二幕 夢の跡
川沿いの道には、夏草の匂いが満ちていた。
岩倉を離れて半日。
潮風はとうに薄れ、湿った土と青葉の香りが風に混じっている。
水路を流れる水の音。
田を渡る風。
遠くで鳴く蛙。
戦など、最初から存在しなかったような景色だった。
細い川沿いをさらに進むと、柳の奥に寺が見えた。
古びた山門の向こうに、白い紫陽花と苔むした石畳が続いている。
人の気配は少ない。
だが、不思議と寂しさはなかった。
「ここか」
稲吉が小さく呟く。
戌助は頷き、門をくぐった。
庭の奥、縁側に一人の尼が座っていた。
淡い藤色の衣に、穏やかな眼差し。
お方様だった。
戌助たちが近づくと、お方様はゆっくりと顔を上げる。
その視線が、戌助へ止まった。
「……伊織様より、お預かりしました」
戌助は懐から小さな包みを取り出した。
紫陽花の意匠を染めた包み紙。
薄い紙の奥に、わずかな甘い香りが残っている。
「八坂様がお好きだったものだと」
お方様は黙って受け取った。
その指先が、紫陽花模様をなぞる。
戌助は少し迷い――小さく続けた。
「……でも、本当は」
「……八坂様がお好きだったというより、伊織様が喜ぶから、買っておられた気がします」
お方様の指が、ぴたりと止まった。
静寂。
風だけが、庭木を揺らしている。
やがて、お方様が静かに口を開く。
「貴方が、小郡忍衆若頭の、戌助様」
「尚之の弔いも……ありがとうございました」
戌助は、頷いた。
「敵であったにもかかわらず、あれほど手厚く弔っていただいて。
私の心も……救われました」
最後の一言だけ、わずかに声が揺れる。
尚之の死は、戌助の中に確かに残っていた。
だから、その礼は自然に受け取れた。
だが。
「……尚之?」
隣でコウが小さく首を傾げた。
「誰の話だ」
稲吉も眉を寄せる。
ムツも黙ったまま、お方様と戌助を見比べていた。
三人には、話の意味が分かっていない。
その反応を見て――
お方様は、すべてを悟ったように、戌助へ視線を向けた。
この子だけが。
失われたはずの記憶を、今も抱えたままでいるのだと。
「あなたも……覚えているのですね。
鬼若子に、縁を書き換えられる前のことを」
戌助の喉が、小さく動く。
縁側の向こうで、風鈴がひとつ鳴った。
ちりん――。
湿った夏の風が、庭を抜けていく。
お方様は立ち上がった。
白い衣の裾が、畳をかすかに擦る。
「お入りください」
振り返らぬまま、奥へ歩き出す。
「……あなたには、
知っていただかなければなりません」
その声だけが、静かな寺の中へ落ちていった。




