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三幕 すべてのはじまり

 障子の向こうで、風が竹を揺らしていた。


 通された部屋は静かだった。

古びた畳に、低い卓。

開け放たれた縁側の向こうには、山の緑が深く重なっている。


 部屋の中央には、小さな炉が切られていた。

炭の赤が、かすかに揺れている。


 お方様はその前へ座ると、柄杓で湯をすくった。


 しゅう、と湯気が立つ。

茶の香りが、ゆっくりと部屋へ広がった。


「……」

 コウが思わず背筋を伸ばす。

ムツも自然と居住まいを正した。

戌助(いぬすけ)は黙って座り、稲吉(いなよし)だけが落ち着かなさそうに胡坐を崩す。


「ちょっと」

 すぐ隣で、コウが肘で小突いた。

「足」

「……ん?」

「違うでしょ」

「知らねぇよ、こんなの」


 ぼそぼそと言い合う二人を見て、お方様がくすりと笑った。

「構いませんよ」


 一人ずつ茶碗が置かれていく。

皆が見よう見まねで茶を口にする中、稲吉だけが飲み方を間違え、またコウに小声で怒られていた。


 その様子を眺めていたお方様が、口元を緩めた。

「さて……どこから、お話ししましょうか」


 かこん、と。

庭の鹿威しが鳴った。


 お方様は、ゆっくりと稲吉へ視線を向ける。

「八坂(やさか)様が――まだ、あなたくらいの年頃だったころのお話です」


 稲吉が、眉をひそめる。


「私と八坂様は、同郷の出でした。

とても貧しい村で育ったのです」


「八坂玄随《やさか げんずい》という名になる前のあの人は、どこにでもいる若者でした。

喧嘩が強くて、向こう見ずで……でも、不器用なくらい真っ直ぐな人でした」


 懐かしむように、お方様は目を細めた。


「いずれ夫婦になろうと、

約束をしておりました。」


 稲吉が、黙ったまま茶碗を見下ろす。


「しかし、二十になった年。

私は、守山家当主――大殿様の側室として、岩倉へ召し上げられました」


 部屋の空気が、わずかに張った。


「……え」

 小さく漏れたコウの声に、お方様は構わず続ける。


「八坂様は、私を追って岩倉水軍へ入りました。

身分を得れば、せめて近くにいられると……そう思われたのでしょう」


「ですが、水軍へ入っても、私と会うことは許されませんでした」


 静かな語り口だった。

だからこそ、胸へ沈む。


「翌年、尚之進(なおのしん)…いえ、尚之(なおゆき)が生まれました」


 戌助の指先が、わずかに強張る。


「ですが城では、私の出自を理由に陰口が絶えませんでした。

やがて――八坂様との過去まで、面白おかしく囁かれるようになったのです」


 お方様は、しばらく茶の湯気を見つめていた。


「大殿様は、お怒りになりました」


「尚之は、世継ぎ候補から外され――

命を奪うよう、命じられました」


 部屋から音が消えた。


「私は、密かに八坂様へ会いに行きました。

まだ三つだった尚之を、お預けしたのです」


 庭木がざわりと揺れた。


「その時――八坂様は、おっしゃいました」

 茶碗の縁へ添えられていた指先が、ふと止まる。


「“共に逃げよう”と」


 しばし黙したあと、お方様はゆっくりと首を振る。

「ですが、私は、その時すでに次の子を身ごもっていました」


「若君――彦之進です」


 風鈴が、ちり、と鳴る。


「次こそは、この子を世継ぎに。

将軍の母になれば、もう誰にも蔑まれずに済むと……そう、思ってしまったのです」


 自嘲のように、お方様は薄く笑った。

「ですから、私は申し上げました」


「――私は、必ず幸せを掴むと」


 戌助の目が揺れる。


「そして、二度と会わぬと約束しました」


 長い沈黙が落ちる。


「その頃でした。

記憶を失った、お七様が八坂様に拾われたのは」


 稲吉が、顔を上げる。


「八坂様は、お七様が仇であることを知らなかった。

それから……お二人は恋に落ちました」


 縁側の外で、葉擦れが鳴る。


「慎ましい暮らしではありましたが、

八坂様と、お七様と、尚之。

三人で、家族のように暮らしていたのです」


 お方様は微笑んだ。


「……」

 稲吉は、黙ったまま動かない。

理由は分からない。

だが胸の奥が、妙にざわついていた。


「その数年が、八坂様の人生で唯一穏やかな時代だったのでしょう」

 慈しむような声だった。


「それからほどなくして、私にも、彦之進が生まれました。

城での暮らしにも慣れ……ようやく、平穏な日々が訪れたのです」

お方様は、遠い景色を見るように目を細めた。


「自分の傍でなくとも、八坂様と尚之が、どこかで幸せに暮らしているなら、それでよかった」


 そこで初めて。

お方様の声が、かすかに震えた。

「……そう、思っていたのに」


「尚之が、小郡へ仇討ちに向かい――亡くなったと、知らせが入りました」


