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三幕 天の川

 城の夜は、静寂に包まれていた。


 昼のざわめきが嘘のように消え、風だけが、天守の高みを撫でていく。


 見下ろせば、城下に灯が点々と揺れていた。

橙の光はやわらかく滲み、まるで人の息づかいのように揺れている。


 伊織(いおり)は、欄干へ手を添えたまま動かなかった。


「……冷えます」

 背後から、戌助(いぬすけ)の声が届く。


「そうね」

 振り向かずに、伊織は答えた。


 足音がひとつ、隣へ並ぶ。


 ふたりとも、しばらく口を開かなかった。

風だけが、ふたりのあいだを通り抜けていく。


 やがて――

伊織が、静かに口を開いた。


「亡くなった若君は……

祝言の日、懐に猫を隠しておられたの」


 戌助が、わずかに目を瞬かせる。


 伊織は、ほんの少しだけ笑った。

「寒そうだったから、って。あんな日にまで、本当におかしくて」


 懐かしむように目を伏せた。

「城に籠もっているのが、お嫌いな方でした」


「馬の世話をしたり、商人の話を聞いたり……

よく、城下へ降りておられて」


「“守山(もりやま)は、いつも民とともにある”と」


 その言葉は、やわらかく。

けれど、揺るがない芯を持っていた。


「だから――私も、それを続けているの」


 夜風が、髪を撫ぜる。


 伊織はどこか困ったように笑う。

「お会いできる機会は少なかったのに。

不思議ね。思い出す言葉は、たくさんあるわ」


 ふと、空を仰ぐ。

雲は流れ、星が顔を出していた。


「春日と岩倉は、この地に伝わる七夕伝説の、星と同じ位置にあるって」


「天の川を通して、離れたふたりが結ばれるように。

手を取り合って、国を治めようと――あの人は言ってくれた」


 星明かりが、伊織の瞳に淡く滲んだ。


「和睦(わぼく)のための婚姻だったけれど……幸せだったわ」

 その一言だけは、隠しきれない温かさを帯びていた。

けれど、伊織はすぐに目を伏せた。


「だから、約束を違えたくないの」


 再び、城下へ視線を落とす。

夕時の光景が、胸の奥に沈んでいた。


 それでも、声色は崩れない。


 戌助は、静かに息を吸った。


「伊織様」


 伊織が、わずかに振り向いた。

戌助は、迷いなく言葉を置く。


「……お供します」


 風が、強く吹き抜ける。


 伊織は一瞬だけ目を見開き、ふっと力を抜くように笑った。


「ありがとう」


 小さく頷き、再びふたりは前を向く。

夜空には、細い三日月が浮かんでいた。


 その下で、伊織の背は変わらずまっすぐだった。

――けれど、どこか壊れてしまいそうな危うさもあった。




 そのころ、ムツは岩倉城内の書庫へ足を運んでいた。


 積み上げられた記録の束と、綴じられた過去帳。

紙の匂いが、淡く漂っていた。


 わずかな灯りを携え、指先で頁をめくる。


 ――戦の記録。


 年号とともに並ぶ、名と数。


 討死。

焼失。

流民。


 淡々と書かれているだけなのに、そこにある重みは消えない。


(……こんなに)

 頁をめくる指が、止まった。


 自分たちは知らない。

実際の戦場も、その地獄も。


 だが――ここに残っている。


 鬼姫――


 夕時、耳にした言葉がよぎる。


 あの噂は、誰が流したのか。何のために。

比喩にしては、妙に根を張っている。


(……関係があるのか?)


 断じるには、まだ足りない。

だが、何かが引っかかる。


 ムツは、頁を閉じた。


 そのとき、くぐもった音が聞こえた。


「……っ、ひっ……」

 小さな、息を詰めるような声。


 ムツは、ぴたりと動きを止める。


(……何?)

