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一幕 残響

 空が白み始めていた。


 夜明けにも、朝焼けにもなりきらない。

夜と朝の境目だけが、海へ薄く滲んでいた。


 波は、まだ荒れていた。

安宅船(あたけぶね)の甲板には、砕けた木片と焼け焦げた匂いが残っている。


 戦が終わったという事実だけが、どこか現実から浮いていた。


 戌助(いぬすけ)は、ひとつ息を吐いた。


 戻らなければならない。


 船の奥――評定の間へ続く扉がある。


 その向こうにあるものが、怖かった。


 稲吉(いなよし)が倒れた瞬間の光景。


 血の匂いと、青ざめた皆の顔。

あの場で起きたすべてが、まだ向こうに残っている気がした。


 戌助は、ゆっくりと息を吸う。


 一度だけ視線を落とし、呼吸を整える。

 

 もう一呼吸。


 そして、重い扉を押し開ける。




 そこには――皆がいた。


 最初に見えたのは、ムツだった。


「若…」

 稲吉を背に負い、ゆっくりと歩いてくる。


 背負われたその身体は、あまりにも動かなかった。


 首が落ちたまま、揺れない。

腕もだらりと垂れている。

呼吸の気配すら、見えない。


 うっすらとでも、期待していた自分を悔やんだ。


 戌助は、足を止めた。


「……稲吉」


 返事はない。


 涙にはまだならない。

それでも胸の奥が冷える。


 その時、稲吉の指が、ほんのわずかに動いた。


「稲吉!」

 思わず声が跳ねる。


 戌助が駆けよると、ムツが肩を下げた。


「うるせ…響く」

 ゆっくりと。稲吉が、目を開ける。


「もー…瓦礫に埋まってこのざまよ」

 コウが呆れながら歩いてくる。

そして、戌助に飛びつくように抱きついた。


「おかえり」


 何度も聞いた言葉、なのに、胸の中にじわりと熱が広がった。


 端間(はたま)は壁にもたれたまま満身創痍で座っている。

ぽかん、と口を開けたまま、まだ状況を飲み込めていない顔だった。


「ご苦労さん」

 味坂(あじさか)は煙管に火を入れながら、息を吐いた。


 福童(ふくどう)は汗をぬぐい、前髪を片耳にかけた。

「……終わりましたか」


 その言葉に、空気が静かに落ちる。


 戌助は――

ようやく、胸をなでおろした。


 張り詰めていたものが切れるように、膝をついた。


「若!?」

 ムツが慌てて稲吉を放り出し、駆け寄る。

床に転がる稲吉を見て、味坂が笑う。


 誰かが生きている。

誰かが戻ってきた。

それだけのことが、こんなにも重い。


 波の音だけが、しばらく船に残っていた。




 八坂が兵を出した経緯は、誰もはっきりとは語らなかった。


 いや――語れなかったのかもしれない。


 戌助には、そう思えた。


 あの夜、鬼若子(おにわこ)の力が解き放たれた瞬間から、

この場所の“時間”はどこか少しだけ歪んでいた。


 確かに起きたはずなのに。

思い返そうとすると、夢のように遠かった。


 だがそれでも。


 縁だけは、途切れていなかった。




 やがて、別れの時が来た。


 戌助たちは岩倉城の門の前に立っていた。


 そこには伊織の姿があった。

隣には――亡くなったはずの若君が、立っていた。


 まるで最初からそこにいたかのように、誰も違和感を抱いていない。


「戌助、もう行くのですね。」

 伊織の声は、ただ、日常の延長のようだった。


「……うん」

 戌助は短く答える。


「皆さま、ありがとうございました」

 若君の声が続く。


「八坂のことは残念だったが……これで、本当の戦は終わった。

いや――終わらせるつもりだ」


「これからは、二人でこの岩倉を支え、心の戦火も消していけるように努めます」


 伊織は、隣の若君を見上げることなく頷いた。

まるで最初から、そこに在るもののように。


 伊織の中には、おそらく鬼姫だった頃の記憶はもうない。


 それでも――

何かが、確かに残っている気がした。


 伊織は息をつき、ふと視線を落とした。

そして、小さな包みを渡した。


「これを」


 戌助が受け取る。

それは、見覚えのある紫陽花の意匠を染めた包みだった。

薄い紙の内に、わずかな甘い気配が滲んでいる。


 「……これは?」

 

