四幕 再会
海上の城――。
安宅船へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
潮とも血とも違う、淀んだ古い気配。
この船そのものが、長い呪いを抱え込んでいるようだった。
板を踏む音が、妙に遠い。
篝火は揺れているのに、風だけが死んでいた。
誰も口を開かないまま、戌助たちは甲板へ散る。
その時だった。
甲板の奥で、黒装束の幻術衆が静かに指を動かした。
空で糸を引くような、異様にゆるやかな動き。
直後、轟音とともに、
見えない何かが甲板へ叩きつけられた。
バキバキバキッ――!!
分厚い板が内側から砕け、波打つようにせり上がる。
巨大な何かに押し潰されたように、木そのものが歪んでいた。
「ッ!」
コウが反射的に福童を突き飛ばす。
福童は滑るように受け身を取り、その横を砕けた板片が吹き飛んだ。
稲吉と戌助が同時に跳ぶ。
端間は転がるように甲板を逃げる。
味坂が大太刀を振り抜く。
真正面から迫る板の塊を、力任せに受け流した。
だが、刃が触れた瞬間、全身へ鈍い衝撃が走る。
「ぐ……ッ!」
骨の内側まで叩かれたようだった。
味坂が低く息を吐く。
「……まずいな」
不意に、冷気がぞわりと甲板を這った。
全員が振り返る。
後方で、ムツが静かに立っていた。
人差し指を唇に重ね、深く気を練っている。
その足元から、水が凍り始めていた。
ぱき……。
ぱきぱき、と。
白い霜が木板を侵食していく。
それはただの氷ではない。
龍の鱗のような紋様を描きながら、甲板全体へ広がっていく。
黒髪が、冷気の中でふわりと揺れる。
戌助が目を見開いた。
端間のこめかみを汗が伝う。
畏れか興奮か、自分が何に震えているのか分からなかった。
幻術衆の一人が、静かに言う。
「あれを止めろ」
声が落ち切る前に、幻術が一斉に放たれた。
空気が歪む。
重圧。 衝撃。見えない刃。
幾重もの殺意が、ムツへ集中する。
その刹那、ムツはわずかに目を見開いた。
次の瞬間、背後の海から、ごぽり、と音がした。
まるで深海そのものが呼吸したような音だった。
黒い水が噴き出す。
それは、水ではなかった。
海の底から、“何か”が這い出てきていた。
現れたのは、もはや水の形ではなかった。
巨大な龍。
うねる胴は濁流そのもの。
その輪郭を、黒曜石のような黒い鱗がびっしりと覆っている。
暗い海を裂きながら、龍は咆哮し、
そのまま甲板へ突っ込んだ。
龍の顎が、板を噛み砕きながら迫る。
氷の牙が甲板へ深々と食い込み、濁流が一気に吹き荒れる。
水は兵を悲鳴ごと飲み込むように巻き取り、砕けた氷片と共に海へ叩き落としていく。
龍が身をうねらせるたび、周囲の兵たちは為す術なく押し流されていった。
そこにあったのは、ただ圧倒的な暴力だった。
龍はさらに甲板を薙ぎ払うと、海鳴りのような唸りを残して空へ昇った。
大量の海水を撒き散らしながら、夜空へ駆け上がっていく。
その瞬間、戦場から音が消えた。
誰もが、天を仰ぐ。
篝火と砲煙の向こう。
天の川を背に、龍の巨影が夜空を泳いでいた。
次の瞬間。
龍が落ちてきた。
滝そのものの質量で、安宅船へ叩きつけられる。
衝撃で全員立っていられなかった。
巨大な水柱が噴き上がり、砕けた氷片が暴風のように周囲へ散った。
氷が篝火を反射する。
青白い光が、血と海水に濡れた甲板を照らし――
そのまま龍は、ふっと崩れるように消えた。
あとに残ったのは、凍りついた甲板と、静まり返った兵たちだけだった。
誰も、一瞬動けなかった。
ムツの横顔には、はっきりと疲労が滲んでいた。
浅く息を吐くたび、白い吐息が唇から零れた。
その隙を狙うように、今度は槍兵たちが押し寄せる。
「雪松さん!」
福童が飛び込み、端間も続いた。
槍を弾き、割って入る。
二人が、ムツを囲うように立った。
福童が短く言う。
「ここは引き受けます」
端間が刀を構えたまま叫ぶ。
「任せろ!!」
戌助はムツを見る。
その目には、ほんの一瞬だけ迷いが滲んだ。
置いていくことへの躊躇。 それでも進まなければならないという焦り。
ムツは、そんな視線ごと断ち切るように強く頷いた。
それだけで、もう十分だった。
稲吉がその脇を走り抜けながら「――死ぬなよ」と言葉を残し
それに、味坂、戌助、コウが続く。
四人は、安宅船の闇へと潜り込んだ。
稲吉が先頭で戸を蹴破る。
重い木戸が吹き飛び、暗い船内の口が開いた。
湿った空気が流れ出る。
新しい船のはずなのに、
奥から漂ってきたのは、長く海へ沈んでいた木のような臭いだった。
潮と黴と――朽ちたものの臭い。
