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一幕 開演

 夜の海に、太鼓の音が落ちた。


 ――ドン。


 低く響いたその音に、岩倉水軍の兵たちが一斉に顔を上げる。


 篝火に照らされた無数の船影。


 巨大な安宅船を中心に、関船、小早が幾重にも並ぶその海のただ中へ、一隻の小舟が静かに進み出ていた。


 敵襲にしては、あまりにも遅い。

逃げる気配も、攻める気配もない。


 ただ、波を裂いて来る。


 見張りの兵が眉をひそめ、数名が弓を構えた。

矢を引く音が、キリ、と静かに鳴る。


「あの舟は何だ」

「止めるか?」

「……待て」


 小舟の上には、二人だけ。


 太鼓を抱えた女と。

その前に立つ、白装束の人影。


 夜風が吹く。


 長く垂らした赤髪が揺れる。

その奥で、蒔絵の櫛だけが、篝火を鈍く返した。


 兵たちが息を呑む。


 少女に見えた。


 だが違う。

その目だけが、異様なほど静かだった。


 そこで、太鼓を抱えたコウが一歩前へ出る。


「――岩倉水軍再興の門出に、

祝いの舞を、献上いたします」


 静かな声が、夜の海へ響いた。


 兵たちが顔を見合わせる。


「祝い……?」

「旅芸人か?」

「こんな時に……?」


 矢は向けられたままだった。

だが、誰も放てない。


 白装束の袖が、波の上でゆっくり翻る。


 舞が始まった。


 戦の前とは思えぬほど穏やかで、祈るような足運び。

白い袖が夜風を受けるたび、海そのものが息をしているように見える。


 太鼓が鳴る。


 ――ドン。


 コウの歌が重なった。


「遠つ海路の 灯を送る」


 低く、透るような声。

祝いの歌にしては、あまりにも寂しい旋律だった。


「散りし名を 波へ還さん」


兵たちのざわめきが広がっていく。


「……待て」

「祝いの舞、ではないのか……」

「何だ、あれは……」


 それでも。

まだ誰も矢を放てなかった。


 白い袖がふわりと夜気を裂いた。


 その白を見た瞬間、戌助(いぬすけ)の表情がわずかに揺れた。

普段の輪郭が、ほんの刹那だけ崩れて素の顔が覗く。


 しかし、すぐに堪えるように唇が結ばれる。

その歪みが、篝火に照らされて異様なほど美しかった。


 波音が戻る。


 ひと筋だけ涙が零れた。


 気づいた時には、もう頬を伝っていた。

その涙を追うように、記憶が滲む。


『……きれいだ』


 雪の夜。

準備の部屋へ迷い込んだ尚之が、白装束の戌助を見て、足を止めた声。


 灯りの揺れる静かな部屋。

差し出された小さな箱。

中にあったのは、蒔絵の櫛だった。


『君は、もっと好きに笑っていい』


 その言葉が、不意に胸の奥へ触れた。


 戌助の表情が、崩れる。


 ほんの一瞬だけ。

泣くまいとして、唇がかすかに震えた。


 それでも顔を上げる。舞を止めないために。


 しかし、一度落ちた涙は止まらなかった。


 ふた筋目が頬を伝う。

拭う間もなく、また次が零れる。


 堪えようとするほど、

涙は静かに増えていった。


 それでも舞は続いた。


 今、戌助がまとっているのは、

あの日の晴れ着を思わせる装いだった。


 祝いの日の白。


 けれど今は、尚之への手向けであり、

この海へ沈んだ者たちを送るための礼節の白だった。


 白い袖だけが、夜の海へほどけていく。


 涙に濡れた横顔から、

誰も目を逸らせなかった。


 歌は続く。


「榮えの舟よ」

「幽けき瀬へ」


 いっとう巨大な安宅船(あたけぶね)。

その上から、八坂(やさか)がじっと舞を見下ろしていた。


 白装束。

揺れる袖。


 その白が、不意に別の記憶を呼び起こす。


 小郡から帰ってきた尚之の亡骸。


 血に濡れていたはずの身体は、丁寧に清められ、白装束を着せられていた。


 敵であったはずなのに。

まるで、 大切な者を送るように。


 八坂の目が、わずかに揺れる。


 ――礼を尽くされていた。


 あの子は。


 敵としてではなく。

ひとりの人間として。


 これは、挑発ではない。

送っているのだ。


 死者を。

この海に沈んだすべてを。


 八坂の目が、初めて伏せられた。


 その瞬間だった。


 ――水が爆ぜた。


 轟音。


 海面が大きく持ち上がり、兵たちの目が見開かれた。


 白い影を乗せた小舟が、一気に跳ね上がる。


 ムツの幻術だった。


 波に押し上げられた舟が、そのまま関船の甲板へ叩きつけられる。

ザァ……と流れ込んだ海水が、甲板を洗い流した。


兵の足が崩れ、視界が揺れる。


「……何だ?」

「今のは、何だ……?」


 理解が追いつかない。

戦でも事故でもない。

ただ“海が跳ねた”としか言いようのない現象だった。


濡れた甲板の上に、白が落ちる。


 それは最初、旅芸人の衣にしか見えなかった。

よって誰も、すぐには武器を向けなかった。


――ゆえに遅れた。


 少女が、ゆっくりと動く。

その動作は、あまりにも静かだった。

まるで舞の続きのように。


刀が抜かれる。


 音はない。

だが、その一瞬でようやく兵たちは理解する。


「あ……」


 敵だ、と。


 遅れて、怒号が裂けた。

「て……敵襲――!!」


 その声が戦場の形を決める。


 戌助は、濡れた甲板の上で、ゆっくりと呼吸を整えるように刀を構えた。


 コウは太鼓を投げ捨て、苦無(くない)を握る。

荷の陰から、ムツが静かに姿を現す。


 戦が、始まった。

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