二幕 スズシロ
戌助と別れてから、どれほど経ったか。
稲吉は、ひとり町の往来を歩いていた。
人の流れに紛れながら、視線だけを巡らせる。
「今夜も湯屋、行くか」
「いいなぁ、あそこは格別だ」
すれ違った武士たちの会話に、ふと足が止まる。
(湯屋か……密談にはうってつけだな)
軽く息を吐き、進路を変えた。
城下町の南。
林に包まれた一角に、その湯屋はあった。
立ち込める湯気が、景色を歪ませている。
極楽のようでいて、どこか濁っていた。
稲吉は額の手ぬぐいを引き下げ、顔を隠すようにして暖簾をくぐった。
番台に立つ女が、声をかける。
「いらっしゃい」
煙管の煙が、ゆるく流れる。
女は着物を肩まで崩したまま、静かに視線を上げた。
稲吉を一瞥するなり、すぐに言葉を投げた。
「失礼ですが、お引き取りを」
「……は?」
「ここは、どなたでも入れる場所ではありません」
淡々としているが、揺らぎがない。
稲吉は、一歩距離を詰めた。
「客を選ぶのか?」
女の目が、細くなる。
「何やってんだい!」
奥から、怒鳴り声。
大柄な女将が現れ、はたきを振り上げた。
「こんなやつ通すんじゃないよ!」
ぱしん、と肩に一撃。
「ちょ、待て――」
「帰んな帰んな!」
もう一発。容赦がない。
「ババアてめっ――」
しまった、と思ったときには遅かった。
うっかり、国の訛りが出た。
女将は、深々とため息をつく。
「あんた春日かい。田舎もんが、分を弁えな」
吐き捨てるような声。
稲吉は、押し出されるように外へ出た。
「……春日、ねぇ」
女将は、去っていく背をしばらく眺めていた。
稲吉は、そのまま裏手へ回る。
(正面がだめなら――)
塀に手をかけた、そのとき。
「お兄さん、素敵」
背後から、甘い声。
振り返ると、女がひとり、壁にもたれていた。
「中に入りたいんでしょ?」
近づいた瞬間、強い香がまとわりつき、頭がわずかに揺れた。
女が指を立てた。
「案内してあげるよ。口止め料、金貨十枚で」
「……ふざけてんのか」
「命より安いでしょ?」
笑う。
その距離が、息がかかるほどに近い。
「……」
稲吉は反射的に一歩引いた。
「遠慮する」
「あら、良い顔」
くすりと笑う。
「そういう人は、ここには似合わない」
一拍。
「――喰われるよ」
底の見えない顔だった。
稲吉は振り返らず、その場を離れた。
女の笑い声が、追ってくるようだった。
大通りへ戻り、人のざわめきの中に身を沈める。
視線の先――笹が揺れていた。
色とりどりの短冊が、風を受けて鳴っている。
やけに、目についた。
(……妙な町だ)
人の声が、遠い。
周りは賑わっているのに、なぜか。
(……ひとりで歩いてるみたいだ)
そのときだった。
「お主、困っておるようじゃな」
不意に、声。
振り返ると、そこに立っていたのは――狸だった。
いや、狸の姿をした何か。
人のように装った小柄な体。
だが、その目だけが、どこか人のそれと噛み合わない。
「……なんだ、お前?」
「なんだとは失礼な」
「だってその着ぐるみ……」
男はむっとして、着物の襟を開いた。
「ほれ」
茶色い毛が、びっしりと覗く。
呼吸に合わせて、わずかに揺れていた。
「作りじゃないのか……!?」
「うむ、分かればよい」
ぱたん、と襟を閉じる。
そして、くるりと背を向けた。
「助けてやろう。ついてこい」
「理由は?」
「欲しいものがある顔をしておる」
稲吉の足が、止まる。
間合いがおかしい。
気配も、人のそれと微妙にずれている。
(……変だ)
懐の中、指先へ意識を落とす。
暗器に触れる、ほんのわずかな動き。
「怖いのう。そういう物騒なのは、しまっておけ」
振り返りもせず、男が言った。
稲吉は、目を見開く。
(読まれてる……)
「さて、来るのか、来んのか」
沈黙。
ひやりと汗が首筋に滲んだ。
やがて、稲吉は歩き出す。
