三幕 開け
安宅船の上で、旗が翻った。
白地に、岩倉の紋。
次いで、大砲がゆっくりと向きを変える。
海そのものが、こちらへ牙を剥いたようだった。
「……随分気前のいい歓迎ね」
コウが濡れた髪を払い上げる。
解けた結紐が指先から滑り落ち、栗色の髪が潮風にほどけた。
戌助は答えない。
飛来した矢を、身を沈めるように避けると、
そのまま関船の縁を蹴り、一隻の小早へ飛び移る。
小早の兵が振り返るより早く、戌助の刃が走った。
短い悲鳴。
操舵手が崩れ落ち、漕ぎ手が散った。
「乗って!」
戌助の声が走り、コウが飛ぶ。
続いてムツ。
三人が小早へ乗り移った瞬間、ムツが静かに片手を前へ押し出した。
海が応えるように、ざわりと波が持ち上がり、
小早を包み込むように流れ始める。
水が船腹へ絡みつき、海の上を押していく。
「行ける……!」
コウが叫んだ、その直後だった。
無数の矢が飛来した。
続いて火縄銃。
夜の海へ火線が走る。
それでも、龍のうねりが壁を作り、舟を守った。
矢が弾かれ、弾丸が逸れる。
水の轟きが、外の怒号を遠ざけていく。
龍に守られた船の中だけが、異様なほど静かだった。
その中で、戌助が静かに口を開く。
「この先、何が起きるか分からない」
「でも――皆で終わらせよう」
「絶対に」
白い指が、濡れた柄を握り直した。
その時だった。
ズン――……。
腹の底まで響く轟音とともに、海が大きく揺れる。
大砲だった。
巨大な砲弾が水面を裂き、すぐ横へ落ちた。
爆ぜた海水が頭上から降り注ぐ。
小早が大きく傾いた。
「っ!」
コウが咄嗟に船縁へ手をかけ、ムツの着物を握った。
ムツは戌助の腕を、迷いなく掴む。
次の瞬間、矢と火縄、砲撃が四方から一斉に撃ち込まれた。
「数が……!」
コウが顔を上げたときだった。
一本の矢が、龍の隙間を縫い、こちらに届いた。
ムツの頬を掠める。
「――ッ!」
その一瞬、水の壁が揺らいだ。
ザァと音を立てて崩れる。
「くっ…!」
ムツは咄嗟に水を戻そうとする。
しかしその間にも、火線が容赦なく迫る。
逃げ場はない。
「飛べ!!」
戌助が叫び、三人同時に海へ飛び込んだ。
轟音の中、転覆しかけた小早の下へ潜り込む。
海の中は暗かった。
ゴウ……という水音だけが、耳の奥で響いている。
まるで、海に沈んだ者たちの呻きのようだった。
外ではなお、火縄の音が続いている。
水面へ出られない。
どこへ泳げばいいのかも分からない。
ムツの目が揺れた。
戌助がわずかに首を横に振った。
沈黙するしかなかった。
息が続かなくなる。
コウが口を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。
肺が焼ける。
水は冷たいのに、喉の奥だけが熱い。
足が重い。
海の底から、亡者たちに掴まれているようだった。
生きて戻る者を拒むように、海が、下へ下へと引いていく。
その横で、戌助の口から空気が漏れた。
ごぽり、と泡が昇る。
コウは歯を食いしばり、最後の力で戌助を支えた。
ムツは二人をぐいと抱き寄せる。
離さぬように。絶対に沈めぬように。
水面は遠い。
こんなところで。
悔しさがその場を冷やす。
(もう……)
その言葉が、誰の中にも浮かびかけた時だった。
ふっと。
火縄の音が止んだ。
ムツが先に顔を上げる。
続いてコウが目を開けた。
その腕の中で、戌助の身体がぐらりと傾いた。
白装束が、海水を吸って重く沈んでいる。
戌助の瞼は、今にも閉じようとしていた。
ムツが息を呑んだ。
慌てて肩を抱え、水面へ引き上げる。
コウも反対側から支えた。
3人が海から顔を出した、その時だった。
燃えている。
戌助たちを囲んでいた関船の一隻が、夜空へ炎を噴き上げていた。
その甲板には、小郡忍衆の影が並んでいた。
炎を背に、火縄兵を次々と斬り伏せていく。
「若――!!」
忍衆たちの声が海を裂いた。
コウの目が見開かれる。
煙の奥に――平次郎が立っていた。
血と煤に塗れながら、鬼のような形相で海を睨んでいる。
だが、その視線がぐったりと支えられた戌助を捉えた瞬間。
――平次郎の表情が崩れた。
「戌助!!」
「立てェッ!!」
腹の底を震わせる怒声だった。
その声が、水の底まで叩き割るように響く。
沈みかけていた戌助の指が、かすかに動く。
ムツとコウが、半ば意識を失っている戌助を沈みかけた小早へ引き上げる。
「っ、ぁ……!!」
戌助は、ごぼ、と大量の海水を吐いた。
激しく咳き込み、肩が何度も跳ねる。
ムツが背を叩いた。
「しっかりして下さい、若!」
コウは息を切らしながら笑う。
「お頭……みんな……」
平次郎はなお戌助を睨みつけたまま、低く吐き捨てた。
「そんな所で沈むな」
戌助は乱れた呼吸のまま、ゆっくり顔を上げる。
「……父上……!」
さらにその向こうでは、別の関船の上で敵の悲鳴があがった。
甲板の上で、巨大な牙のような形を持った水が兵たちを押しつぶしている。
その中心に、松風が槍を構えて立っていた。
炎に照らされながら、静かに道を開いている。
松風は短く言った。
「行きなさい」
その時だった。
別方向から、小早が凄まじい勢いで突っ込んできた。
ガガン!!
関船へぶつかりながら、無理やり海を割って滑り込む。
「うおっ!?」
兵たちが声を上げる。
船上では、味坂が櫂を操りながら怒鳴っていた。
「邪魔だどけぇ!!」
その横で、稲吉だけが笑っていた。
濡れた髪が頬へ張り付き、血と海水が首筋を伝っていた。
稲吉が戌助の腕を掴み、一気に引き上げる。
続いてコウ。
ムツ。
小早が再び加速した。
「舌噛むなよ!!」
その反対側では焙烙が爆ぜ、炎が夜の海を染めた。
「道ァ開けろ!!」
端間だった。
さらに福童が冷静に次の焙烙へ火を移す。
「左舷、今です」
炎の中、小舟が交差する。
離れていた道が、ひとつの場所へ重なっていく。
煙の向こう、海上にそびえる巨大な黒影。
安宅船。
「見えた……!」
コウが呟く。
戌助は、ゆっくりと顔を上げた。
白装束が風の中で揺れる。
「――上がるぞ」
鍵縄が放たれる。
縄が船縁へ食い込んだ。
最初に稲吉が飛ぶ。
味坂がコウを押し上げる。
端間が福童の腕を掴む。
戌助の濡れた手を、ムツが引き上げる。
一人、また一人。
全員が、安宅船へ辿り着いた。
巨大な船が、ぎしり……と鳴いた。
まるで。
これから始まるものを、船自身が理解しているかのように。




