ではなく、小袖に袴。

袖はやや短く、裾も足さばきを妨げないよう整えられている。


 その姿は、城の奥に座す姫ではなく、外に立つ者の装いだった。


「お待たせしました」

 穏やかな声。


 福童と端間が、静かに頭を下げる。

戌助とムツも、それに倣った。


「参りましょう」


 一行が城門を抜けた瞬間。


 空気が、わずかに変わった。


 ざわめきはある。

人もいる。

それでも――向けられる視線だけが、違っていた。


「……」


 遠巻きに。

測るように。

拒むように。


「……鬼だ」

「鬼姫様だ」


 小さな声が、風に紛れる。


 ムツの足が、わずかに止まりかけた。

だが、伊織は歩みを緩めない。

まっすぐに、城下へと進んでいく。


 その背を見て、戌助は目を細めた。


(……変わらない)


 あの時も、そうだった。


 本当は怖いと、自分だけに打ち明けた。

それでも最後には、前を向いた。


 私にしかできないのだと、そう言って、笑って行った。


 今も、同じだ。

弱さも、痛みも、どこにも見せないまま、ただ前へ進む。


(……届いていないのか)


 この人の想いは。


 この国に。


 胸の奥が、わずかに軋んだ。


 やがて、一軒の店の前で足を止める。


 軒先では、男が慌ただしく荷を動かしていた。

「くそ……間に合わん」


 濡れた木箱が、崩れかけている。

あちらを押さえればこちらが傾き、どうにも手が足りない。


「大丈夫ですか」


 伊織がそっと声をかけると、男の動きが止まった。


 ゆっくりと顔を上げ――目が合う。


「……問題ございません」


 男は、視線を逸らしたまま答えた。

先ほどまでの焦りは、跡形もない。


 伊織はわずかに間を置き、言葉を継ぐ。

「困ったことがあれば、遠慮なく申し出なさい」


 静かに。


 はっきりと。


「我が守山(もりやま)家は――いつも民とともにあります」


 男は、答えない。

ただ、頭を下げるだけだった。


 ――その時、甲高い声が響く。


「鬼姫だ!」


 誰かが石を拾い、振りかぶった。


 戌助の足が前へ出たが、

(――子供だ)

 その判断が、遅れになった。


 誰かが止めるより早く、石は放たれる。


 鈍い音。


 伊織の額に当たり、わずかに身体が揺れる。


 血が、細く流れた。


「……っ」

 端間の目が見開かれ、その手が刀にかかった。


「ふざけんな……!」

 低く、震える声。


 今にも抜き放とうとする、その瞬間――


「やめなさい!!」


 福童の声が、鋭く空気を裂いた。


「民に刃を向けるとは――恥を知りなさい!!」


 端間の動きが、止まる。

歯を食いしばりながらも、手は刀から離れた。


 子どもは、怯えたように後ずさる。

だが、誰も何も言わない。

ただ、遠巻きに見ているだけだった。


 その沈黙が、何より重い。


 伊織は、ゆっくりと手を上げ、額に触れた。


 指先に、血がつく。


 伊織は、それを静かに見下ろした。

痛みに顔を歪めることもなく、ただ、手を下ろした。


「……戻りましょう」


 静かに告げる。


 戌助は、拳を握ったまま、何も言えなかった。


 ひぐらしの声だけが、やけに大きく響いていた。

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