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六幕 許し

 安宅船(あたけぶね)の最上部。


 海を見下ろす天守の欄干に、八坂はひとり立っていた。


 遠くには、燃える海が見えた。


 崩れた関船。

揺れる篝火。

断末魔のような波音。


 そのすべてが、もう別の世界の出来事のようだった。


「……っ」

 八坂の手が震える。


 刀を握る指が、自分のものではないように脈打っていた。

どく、どく、と。

黒い何かが、血管の奥を這っている。

喉の奥から、獣のような息が漏れた。


「――これが、罰か」


 低く呟いた瞬間。

膝が崩れる。

床へ片膝をつき、八坂は苦しげに顔を歪めた。


 胸の奥には、まだ稲吉を貫いた感触が残っていた。


 あの時。

自分は確かに、止めようとした。


 ほんの一瞬だけ戻った意識の中で。

刀を止めたかった。

だが、身体の奥に巣食う“何か”が、それを許さなかった。


「……ぐ……」

 呼吸が乱れる。


 その時だった。


 不意に、声が蘇る。


 笑い声。

潮風。

酒の匂い。

若かった岩倉水軍の男たち。


 まだ誰も壊れていなかった頃の景色。


 尚之が笑っている。

七が呆れた顔をしている。

姫が、小さな手で裾を掴んでいる。


 ――八坂様!


 遠い。遠い昔。

失ったものより、守りたいもののほうを見ていられた頃。


 八坂はゆっくりと顔を上げた。


 天守の欄干の向こう。

崖の岩陰に、小さな影が立っていた。


 波飛沫と風に晒されながら、それでも目を逸らさない。


 ――伊織だった。


 その手が、胸元へ添えられる。


 ぎゅ、と。

着物の襟を掴んだ。


 その仕草だけで、十分だった。


 責めてもいない。

怯えてもいない。


 ただ、苦しそうに。

心配するように。


 そして、置いて行かれる子どものようだった。


 その瞬間。

まだあどけなかった姫の姿が、八坂の脳裏へ重なる。


『八坂様が、父のようなものです』


 あの日。

照れもなくそう言った、小さな声。


 八坂の喉が震えた。

「……なぜだ」


「なぜ、そこまで……」


 まだ、そんな目を向けるのか。


 八坂は、ゆっくりと目を閉じた。


「……許せ……」


 八坂の声が、掠れた。


 次の瞬間だった。


 どくん。


 巨大な心臓が鳴ったような音。


 八坂の足元から、暗い光が滲み出す。

それは水へ墨を垂らしたように、静かに、底なしに広がっていく。


 戌助(いぬすけ)の喉が強張った。


 まただ。鬼若子(おにわこ)。


 暗い光が、船を侵食していく。

床も、柱も、天井までも。

安宅船そのものが、黒い海へ沈んでいくようだった。


「……っ!」

 ムツが目を見開く。


 やがて光が、八坂の身体をも包み込んでいく。


 肩が震えていた。

今なお苦しみの中にいる。

それでも力を使おうとしている。


「八坂様ァ!!」

 戌助が駆けた。


 折れた脚が悲鳴を上げる。

それでも止まらない。


 音が消え、距離が歪む。

心の奥へ、冷たい手が触れてくる。


(――離れ離れになる)


