一幕 綻び
翌朝。
書簡の束を抱え、廊下を急いでいたムツは、ふと足を止めた。
視界の先。見慣れた城の中に、似つかわしくない影が二つあった。
質素な小袖に、頭には桂包。町娘の装いだった。
ひとりは、赤い髪を下ろし、静かに揺らしている。
「……ん?」
一歩、近づく。
「……若!?」
ばさばさっ――
抱えていた書簡が、雪崩れるように床へ散らばった。
少し、時を遡る。
部屋で、伊織は机に向かっていた。
真剣な面持ちで、何かを読んでいる。
戌助は、戸口の前で足を止めた。
(……昨日のことがある)
声をかけるべきか躊躇った、その時。
「どうしたの?」
先に顔を上げたのは、伊織だった。
その表情は、思っていたよりもずっと軽い。
「……いえ」
言いかけて、止まる。
視線が、伊織の手元へ落ちた。
文ではない。色のついた紙だ。
紫陽花模様の包みに収められた、菓子の絵。
「……甘味処の、お饅頭ですか?」
「そう。どうしても食べたいの。これ」
伊織は、子供のように楽しげに笑った。
戌助は、ふっと息をついた。
(……なら)
「一緒に行きましょう」
「え?」
「変装すれば、わかりません」
伊織の目が、ぱっと輝いた。
「面白そう」
すっと立ち上がり、
「少し待っていて」
そう言い残して、奥へと消えた。
――ほどなくして。
戻ってきた伊織の姿は、もう先ほどとは別人だった。
飾り気のない小袖に身を替え、髪も簡素にまとめ直されている。
城にいる姫ではなく、どこにでもいる娘の顔だった。
「……慣れてますね」
「かなり前に、何度かね」
悪びれもなく、微笑む。
そして、くるりと振り返った。
「で、あなたはどうするの?」
「……え?」
――そして、今に至る。
城下の賑わいの中で、戌助はぎこちなく歩いていた。
「……」
本来の姿に近いはずなのに、なぜか落ち着かない。
視線が気になる。歩幅も、微妙に合わない。
「ふふ、かわいいよ」
隣で、伊織が笑う。
「前のほうがよっぽどいい」
戌助は、困ったように眉を下げた。
視線は逸れたまま。
その様子が可笑しいのか、伊織はまた肩を揺らした。
城下の空気は――昨日とはまるで違っていた。
「あら、かわいい子だねえ」
「姉妹かい?」
気さくな声。
柔らかな視線。
誰も、疑わない。
「ねえ、おまけしてもらっちゃった」
伊織が、嬉しそうに饅頭を掲げる。
その顔には、昨日の張りつめた気配はなかった。
店の縁台に腰掛ける。
紫陽花模様の包みを開けると、甘い香りが広がった。
遠くで、子どもたちの声が響く。
「――鬼が来るぞ」
戌助は、はっとした。
しかし、それは駆けていく子らの遊び歌だった。
「織姫とんとん機を織る
カタトン トンカタ 機を織る
だけど小鬼が 邪魔をする――」
無邪気な調子で、繰り返される。
「……鬼」
戌助の表情が、少しだけ強張った。
その隣で、伊織が目を伏せた。
だが、すぐに何事もなかったように微笑む。
「岩倉に昔からある歌よ」
それ以上は、語らない。
戌助も踏み込まなかった。
ふと、店の奥へ視線が向いた。
掛け軸。
おそらく、かつての戦を描いたものだ。
波を裂いて進む岩倉の船。
それを迎え撃つ春日軍には、四つの人影がある。
一人は、知っていた。
(……父上だ)
ならば、残る三つは――誰だ。
絵の脇には、古びた筆文字が添えられていた。
赤き影、白き爪、龍の風、無銘の知恵。
異名か、歌か。
戌助にはわからない。
そして両軍のあいだには、ひときわ強い光が描かれている。
墨を水へ落としたような、じわりと広がる異様な光。
(あれは……何だ)
胸の奥へ、言いようのない違和感が広がる。
考えを巡らせながら、戌助は何気なく饅頭を手に取った。
――ぱく。
「……」
沈黙。
口に入れたのは饅頭ではなく、財布だった。
「……っ」
気づいた瞬間、ぶはっと吐き出す。
その様子を見た伊織が、肩を震わせる。
「っ、ふ……」
「……ふふ、くく……っ」
「あははははは!!」
声を上げて笑った。
腹を抱えて、涙を滲ませて、まったく止まらない。
「笑いすぎです」
戌助は顔を背けるが、その頬はわずかに赤い。
「だって……っ、今の……!」
