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五幕 止まるな

 評定の間に、潮の音だけが遠く響いている。


 八坂は、月明かりの落ちる場所へ立っていた。

肩が、かすかに上下している。

苦しんでいるはずなのに、その姿だけは崩れない。


 その姿を見つめながら、戌助(いぬすけ)は一歩踏み出す。


 白装束が揺れた。


 舞の続きをするように。

海へ散った想いを拾い集めるように、戌助は踏み込む。


 白装束が翻り、その軌跡に遅れるように刃が走った。

その軌跡は、この空間に不釣り合いなほど澄んでいた。


 八坂がそれを受け流す。


 ぶつかった刃から、鈍い衝撃だけが広間へ広がった。


 一手。

二手。


 刃が触れるたび、戌助の中へ想いが押し寄せる。


(止めます。今度こそは。なんとしても。)

 伊織の声。


(私の命は、無駄じゃない。あの人を救える。)

 七の想い。


(皆の“心の戦”が終われば――生きたいように生きられる。)

 尚之の声。


 そのすべてが、戌助の刃へ重なっていた。

ゆえにその太刀筋は、殺意ではなかった。


 祈りだった。


「戻れ……!」

 縋るように、戌助の声が落ちる。


 次の瞬間、白が裂けた。


 紙一重。

八坂の刃が、戌助の白装束を斜めに裂いていた。


 ひゅ、とコウが息を呑む。


 速いわけではない。

なのに、避けられた気がしなかった。


 その一瞬を、稲吉(いなよし)は逃さなかった。


 床を滑るように間合いへ入り込み、二刀が閃いた。

八坂の刀は弾かれても。受け流されても。

何度でも顔面へ突きつけられた。


 真っ直ぐだった。


 迷いのないその太刀筋に、稲吉の胸がわずかに軋んだ。


 父を知らない、思い出もない。

なのに、身体のどこかだけが理解していた。


 ――尚之に似ている。


 違う。


 これは――父の剣だ。


 その事実だけが、どうしようもなく胸を抉った。


 だが止まらない。


 稲吉の刃が、ついに八坂の腕を裂いた。

確かな感触。

骨を断つ手応えまであった。


 だが次の瞬間。

その腕はまだ刀を握っていた。

切れたはずの筋肉が、死人のように遅れて動いた。


「――っ」

稲吉の目が揺れる。


 おかしい。

傷が浅いわけではない。

確かに斬ったはずだった。

なのに、“死”だけがそこへ届いていない。


 八坂の周囲で、暗い澱みのようなものが揺れていた。


 輪郭がぶれる。


 まるで、何かが死を先送りしているようだった。


 八坂の刃が落ちる。

稲吉が小太刀で流す。


 その懐へ、戌助が滑り込んだ。


「八坂様!!帰ろう!!」

 刃が交差し、火花が散る。


「待っている人がいる!!」


 返事はない。

だがその一瞬だけ、八坂の動きが止まった。


 帰る場所。

そんな言葉を、忘れかけていた者のように。


そこにあったのは、怒りでも憎しみでもなく、ただ苦しみだった。


 終われない。

終わり方を失ってしまった者の目だった。


 その揺らぎを、稲吉は見逃さなかった。

低く鋭く踏み込み、二刀が暴風の様に闇を裂く。


 ついに八坂の身体が大きく開いた。


「今だ!!」


 稲吉の声に、戌助が飛び込んだ、その時――


 八坂の中の“何か”が騒いだ。


 暗い光が身体を這い、気配が大きく歪む。

まるで、“死”そのものを拒絶しているようだった。


 そのあまりの異様さに、戌助の息が止まった。


 その刹那。

八坂の刀が、戌助の脚へ叩き込まれた。


 鈍く砕けるような音が、評定の間に響く。

骨まで届いた衝撃に、戌助の片膝が崩れ落ちた。


「く……っ!!」

 床へ落ちる。


 白装束がふわりと揺れた。

だがそれは、もう舞ではなかった。

最期を迎えた花が落ちるようだった。


「戌助!」

 コウが叫ぶ。


 その声を背に。

稲吉だけが、静かだった。


 ふっと息を吐く。

その横顔を、月明りが照らしていた。


 稲吉は、ゆっくりと顔を上げた。


 その目には、もう迷いは残っていなかった。


 戌助が死ぬ。

皆が死ぬ。


 ならば、命ごと終わらせる。


 伊織が帰りを待っているとしても。

七が守りたかった男だとしても。

尚之が未来を望んでいたとしても。


 ――自分の父だったとしても。


 それを全部、断ち切ってでも。


 守るべきものだけは、もう決まっていた。


 稲吉は、まっすぐに八坂を見据えた。

誰も、間違ってはいなかった。

それでも。


「悪ぃな……」


 稲吉の姿が、掻き消えた。

床を裂くような踏み込み。

半ば、八坂へ喰らいつくように間合いへ入り込み、二刀が交差した。


 あの異様な“何か”ごと断ち切るなら、急所しかない。


 稲吉の喉が、一瞬だけ詰まった。


 一閃。

血が散る。



 首を、薙いだ。



 確かな感触。

八坂の身体が、ぐらりと揺れる。



 勝った。



 誰もが、そう思った。


 だが、瞬きをした次の瞬間。

八坂の首は、まだ繋がっていた。


 斬れたはずの箇所で、黒い澱みがゆらりと揺れている。

まるで、“何か”が身体を無理やり繋ぎ止めているようだった。


「――っ」

 稲吉の目が見開かれる。


 その刹那。


 ぶつり、と。

嫌に静かな音だった。


 八坂の刀が、稲吉の胸を貫いていた。


 時間が止まる。

誰も、理解できない。


 八坂の表情から、鬼の気配がふっと消えた。


 ほんの一瞬だけ、瞳が人へ戻った。


「――――」

 何かを言おうとした。


 だがそのまま。

刀が、稲吉を持ち上げる。


 誰も動けなかった。


 稲吉は、胸を貫く刃を両手で掴んだ。


 ぎり、と。

掌が裂け、血が溢れる。


 それでも、押し返そうとしていた。

痛みそのものを置き去りにしたような鋭い目で、八坂を睨んでいる。


 まるで、この状況ですらまだ次の一手を探しているようだった。


 ぽたり。


 血が落ちた。


 ぽたり。

さらに、赤が床を打つ。


 やがて、稲吉の脚がひくりと揺れた。


「見るな!!」

 味坂が、コウの肩を無理やり引いた。

 