 耳を澄ます。


 小さく、息を呑む音がもう一度した。


 書棚の奥へ視線を向け――ゆっくりと手をかける。


「――うわっ!?」

「ひゃあっ!?」


 声が、ぶつかった。


 そこにいたのは――端間(はたま)だった。


 膝を抱えてしゃがみ込み、目を見開いている。


「な、なんだよムツかよ……!」

 顔をしかめながらも、どこかほっとしたように息を吐く。


「びっくりさせんなよ……!」


「それ、こっちの台詞だよ……」

 ムツは肩を落とした。


 端間の目元は、少し赤い。


「……泣いてた?」

「泣いてねえ!」


 即座に返る。

けれど、その声に勢いはなかった。


 やがて――


「……守れなかった」


 夕暮れの城下が、端間の脳裏によぎる。

拳が、ぎゅっと握られる。


「……俺、何もできなかった」


「……」

 ムツは、すぐには答えなかった。


(……簡単なこと、言えない)

 自分だって、同じだからだ。


「……春居(はるい)さん、呼ぶ?」

 ふと、軽く言う。


 端間が、びくっと顔を上げた。

「やめろ!!」

「なんで」

「前髪、切られるから!」


 ムツは一瞬、ぽかんとして――吹き出した。

「えぇ?」


「ほんとだって! この前も勝手に外出たら……」

 指で、自分の前髪をつまむ。

見事に揃った、まっすぐな切り口があった。


(……ああ)

 ムツは、妙に納得した。


 端間も、つられるように肩の力を抜いた。


「俺……強くなりたい。

ちゃんと、守れるように」


 小さな声だった。けれどそこに、揺らぎはなかった。


 しばらく黙ったあと、端間は無意識に、頬先から耳へかけて残る古い傷跡へ指をやる。


 刃物で裂けたような痕だった。


「俺、家が貧しくてさ……捨てられたんだ。親に」


 乾いた調子だった。

昔話でもするように、あまりに軽く。


「そんで、山で、獣みたいに暮らしてた」


 そこで、瞳が少しだけ柔らかくなった。


「そしたら、伊織様が俺を拾ってくれて――

居場所をくれた」


 ムツは、目を細める。


「だから……」

 端間は、そこで口をつぐむ。


 その先を言わなくても、理由は明らかだった。


 守りたいのだ。

今度は、自分が。


「……そっか」

 ムツは軽く答えると、周囲へ視線を巡らせた。


 書庫の隅。

古い机と、積まれた書物。


 無言のまま歩み寄り、机の端へ手をかける。

軋む音を立てながら、それを脇へ寄せた。


 空いた床に、わずかな空間ができる。


「じゃあ、やるか」

「……何を?」


「稽古」


 端間が、目を瞬かせる。

「今? ここで?」

「うん。ここで」


 ムツは肩をすくめた。

「どうせ寝れないんだろ」


 図星だった。


 端間はぽかんと口を開けたが、やがて、にやりと笑う。

「……いいじゃん」


「でも先に言っとくけど、俺、教えるの得意じゃないから」

 ムツは首を傾げ、へらっと笑った。


 端間が口をとがらせる。

「え、じゃあなんで」


「ほっとけない」


「……」

 端間は、言葉を失った。


 ムツは、近くにあった長柄の掃除具を手に取る。

「自信はないけど、教えてもらったやり方なら、少しはできる」

 端間へ一本、投げてよこした。


「……お前にも、師匠とかいたのか?」


 軽く投げられた問いに、ムツは一瞬だけ言葉を止めた。


「まあね」


 思い出したのは、尚之(なおゆき)だった。


 浮かぶのは、丁寧な所作でムツを導いた、優しい横顔。


 それに比べて、ふと別の顔が浮かぶ。

(稲吉(いなよし)は……)


 勢いで突っ込んできて、力でねじ伏せるような稽古。

負けた日の家事は、全部ムツがやった。


(……あれはイジメだ)

