↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/90

三幕 開け

 安宅船(あたけぶね)の上で、旗が翻った。

白地に、岩倉の紋。


 次いで、大砲がゆっくりと向きを変える。

海そのものが、こちらへ牙を剥いたようだった。


「……随分気前のいい歓迎ね」

 コウが濡れた髪を払い上げる。

解けた結紐が指先から滑り落ち、栗色の髪が潮風にほどけた。


 戌助は答えない。

飛来した矢を、身を沈めるように避けると、

そのまま関船の縁を蹴り、一隻の小早へ飛び移る。


 小早の兵が振り返るより早く、戌助の刃が走った。


 短い悲鳴。

操舵手が崩れ落ち、漕ぎ手が散った。


「乗って!」


 戌助(いぬすけ)の声が走り、コウが飛ぶ。

続いてムツ。


 三人が小早へ乗り移った瞬間、ムツが静かに片手を前へ押し出した。


 海が応えるように、ざわりと波が持ち上がり、

小早を包み込むように流れ始める。

水が船腹へ絡みつき、海の上を押していく。


「行ける……!」

 コウが叫んだ、その直後だった。


 無数の矢が飛来した。

続いて火縄銃。

夜の海へ火線が走る。


 それでも、龍のうねりが壁を作り、舟を守った。

矢が弾かれ、弾丸が逸れる。

水の轟きが、外の怒号を遠ざけていく。


 龍に守られた船の中だけが、異様なほど静かだった。


 その中で、戌助が静かに口を開く。

「この先、何が起きるか分からない」


「でも――皆で終わらせよう」


「絶対に」

 白い指が、濡れた柄を握り直した。


 その時だった。


 ズン――……。


 腹の底まで響く轟音とともに、海が大きく揺れる。


 大砲だった。

巨大な砲弾が水面を裂き、すぐ横へ落ちた。


 爆ぜた海水が頭上から降り注ぐ。

小早が大きく傾いた。


「っ!」

 コウが咄嗟に船縁へ手をかけ、ムツの着物を握った。

ムツは戌助の腕を、迷いなく掴む。


 次の瞬間、矢と火縄、砲撃が四方から一斉に撃ち込まれた。


「数が……!」

 コウが顔を上げたときだった。


 一本の矢が、龍の隙間を縫い、こちらに届いた。


 ムツの頬を掠める。

「――ッ!」


 その一瞬、水の壁が揺らいだ。

ザァと音を立てて崩れる。


「くっ…!」

 ムツは咄嗟に水を戻そうとする。

しかしその間にも、火線が容赦なく迫る。


 逃げ場はない。


「飛べ!!」

 戌助が叫び、三人同時に海へ飛び込んだ。

轟音の中、転覆しかけた小早の下へ潜り込む。


 海の中は暗かった。


 ゴウ……という水音だけが、耳の奥で響いている。

まるで、海に沈んだ者たちの呻きのようだった。


 外ではなお、火縄の音が続いている。


 水面へ出られない。

どこへ泳げばいいのかも分からない。


 ムツの目が揺れた。

戌助がわずかに首を横に振った。


 沈黙するしかなかった。


 息が続かなくなる。


 コウが口を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。

肺が焼ける。

水は冷たいのに、喉の奥だけが熱い。


 足が重い。

海の底から、亡者たちに掴まれているようだった。

生きて戻る者を拒むように、海が、下へ下へと引いていく。


 その横で、戌助の口から空気が漏れた。

ごぽり、と泡が昇る。


 コウは歯を食いしばり、最後の力で戌助を支えた。


 ムツは二人をぐいと抱き寄せる。

離さぬように。絶対に沈めぬように。


 水面は遠い。


 こんなところで。


 悔しさがその場を冷やす。


(もう……)


 その言葉が、誰の中にも浮かびかけた時だった。


 ふっと。

火縄の音が止んだ。


 ムツが先に顔を上げる。

続いてコウが目を開けた。


 その腕の中で、戌助の身体がぐらりと傾いた。

白装束が、海水を吸って重く沈んでいる。


 戌助の瞼は、今にも閉じようとしていた。


 ムツが息を呑んだ。

慌てて肩を抱え、水面へ引き上げる。

コウも反対側から支えた。


 3人が海から顔を出した、その時だった。


 燃えている。


 戌助たちを囲んでいた関船の一隻が、夜空へ炎を噴き上げていた。


 その甲板には、小郡忍衆(おごおりにんしゅう)の影が並んでいた。


 炎を背に、火縄兵を次々と斬り伏せていく。


「若――!!」

 忍衆たちの声が海を裂いた。


 コウの目が見開かれる。


 煙の奥に――平次郎が立っていた。


 血と煤に塗れながら、鬼のような形相で海を睨んでいる。

だが、その視線がぐったりと支えられた戌助を捉えた瞬間。


――平次郎の表情が崩れた。


「戌助!!」


「立てェッ!!」


 腹の底を震わせる怒声だった。

その声が、水の底まで叩き割るように響く。


 沈みかけていた戌助の指が、かすかに動く。

ムツとコウが、半ば意識を失っている戌助を沈みかけた小早(こばや)へ引き上げる。


「っ、ぁ……!!」

 戌助は、ごぼ、と大量の海水を吐いた。

激しく咳き込み、肩が何度も跳ねる。


ムツが背を叩いた。

「しっかりして下さい、若!」

コウは息を切らしながら笑う。

「お頭……みんな……」


 平次郎はなお戌助を睨みつけたまま、低く吐き捨てた。

「そんな所で沈むな」


 戌助は乱れた呼吸のまま、ゆっくり顔を上げる。

「……父上……!」




 さらにその向こうでは、別の関船の上で敵の悲鳴があがった。

甲板の上で、巨大な牙のような形を持った水が兵たちを押しつぶしている。


 その中心に、松風が槍を構えて立っていた。

炎に照らされながら、静かに道を開いている。


 松風は短く言った。

「行きなさい」




 その時だった。

別方向から、小早が凄まじい勢いで突っ込んできた。


 ガガン!!


 関船へぶつかりながら、無理やり海を割って滑り込む。


「うおっ!?」

 兵たちが声を上げる。


 船上では、味坂(あじさか)が櫂を操りながら怒鳴っていた。

「邪魔だどけぇ!!」


 その横で、稲吉(いなよし)だけが笑っていた。

濡れた髪が頬へ張り付き、血と海水が首筋を伝っていた。


 稲吉が戌助の腕を掴み、一気に引き上げる。

続いてコウ。

ムツ。


 小早が再び加速した。

「舌噛むなよ!!」




 その反対側では焙烙が爆ぜ、炎が夜の海を染めた。


「道ァ開けろ!!」

 端間だった。


 さらに福童が冷静に次の焙烙へ火を移す。

「左舷、今です」




 炎の中、小舟が交差する。

離れていた道が、ひとつの場所へ重なっていく。


 煙の向こう、海上にそびえる巨大な黒影。


 安宅船。


「見えた……!」

 コウが呟く。


 戌助は、ゆっくりと顔を上げた。

白装束が風の中で揺れる。


「――上がるぞ」


 鍵縄が放たれる。

縄が船縁へ食い込んだ。


 最初に稲吉が飛ぶ。

味坂がコウを押し上げる。

端間(はたま)が福童(ふくどう)の腕を掴む。

戌助の濡れた手を、ムツが引き上げる。


 一人、また一人。

全員が、安宅船へ辿り着いた。


 巨大な船が、ぎしり……と鳴いた。


 まるで。


 これから始まるものを、船自身が理解しているかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。