「……っ」
コウがわずかに顔をしかめた。
船内は狭かった。
低い梁。濡れた床。揺れる灯火。
その奥へ進むほど、空気が重くなっていく。
ギ……。
ギィ……。
船の軋みだけが、暗い通路へ長く響いていた。
まるで、安宅船そのものが眠れずにいるようだった。
味坂が舌打ちする。
「気味悪ぃ船だな」
返事はない。
暗い横廊下の奥で、何かが動いた。
火縄兵。
だが様子がおかしい。
全員、黙っていた。
感情のない目で、一斉にこちらを見る。
次の瞬間、銃口が火を噴いた。
「伏せろ!」
味坂が叫び、戌助が身を沈める。
狭い通路の中で火線が暴れた。
コウが柱を蹴って跳び、苦無で火縄兵の喉を裂く。
血が壁へ散った。
稲吉はコウと息を合わせるように弾丸の間を縫って踏み込み、そのまま二人まとめて斬り捨てる。
視線も、声もない。
二人の刃だけが、淀みなく噛み合っていた。
それでも船内は、不気味なほど静かだった。
悲鳴が妙に少ない。
まるで皆、“何か”に怯えて声を失っているようだった。
――そして不意に、静寂が落ちた。
増援が来ない。
足音も、火縄の装填音すら聞こえなかった。
「終わり……?」
コウが眉を寄せる。
「……少なすぎるだろ……」
味坂が周囲を警戒した。
戌助が、ゆっくりと歩き出す。
進んだ先、船の中央部には厚い扉が浮かんでいた。
評定の間――。
この巨大な安宅船で、指揮と命令が交わされる場所。
戌助が静かに扉へ手をかける。
鈍い音を立て、扉がゆっくり開いた。
広間は異様なほど静かだった。
畳もない。
調度も、掛け軸も、飾りの類もない。
ただ、広すぎるほどの“空白”だけがそこにあった。
本来であれば、将の間として使われる場所。
今は戦の指揮のためだけに整えられた、無機質な空間だった。
(八坂らしい)
稲吉は胸の奥でそう思った。
勝つためだけにすべてを削った男。その徹底は、今は栄光ではなく、乾いた空虚に見えた。
誰もいない。
そう思ったとき、月明かりの届かない奥で、わずかに空気が揺れた。
「――……」
コウが息を呑む。
暗い部屋の最奥。
そこだけ、細い月光が落ちている。
天井近くの小窓から差す、白い線の中に――
八坂が、いた。
だが、その姿を見た瞬間。
一瞬だけ、この部屋に残っていた“過去”が揺れた。
地図を広げる音。
酒器が鳴る音。
笑い混じりに、次の策を叫ぶ声。
確かにここには、かつて熱があった。
だが今ここにあるのは、報告を待つ沈黙だけだった。
その中心に、八坂が座っている。
それでも――
今もなお、この船の指揮はそこから発せられている。
伝令は届き、命は下る。
戦は、止まっていない。
「八坂様……」
戌助が目を細める。
肌は死人のように白い。
目の奥だけが、暗く濁って燃えていた。
肩で、浅く息をしている。
それでも、その存在だけで空気が歪む。
(伊織様の時と同じ……)
戌助の喉が鳴る。
だがそれ以上に、どこか“人の形をした何か”に近かった。
静かな広間に沈黙が落ちる。
八坂は答えない。
ただ、刀を握り直す音だけが静かに響いた。
ゆっくりと立ち上がる。
その動きに呼応するように、船全体が低く軋んだ。
巨大な獣が、腹の底で息を吐いたような軋みが広間を震わせた。
コウの背筋を、ぞわりと悪寒が走る。
「……おい」
味坂の声が、低くなる。
「コウ。下がれ」
「え……」
「いいから下がれ」
短い声。
だが、有無を言わせない響きだった。
味坂はコウを庇うように半歩前へ出る。
その視線は、八坂から一瞬たりとも逸れない。
「こいつぁ……駄目だ」
汗が、頬を伝った。
戌助が、一歩前へ出る。
白が、静かに揺れた。
八坂の目が、白装束へぴたりと据わる。
その目には、怒りとも憎しみとも違う、昏い執念だけが残っていた。
――まだ終わっていない。
稲吉は、その視線を見ていた。
ゆっくりと左手を腰へ添える。
鞘走る音。
抜かれた小太刀が、月光を細く弾いた。
二刀。
その瞬間、空気が変わった。
コウが息を呑む。
戌助も、一瞬だけ動きを止めた。
その構えを、知っている。
稲吉が“ここで終わらせる”と決めた時だけの刃だ。
生きて連れ戻す。
だが届かなければ、自分の手で終わらせる。
その覚悟だけが、静かに刃へ宿っていた。
稲吉は低く笑う。
「……ようやくだ」
左手の小太刀が、わずかに持ち上がる。
「戌助、終わらせるぞ」
戌助は静かに刀を構えた。
八坂の刀が、重い音を立てて鞘から抜かれる。
月明かりが、八坂の半身だけを照らしている。
残り半分は闇に沈んでいた。
その姿はまるで、人と鬼の境目に立っているようだった。