内心で切り捨てる。


「ん?」

 端間が、不思議そうに覗き込む。


「いや」

 ムツは首を振った。

「よし、どこからでも来い!」


 端間は、素直に踏み込んできた。


 速い。


 だが――まっすぐすぎる。


 振り下ろす、その瞬間。


 ムツは、動かない。

ぎりぎりまで、引きつける。


 端間の動きが“決まった”――その一拍あとで。


 す、と身体をずらした。


 端間の一撃が、空を切るのと同時に、柄で軽く腕を叩いた。


「っ!」

 端間の体勢が、崩れた。

「……今の、なんだよ!」


「待っただけ」

 あっさりと。


「は?」

「早く動きすぎだよ」


 ムツは、少し言葉を選んで言った。

「そうだな――相手がどう来るか、見定めてから動くんだ」


「でも、それじゃ間に合わねえだろ!」


「間に合う。ちゃんと見てればな」


 端間は、口をへの字に曲げた。


「もう一回」

 ムツは、顎で示す。

「今度は俺から行く。“すぐ動くな”」


 一歩踏み込み、間合いが詰まる。


 見上げるほどの背と、まっすぐな視線。

その圧に、端間の足がわずかに止まった。


(……やば)

 反応が、遅れる。


 慌てて、振りかぶる。


 そのとき。


「――そう」

 ムツが低く言い、長柄を振り下ろす。


 その一拍あとで、端間は気づく。


(……ここか)


 ムツの長柄の軌道が決まった瞬間。


「――今!」


 カンッ。


 受けた。


 初めて、噛み合う感触。


「……!」

 端間の目が、大きく開く。


「できたでしょ」

 ムツは、口元を緩めた。


「……やった!! 当たった!!」

 思わず、声が弾む。


「筋いいよ」

 ムツも、つられるように笑った。


 端間は、もう構え直していた。

「……もう一回!」

「うん」


 そのとき――

乾いた足音が、書庫の外で止まった。


「……小左ヱ門(こざえもん)?」

 静かな声とともに、障子がわずかに開く。


 灯りを背に、福童(ふくどう)が立っていた。

いつも通りの、柔らかな顔だった。


「こんなところにいましたか」


 視線が、室内をひと巡りする。


 寄せられた机。

空いた床。

向かい合うふたり。


「……なるほど」

 わずかに息をつき、福童は中へ歩み入った。


「夜更かしが過ぎますよ」

 咎める声音ではない。

どこか、困ったような響きだった。


 端間は、ばつが悪そうに目を逸らす。

「……すぐ戻るって」


「“すぐ”で済んだ試しがありませんね」

 やんわりと返す。


 それから、ふと。

福童は、夕時のことを思い出すように視線を落とした。


「……あの子ども。

正直、私も――とっちめてやろうかと思いましたよ」


 低く落ちた声音に、端間がびくりと肩を揺らす。

「……こええよ」


 福童は、くすりと笑った。

「冗談です。それでは、何も変わりませんからね」


 ムツは、ふっと息を抜いた。

「春居さんも、そういうこと言うんですね」


「え? どういう風に見えてたんですか?」

 軽く肩をすくめる。


 その様子に、ムツは小さく笑った。


「では……帰りますよ、小左ヱ門」


 名を呼ばれ、端間は一瞬だけ迷い、ちらりとムツを見る。


 ムツは、小さく頷いた。

「今日はここまでだな」


「……おう」


 去り際。福童は、一礼をした。


「お付き合いいただき、ありがとうございました」

 形式ばらない、素直な言葉だった。


 ふたりは書庫を後にする。




 部屋へ戻ると、ちょうど戌助が寝支度を整えているところだった。


 無駄のない手つきで、布団を敷いている。


 そこで、ムツは足を止めた。

(……そうか)


 ここへ入ることを許されたのは、戌助だけだ。

用意されている布団は、ひとつだけだった。


 どうしたものか、と口を開きかけた、そのとき。


「ああ、半分使う?」

 あっさりと、戌助が言った。


「は――」


 一瞬、意味が追いつかない。


「え」


「えええ!?」

 顔が、一気に赤くなる。


「い、いやいやいやいや!!」

 ぶんぶんと首を振る。


「俺は押し入れで寝ます!!」

 早口で言い切るなり、押し入れへ滑り込む。


 ぱたん。


 勢いよく閉まる。


「……?」

 戌助は首を傾げた。

「……まあいいや」

 気にせず、布団へ手を入れる。


 やがて、ムツが短く問う。


「姫は、……どうでした?」


「大丈夫。

――支える。私たちで」


 それだけだった。


 押し入れの中で、小さく息を吐く気配がした。


「……はい」


 外では、夜風が細く障子を鳴らしていた。

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