 その時、戸が乱暴に開いた。


 ムツだった。


 息を切らしながら飛び込んできたムツは、宙へ持ち上げられた稲吉を見て、目を見開く。


「――ッ!!」

 咄嗟に印を結ぶ。

海が爆ぜるような衝撃が船内を叩いた。


 八坂の身体が押し戻される。

稲吉の身体が、鈍い音を立てて床へ落ちた。


 八坂はよろめきながら奥へ消える。

だがその目には、明らかな動揺が浮かんでいた。


「……っ」

 稲吉が、四つ這いになる。


 立ち上がろうとしているのか。

ただ苦しいのか。

もう誰にも分からない。


 血が落ちる。

肩が震える。


「っ、……っは……」


 呼吸のたび、ひゅう、と細い空気が漏れた。

肺が、もう血で満ちているのだと分かる。


 それでも前へ進もうとする指だけが、床を掴んでいた。


 コウは動けない。

声も出ない。

ただ、目だけが開いている。


 その時。

稲吉の身体から、ふっと力が抜けた。


「ぁ……っ」

 力なく血を吐き、そのまま崩れ落ちた。


 沈黙。


 床を這うように、戌助が稲吉へ辿り着く。

「稲……吉……」


 ムツが駆け寄り、膝をついた。


 稲吉の手が、弱く戌助を掴んだ。


「……止ま……るな……」


 掠れた声。

それだけだった。


 力が抜ける。

握られた感触だけが、ゆっくり消えていく。


「…………」

 遅れて評定の間へ飛び込んできた福童(ふくどう)と端間(はたま)が、言葉を失った。


 床へ広がる血。

倒れ伏す稲吉。

その胸を濡らす赤だけが、じわりと月明かりを吸っている。


 その時だった。

奥の通路から、兵が雪崩れ込んでくる。


 槍。

火縄。

無数の足音。

一斉に穂先が向けられた。


 ムツが反射的に前へ出る。

福童と端間も、ほとんど同時に構えた。


 だが。

戌助が、ゆっくりと立ち上がる。


 折れた脚へ、無理やり体重が乗る。

それでも立つ。

白装束の裾から、血が落ちた。


 戌助は振り返る。


 その顔から、感情だけが抜け落ちていた。

ただ、どこか遠くを憂うような目だけが残っている。


 ふと。

戌助の中で、何かが切れた。


 兵が踏み込むと同時に、白が消えた。


 一閃。

兵の喉が裂ける。

返す刃で、もう一人。

さらに踏み込む。

赤い髪が散る。

血飛沫が、白へ咲く。


 今までのような舞う剣ではなかった。


 荒い。

感情を置き去りにしたまま、身体だけが斬っているような剣だった。


 兵たちは思わず後ずさった。

誰も踏み込めない。

白装束が血を散らすたび、槍先だけが怯えるように揺れた。


「……鬼、だ」

 誰かが、震えた声で漏らす。


 戌助は答えない。

次に踏み込んだ瞬間、折れた脚が軋む。


「っ……!」

 わずかに身体がぶれる。

だが止まらない。

痛みを噛み殺したまま、さらに兵を斬り伏せる。


「戌助さん……!」

福童が声を上げた。


 止めなければ。

そう思った。

だが戌助はもう、こちらを見ていなかった。


 評定の間の奥。

八坂が消えた、その先だけを見据えている。


 絶対に辿り着く。


 そう決め切った目だった。


 福童は息を呑む。

そして理解した。


 ――この人は、もう止まらない。


 どれだけ壊れても。

どれだけ血を流しても。

きっと最後まで歩く。


 その横で、コウはまだ動けずにいた。

味坂に支えられたまま、稲吉を見ている。


 近づけない。

名前も呼べない。

呼んでしまえば、本当に終わってしまう気がした。


 肩だけが、小さく震えていた。


 味坂は何も言わない。

ただ、奥歯を噛み締めている。


 福童はぎゅっと目をつむり、それから、端間へ言う。

「……まだ、持ちこたえられますか」


 端間は息を荒げながら、無理やり笑った。

「当たり前……だろ……!!」


 腕が重い。呼吸も苦しい。

それでも、ここで終わるわけにはいかなかった。


 通路の奥から、再び兵の足音が迫ってくる。

福童が焙烙へ火を移した。


 ムツが、静かに戌助の隣へ立つ。

何も言わない。

ただ、その目だけが同じ先を見ていた。


 安宅船の、さらに奥。

鬼が待つ場所。


 戌助は、一度だけ呼吸をした。

白装束が、血を滴らせながら揺れる。


 その時。

背後で、ふいに衣擦れのような音がした。


 誰かが、後ろを歩いた気がした。

だが振り返らない。


 二人は、血の残る床を踏み越えて歩き出した。

その背を、もう誰にも止められなかった。


 稲吉の血の温度だけが、その場に残されていた。

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