 コウが、はっと顔を上げる。

ムツも眉を寄せた。


 だが戌助だけは、動かない。

あの日を、知っている。

雪の中で、尚之が倒れた姿を。


 お方様の茶碗を持つ指先が、白くなっていた。

「私は、自害しようとしました。ですが、家臣たちに止められました」


「その夜です。殿が、八坂様へお言葉をかけたのは」


 障子の外で、風鈴が鳴る。

乾いた、小さな音。


「その頃には、八坂様は伊織様付きの家臣として、城への出入りを許されていました」

お方様は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「殿は、笑っておられたそうです」


 低く嘲るような声音が、まるでそこに蘇る。


『――尚之進が、死んだそうだな』


『今の名は尚之だったか』



『お藤も自害を図るとは、愚かにもほどがある。

親子で肩腹痛いわ』


 稲吉の眉間に、深く皺が寄る。


「そして――」


『あの女は、お前に下そう。

傷を舐めあい暮らすのも、よかろう』


 炭が小さく爆ぜる

誰も、言葉を挟めなかった。


 やがて、お方様は静かに言った。


「八坂様は――殿を殺めました」


 その瞬間。

部屋の空気が、すっと冷えた気がした。


 コウが息を漏らし、ムツも黙ったまま目を閉じた。


「守山家への復讐は、そこから始まったのです」

 お方様は、茶碗へ視線を落とした。


 戌助は、拳を握っていた。


 八坂は、最初から鬼だったわけではない。

奪われ、耐え、それでもなお、誰かを守ろうとしていた。


 だが最後には、全部が壊れた。


 お方様は、戌助に視線をやった。

「その後――

八坂様は、尚之を死なせた原因が伊織様にあると知りました」


 戌助の肩が強張る。


「彦之進を病死に見せかけて殺し、伊織様を、“鬼姫”へ変えたのです」


 コウが、唇を結んだ。


 誰も責められない。

誰が悪いのかも、もう分からない。


 ただ、あまりにも哀しかった。


 お方様は、小さく息をついた。

茶の湯が、ふつりと鳴る。


「……ですが、今回の戦で何かが歪んだのかもしれません」


 戌助が顔を上げる。


 お方様は、確かめるように言った。

「鬼若子の力――あなた方は、そう呼んでいるのですね」


「その影響なのでしょう」


「子供たちは――生きています」


 コウが目を見開く。

ムツも、黙ったまま息を止めていた。


 お方様は、微笑んだ。



「尚之も」



 その名が落ちた瞬間。

戌助の心臓が、大きく脈打った。


「正式な将軍家の嫡男。本来であれば、世継ぎとなる者です。

ですが、あの子は将軍の座に興味がなく……各地をふらふらと旅して、見聞を広めているそうです」


 お方様は、どこか困ったように笑う。

ほんの少し、母親の顔だった。


「困った子です」

そう言いながら、その目だけが安堵していた。


 生きている。

それだけで、もう十分なのだと。


 戌助の喉が、小さく動く。


 あの日、確かに失ったはずの命。

それが――。


「……あの子は今、春日に居ます」

 あまりにも自然に、お方様はそう言った。


 その瞬間、戌助の呼吸が止まる。

耳鳴りがした。

視界が、揺れる。


「……え」

 ようやく漏れた声は、掠れていた。


 尚が、生きている。

胸の奥で、張り詰めていた何かが崩れ落ちる。


 お方様は、そんな戌助を優しく見つめていた。

「……きっと八坂様も、安心しておられるでしょう」


 戌助は答えなかった。

答えられなかった。


 もし、あの男が最後に見たものが、絶望だけではなかったのなら。


 それだけで。

少しだけ、救われる気がした。


 やがて、一行は寺を後にした。


 外へ出ると、山の空気はもう夕方の色へ変わり始めていた。


 川の流れる音。

家に帰る子供の声。

遠くで、ひぐらしが鳴いている。


 田園の畦道を歩きながら、少し先でコウと稲吉が何か言い合っている。

「ちゃんと聞いてたのか今の」

「聞いてるわよ」

「じゃぁ、言ってみろ」

「……話長い」


 ムツは、その後ろでため息をつきながらも、どこか安堵したような顔をしていた。


 その中で、戌助はふと無意識に懐へ触れた。


 そこで初めて気づく。


 ――櫛がない。


 尚之から受け取った櫛。


 ずっと持っていたものが、いつの間にか消えている。


 一瞬だけ。

胸の奥に、小さな喪失感が走った。


 けれど不思議と、もう前ほど怖くはなかった。


「若ー」


 少し先から、ムツの呼ぶ声がした。


 戌助は、顔を上げて歩き出す。


 風が吹き、遠くから人々の笑い声が流れてきた。


 その向こうへ、春日へ続く道が緩やかに伸びていた。

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