辿り着いたのは、武家屋敷が並ぶ一角だった。
その中で、ひときわ立派で――ひどく荒れた屋敷。
「ここじゃ」
男が戸を開ける。
「帰ったぞ」
声に応じて、奥から人影が現れた。
般若面の男が三人。
そして――
「よぉ」
見慣れた顔。
「味坂……!? なんでお前ここに!?」
「会って早々その顔か。冷てぇなぁ」
煙管をくゆらせながら、笑う。
「それが家主への態度か?」
「……家主?」
横から、面のひとりが口を挟んだ。
「この屋敷は、味坂の兄貴が岩倉に仕えていた頃のものなんだぜ」
すごいだろ、と言わんばかりに胸を張っている。
味坂は、紫煙をふっと吐きながら言った。
「今は、まあ反乱の拠点だ」
稲吉の眉が寄る。
「詳しい話は奥でじゃ」
男は中へ促した。
座敷には、障子越しの光が淡く差し込んでいる。
男は腕を組み、奥に座していた。
「このお方は、元・岩倉の軍師、スズシロ様だ」
味坂が静かに言う。
「……さて」
スズシロが口を開いた。
わずかに目を伏せ――
「わしは、これから岩倉を転覆させるつもりじゃ」
その言葉に、空気が変わる。
稲吉の視線が、鋭くなった。
「……転覆、だと」
スズシロは答えず、ただ目を細める。
「――七年前、伊織姫をこの地に招き、和睦を取り持ったのは、わしじゃ」
視線が、遠くへ向く。
記憶の中。
小さな背中が、ばたばたと音を立てて廊下を駆けていた。
「姫様、走っては――」
後ろから、八坂が息を切らして追ってくる。
伊織は包みを抱えたまま、庭先で足を止めた。
隅に、使用人の子が座っている。
しゃがみ込み、紫陽花模様の包みを開く。
その饅頭は、ようやく手に入れたものだった。
戸惑うその手を引き、握らせる。
「食べてみて! 甘いのよ」
子どもは口いっぱいにほおばり、顔をゆるませる。
伊織も、つられて笑った。
八坂が傍へ来て、足を止める。
開かれた包みを見て、肩をすくめた。
「……やれやれ」
小さく息をつく。
伊織が振り返り、残りを差し出した。
「八坂様も」
「これは、姫様のものです」
「一緒のほうが、おいしいでしょう?」
八坂は、一瞬だけ言葉を止め――それを受け取る。
「……そうですな」
静かな庭先に、甘い香りと笑みが広がった。
「……あやつは、優しい男じゃった」
スズシロの声が、現在へ引き戻す。
「じゃがな。権力は、人を変える」
「――筆頭家老 八坂玄随。
今は、もはや別人じゃ」
低い声だった。
稲吉は何も言わない。
スズシロの目が、まっすぐ向けられた。
「わしは、姫を守りたい。その責務がある。
――そのために、あやつを止めねばならん」
「……だから反乱か」
「そういうことじゃ。
春日の忍と手を組めば、より確実になる」
その目が、稲吉をじっと見据える。
「稲吉。力を貸してくれんか」
「……なんで、俺なんだ」
スズシロは、少しだけ笑った。
「さての。昔から、見知っておる気がしてな」
それ以上は言わない。
だが――嘘ではないと分かる声音だった。
稲吉は目を閉じる。
考える時間は、いらなかった。
「……わかった」
スズシロは、満足げに頷く。
「湯屋の件は、あやつに任せる」
味坂を顎で示した。
「わしは……時間があまりないでな」
「時間?」
問いには答えず、立ち上がる。
その背は、やけに急いでいるように見えた。
スズシロの足音が遠ざかる。
部屋には味坂と稲吉だけが残された。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
やがて、味坂は火鉢の炭へ煙管を寄せた。
ゆっくりと吸い、細く吐く。
それから、ようやく口を開いた。
「でな、俺もあの湯屋は気になってた」
「……ほう」
「新入りが入ったらしくてな」
また一服。わざとらしいほど、ゆっくりと。
「とんでもなく別嬪らしい」
稲吉は目を細め、潰れた虫でも見るような顔をした。