言葉にならないまま、また笑う。
少し離れた場所。
「……尊い」
ムツは、目を潤ませて手を合わせていた。
「何をしているんですか」
「うわっ!?」
背後からの声に飛び上がり、尻もちをつく。
振り返ると、福童が立っていた。
「……春居さん」
「ええ」
その視線は、遠くの二人へ向けられていた。
「昨日のことがありますから」
「……ですよね」
ムツも頷きながら、そっと物陰へ身を寄せる。
福童も自然にその隣へ収まり、二人して柱の影から顔を覗かせた。
どう見ても――こそこそと様子を窺う、不審な男が二人。
「なんか、かっこ悪いですね俺たち」
「一緒にしないでください」
即答だった。
「えっ」
「私は護衛です」
「俺も一応そうですけど」
そんなやり取りの最中。
「あれ?」
視線を戻すと――
「……いない?」
二人の姿が、消えていた。
路地の奥。
猫が、するりと駆けていく。
白とも灰ともつかぬ、珍しい毛色だった。
「待って!」
伊織は、その背を追っていた。
細い路地を抜けると、急に視界が開け、林が現れた。
人の気配が、ふっと途切れる。
昼間だというのに、木々が光を遮り、どこか薄暗い。
その奥に――ぽっかりと、口を開けた道があった。
「……こんなところに」
戌助が、足を止める。
崩れかけた土壁。
踏み固められた地面。
古い。だが、完全に捨てられているわけではない。
――人の出入りがある。
伊織が一歩踏み出しかけた、そのとき。
ざり、と、足元の砂が鳴った。
振り返るよりも早く、周囲に気配が立った。
木々の陰から、人影がじわりと滲み出る。
「迷い込んだか?」
男の声。笑っているが、目は笑っていない。
戌助は、無言で一歩前に出た。
伊織を背に庇う位置。
袖の内で、指先がかすかに動く。
「――下がって」
男たちが間合いを詰めようとした、その瞬間――
風が、割って入った。
「伊織様!」
鋭い声と同時に、背後から腕が伸びる。
福童だった。
迷いのない動きで、伊織の背を押し、そのまま林の外へと導く。
「――お任せします」
ただ一言だけを残して、姿はすぐに見えなくなった。
去り際、福童が一瞬だけ振り返った。
その目だけが、妙に引っかかった。
「……任されましたね」
いつの間にか、ムツが隣に立っていた。
「うん」
戌助は静かに構える。
踏み込み、間合い、崩し。
男たちは、声を上げる間もなく地に伏していた。
静寂が戻ってきた。
「ムツ」
「はい」
戌助は、視線を奥へ向けた。
先の見えない、暗い入口。
「……行ってみよう」
「……はい」
頷いたあと、ふとムツの動きが止まる。
一瞬だけ、視線が戌助へ向いた。
町娘の姿のまま真剣な顔をされると、どうにも調子が狂う。
すぐに視線を逸らした。
「……何?」
「いえ。行きましょう」
何事もなかったように、先へ視線を戻す。
通路は、闇へ続いていた。
踏み入れた途端、空気が変わる。
ひやりと、湿っている。
足音が、やけに響いた。
やがて、道はゆるやかに下りはじめる。
奥へ。
さらに、奥へ。
鼻をかすめるのは――かすかな、潮の匂い。
(……海?)
戌助が、わずかに眉を寄せた、そのとき。
――音がした。
「待て」
ふたり同時に、息を殺す。
遠く、規則的な――木を打つ音。
……いや。それだけではない。
「……これは……」
ムツが、ほとんど声にならない声で呟く。
打ち付ける音に混じって、耳に残る硬い響き。
金属が擦れるような音。
重いものを運ぶ気配。
次の瞬間。
低く、くぐもった人の声が、幾重にも重なった。
押し殺した声。
急ぐ足音。
明らかに――“隠れ動いている人間の気配”だった。
こんな場所で
こんな規模で。
戌助の目が細まる。
(……まさか)
潮の匂いが強くなり、風が奥から吹き抜けた。
その一瞬。
闇の向こうに――巨大な影が、揺れた。
柱のようなものが幾本も立ち上がり、横に渡された材木が、骨のように組まれている。
船の、骨組みに似ていた。
「――……」
言葉が、出なかった。
目の前の光景が、現実として噛み合わない。
ただひとつ、確かなのは――これは、ただの“抜け道”ではない。
戌助は、低く言った。
「――戦の準備だ」