 また、あの感覚だった。


 忘れたはずの喪失が、胸の奥から這い上がってくる。


 ――だが、その時だった。


 ひらり、と白いものが降った。


 戌助が顔を上げる。


 雪だ。


 真夏の夜、晴れ渡った空には雲一つない。


 だのに。


 ひとひら。

またひとひら。

白は静かに増えていく。


 振り返ると、ムツが印を結んでいた。


 肩で息をしていた。

唇の端から、細い血が流れ落ちる。


 次の瞬間、激しく風が唸った。


 夜の海を覆い尽くすほどの吹雪に、安宅船が大きく軋む。

帆柱が低く唸り、船体が震えた。


 その中で。


 ぽたり。

またひとつ。


 ムツの鼻先から、さらに血が落ちる。


 空を舞う氷片が、一点へ集まっていく。


 長く連なる背骨。


 天を掴むような爪。


 巨大な頭蓋。


 それは戦場そのものを沈黙させた。


 平次郎たちも。

他の船の兵たちも。

誰もが息を呑み、空を見上げていた。


 そして――


 龍。


 月光を呑み込むほど青白い巨躯は、これまでの比ではなかった。


 氷の鬣を逆立て、長い胴が吹雪を従えながら夜空を駆ける。


 まるで古き神代。

天海を統べる龍神そのものだった。


 龍が咆哮する。

空と海が、一緒に震えた。


 暗い光が、押し返される。

だが鬼若子もまた、底なしの闇を広げていく。


 黒い波濤のような光が、龍の身体へ絡みついた。


 龍が牙を剥く。

氷を纏った顎が、暗い光へ喰らいつく。

砕けた氷片が嵐の中へ散り、稲妻のように瞬いた。


 暗い光は、なお広がる。


 終わりを拒み。

別れを拒み。

失うことを拒み。


 人の未練そのものだった。


 龍は、それを押し潰すように天へ昇る。

海を巻き上げ、暴風を従えながら、大瀑布のような水流を叩きつける。


 安宅船が悲鳴を上げた。


 終わらない喪失と、それでも生きようとする願いが、ぶつかり合っているようだった。


 その時、ムツの膝が崩れる。


 戌助はすぐに駆け寄った。

肩を支え、その隣へ膝をつく。


 ムツは荒く息を吐いた。


 それでも、その目は鋭かった。

刃のように研ぎ澄まされながら、どこか悲しいほど優しかった。


 戌助の手が、背へ添えられる。


 その温もりを確かめるように、ムツはわずかに目を細めた。



「……もう、還れ」


 龍が、最後の咆哮を上げる。

暗い光と、真正面から噛み合った。


 戌助は、その狭間を駆けた。

白装束が、闇と水飛沫の中を裂いていく。


「――八坂様ァァッ!!」


 手を伸ばした、その瞬間。


 視界が爆ぜた。




 真っ白だった。


 何も見えない。

音もない。


気づけば、戌助はひとり霧の中に立っていた。


「……ぁ……」


 脚が痛む。

引きずるように歩く。


 どこまでも白い霧の中を、ただ前へ進んでいく。


 その時、隣に誰かの気配が並んだ。


 潮の匂い。

陽に焼けた腕。


 ゆっくりと視線を向ける。


 霧の向こうで、黒髪が揺れた。

少しだけ吊り上がった目が、こちらを見る。


 戌助の呼吸が止まる。


「――……尚……?」


 信じられないものを見るような声だった。


 尚之は、少しだけ笑った。


 懐かしい。

あの頃と変わらない笑い方だった。


「……いつから……」

 掠れた声で問う。


「ずっと、一緒に歩いていたよ」


 穏やかな声だった。

夢のように静かで。

あまりにも自然だった。


 戌助は何も言えなくなる。


 尚之は、歩幅を合わせるように隣を歩いた。

まるで、昔からそうしていたみたいに。


 やがて霧の奥に、薄い光が見え始める。


 出口だった。


 戌助は、息を切らしながら手を伸ばす。


「一緒に――」


 その言葉を口にしかけた時、尚之は足を止め、ほんの少しだけ目を細めた。


 困ったような、寂しそうな。

あまりにも優しく、別れを知っている者の顔だった。


 それだけだった。


 霧が、そこで途切れる。




 戌助は、はっと目を開けた。


 そこは、まだ戦場だった。


 崩れた甲板。

燃える海。

白い蒸気。


 まだ波が荒れている。


「……っ」

 息を呑む。


 自分の袖が、視界へ入った。


 白装束ではない。


 茜に桜文様。

いつもの着物だった。


 戌助の瞳が揺れる。


 指先で袖を掴む。

確かに白だったはずなのに。


 何かが変わっていた。


 だが、その違和感を考えるより先に。

視界の先に、人影が倒れているのが見えた。


「――八坂様!!」

 戌助が駆け寄る。


 そこに倒れていたのは、八坂だった。


 返事はない。

鬼の気も、もう感じない。

ただ、眠るように横たわっている。


 その顔は、どこか穏やかだった。


 まるで長い苦しみから、ようやく解放されたように。


 戌助の喉が震える。

だが、言葉は出なかった。


 周囲へ、岩倉の兵たちが集まってくる。

誰も、すぐには動かなかった。

倒れた八坂を見つめ、武器を握ったまま立ち尽くしている。


 やがて、ひとりの兵が槍を落とした。


 からん――。


 乾いた音が、静まり返った船へ響く。


 それを合図にするように、

次々と武器が床へ落ちていった。


 刀。槍。火縄。


 誰も、もう戦おうとしなかった。


 戦が、終わる。


 残ったのは、波の音だった。


 燃える船の軋み。

崩れた帆柱を渡る風。


 そのすべてが、ひどく遠く聞こえる。


 誰も声を上げない。

誰も勝どきを叫ばない。


 ただ夜の海だけが、静かに安宅船の船腹を叩き続けていた。

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