「なんだその顔」
「別をあたる」
「待てって」
着流しの袖で、ひょいと腕を引かれる。
「お前も隅に置けねぇなぁ」
「はぁ?」
「おコウ一筋かと思ってたが」
煙管の先で、軽く指す。
「若いねぇ」
味坂は、くつくつと喉を鳴らした。
「女が目的じゃねぇよ!!」
「知ってる」
即答。
「……は?」
「からかってるだけ」
あっさりと言い、悪びれもしない。
稲吉の眉が、ぴくりと動く。
それを見て、さらに笑う。
「おお怖っ」
そう言いながら、押し入れの中の包みを取り出した。
中には、上等な生地の紋入り装束と笠。
「ほれ」
ぽん、と放る。
「着てけ。これなら入れる」
稲吉が受け取る。
「……用意がいいな」
「元々、俺が行くつもりだったからな。
だが――面白そうだから譲る」
煙管を指先で回しながら、ゆったりと腰を下ろした。
稲吉は横目で軽く睨み、無言で着替えを広げる。
再び、湯屋。
今度は、誰にも止められない。
湯気が、ゆらりと立ちこめている。
通された座敷で、稲吉は腰を下ろした。
「失礼します」
静かな声。
ひとりの若い女が、そっと膝をつく。
視線は伏せられたまま。
湯呑を置く手が、わずかに揺れる。
(……慣れてねぇな)
稲吉は、ちらりと周囲を見る。
他の女は客の肩に触れ、身を寄せ、笑っている。
だが、この女だけ――距離が遠い。
「……お前」
女が、びくりと肩を揺らした。
「はい……」
顔を上げない。
「無理すんなよ。向いてないだろ、こういうの」
ぶっきらぼうに言う。
一瞬、沈黙。
「……余計なお世話です」
(やっぱりな)
稲吉は軽く息を吐く。
この女は、“ここの人間”じゃない。
情報も、深くは持っていないだろう。
少しだけ、声色を変えた。
「悪いな」
肩をすくめ、軽く笑う。
「もう少し慣れてるのがいい。愛想のいいの、呼んでくれ」
「はぁ……?」
女の顔が上がった。
視線がぶつかる。
次の瞬間――
ぐい、と鼻をつままれた。
「なに言ってんのよ、あんた!!」
「っ!? 離せ……!」
ぐいぐいと引っ張られる。
「自分がどんだけいい男だと思ってんの?」
「選べる立場じゃないのよ!」
「……っ、いてぇって」
ぱっと手が離れ――
ぺしん、と頭を叩かれた。
「遊んでんじゃないわよ!」
その一撃で、確信する。
「……コウ?」
コウは、一瞬だけ目を逸らし――
「遅いよ、気づくの」
小声で吐き捨てた。
「分かるか普通!!」
「分かりなさいよ!!」
ぐい、と襟を引かれる。
「しかも何? “慣れてるのがいい”? はぁ?」
「それは……仕事だろ!」
「他の女には優しくするくせに」
「してねぇよ」
「してたでしょ!」
その声で、周囲の視線が寄った。
コウは、はっとして表情を戻した。
「……失礼しました」
にこりと笑い、そのまま稲吉の腕を取った。
「こちらへ」
柔らかな声。だが、指に力がこもっている。
裏口へと、引きずるように連れていく。
戸が閉まった途端に、空気が変わった。
「……仕方ねぇだろ。化粧濃くて分かんなかったんだから」
稲吉は、叱られた子のように口を尖らせ、目を逸らす。
「それ、煽ってる?」
「てか、こんなとこ潜入すんなよ……!」
「どの口が言ってんのよ!」
コウは腕を組み、睨みつける。
「……で? 何してたのよ、ここで」
稲吉は短く息を吐いた。
「“鬼姫”の噂の出どころ、掴めたぞ」
コウの顔が変わった。
「……ほんとに?」
「お前は」
コウは目を伏せ、顔にかかった髪を払った。
「私も……少し。
あんたの母さん――お七さんのこと……」
稲吉の目が、わずかに見開かれた。
その瞬間――
「おコウ!そこで何してる!」
女将の声。二階の戸から鋭い視線が落ちた。
「やば、逃げるの手伝ってよ」
コウは肩をすくめ、小さく笑った。
「――来い」
同時に駆け出す。
夜の闇へ、二人の影が溶けていった。




