三幕 止まらないもの
――戦の準備だ。
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
闇の中、木を打つ音が規則的に響く。
低い声。運ばれる鉄の気配。
その中で、戌助とムツは、息を殺したまま身を伏せていた。
やがて、ざわり、と空気が揺れる。
人の気配が、ひとつの方向へ寄った。
足音は静かだった。
だが、その場の空気が半歩退く。
「あれは……八坂様?」
ムツが、息だけで言った。
戌助は答えず、ただ目を細める。
八坂は、ゆっくりと歩み出た。
周囲を見渡すその目に、迷いはない。
「諸君」
低く、よく通る声。
場のざわめきが、ぴたりと止まった。
「この岩倉が、なぜ歪んだか。分かっておろう」
「――鬼だ」
「異物を受け入れたその時から、民は怯え、声を失った」
空気が、わずかに揺れた。
「いつからだ。この国で、顔色を窺いながら生きるようになったのは」
一歩、踏み出す。
視線が、ひとりひとりを射抜いていく。
群衆の男が、息を呑んだ。
「だが――もう怯えずともよい」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
「本来、この地は誰のものだ」
張り詰めた沈黙。
「――我らのものだ」
震える声が、ひとつ。
「そうだ!岩倉のものだ!」
声が増え、ざわめきが熱を帯びはじめた。
八坂は、静かに頷く。
「ならば、取り戻すべきではないか」
「岩倉を――岩倉の民の手に」
その声は決して強くはない。だが、確信に満ちていた。
「鬼姫から取り戻せ!」
誰かが叫ぶ。
その声に重なるように、
「取り戻せ!!」
「取り戻せ!!」
声は、次々と膨らんでいく。
戌助の背を、冷たい汗が伝う。
(……扇動)
だが、ただの扇動ではない。
“信じさせている”。それが、厄介だった。
八坂が槍を取り、その切っ先を、地へと――打ちつけた。
鈍い音。
「機は熟した」
「今宵――決行だ」
一瞬、静まる。
次の瞬間。
おおお――と、低い声が重なった。
戦の前のような、押し殺した雄叫び。
足が鳴り、地がわずかに震えた。
ムツの喉が、ごくりと鳴る。
「……やばい」
ほとんど、声になっていない。
戌助は、すでに動いていた。
「行こう」
来た道を、急ぎ駆け戻る。
少し離れた場所で、同じ光景を見ていた者がいた。
息を呑み、後ずさる。
「……うそ……だろ」
端間だった。
顔が、青い。
「春居……!」
踵を返し、走り出す。
背後で、声が膨れ上がる。
止まらない。
もう、止まらない。