 戌助が問うと、伊織はすぐには答えなかった。

指先で包みをなぞり、少しだけ視線を落とす。


「八坂殿がお好きだったものです」


「菩提寺にいる、お方様に渡してほしいの」


 戌助は首をかしげる。

「お方様…」


 伊織は続ける。

「お方(かた)様は、三年前、大殿様が崩御なされてから……出家して尼となられました」


 その名に、戌助の表情がかすかに動く。


 大殿――この国を治めていた守山(もりやま)家の主。

その死を境に、岩倉は大きく揺らいだ。


 戌助の脳裏に、一瞬だけ過去がよぎる。


 続けて起きた、若君・彦之進の死。

伊織がひとりで立つしかなかった日々。

そして、鬼姫と呼ばれるようになっていったこと。

すべてが、同じ流れの中にあった。


「お方様は、八坂殿の供養をされました。」

 伊織の声は穏やかだった。

どこか、すでに過去の出来事として語るような響きだった。


「八坂殿は……あのような形で最期を迎えられましたが。

お方様は――あの方を、“筆頭家老として”弔われました」


 戌助は、その意味をすぐには飲み込めなかった。


 戦を起こした者を。

岩倉へ刃を向けた者を。

それでも、“筆頭家老”として葬ったのだ。


 伊織はわずかに目を伏せる。

「だから、公の供養は、もう終わっているのだけど……」


 風が吹き、伊織の髪が揺れた。

その横顔は、何かを抱えたまま手放せない子どものようだった。


「これは……私からの、ほんの気持ちです」


 そう言って、伊織は微笑む。


「お願いね」




 先に戻った味坂(あじさか)からは、短い手紙がきた。


『土産を買い忘れた。

 帰りの海は静かだった』


 ムツが困った顔で笑った。

「学び屋の子たち全員分いるかな」

「そんなに持てねぇよ」

 稲吉が吐き捨てる。




 城下町の外れ、石畳の道に夏の名残が残っていた。

空気はまだ少しだけ重く、戦の気配が完全には抜けきっていない。


 その道の先に、二つの人影があった。


「おーい」

 軽い声が、静けさを割った。


 福童(ふくどう)と端間(はたま)だった。


「また、来いよな!」

 端間は、手を振りながら笑っている。いつもと変わらない、どこか軽い声。


「遊びに来たんじゃねーんだぞ」

 稲吉がぼそりと返すと、端間は一瞬だけ間を置いて、それから大口を開けて笑った。

「わかってるって!」


 その横で、ムツが端間の前髪を軽く弾いた。

「悪戯もほどほどにね」

「あいて!」

 端間は顔をしかめるが、すぐに笑いに変わる。


 その様子を見ながら、戌助はふと違和感に気づいた。


 端間の視線が、自分へと向く。


 いつもの軽さの奥に、ほんの一瞬だけ、迷いのようなものがあった。


「なぁ」

 端間が口を開く。



「伊織様は……もう、鬼にならないんだよな」



 その言葉に、空気がわずかに止まる。


 戌助の呼吸が、ほんの一拍遅れた。


「――ああ。もう二度と」


 その言葉を聞いた瞬間、端間の肩から力が抜けた。

安心したように、眉を下げて笑う。

「そっか」


 その笑みは、少しだけ大人びていて、どこか救われたようでもあった。


 福童が一歩前に出る。

「鬼とは?」

「さぁ……?」

 コウが首を傾げる。

 稲吉もムツも、顔を見合わせ、同じように首をかしげた。


 そこに確かな答えは、誰も持っていなかった。


 福童は小さく頷く。

「では、達者で」

 それだけ言って、背を向ける。


 端間も一度だけ手を振った。

「またな」


 その背中は、少しだけ軽かった。

二人の姿が道の向こうへと消えていく。


 風が抜ける。


 頭上では、七夕飾りが風に揺れていた。


 小さな短冊が、願いをのせて静かに鳴っている。

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