四幕 希望
夕刻。
林の中には、誰も口を開かぬ時間がしばらく流れていた。
潮の匂い。
遠くの波音。
枝葉の揺れる、かすかな音。
戌助の腕の中では、狸になったスズシロが時折びくりと身を震わせていた。
もう言葉はない。ただ、小さな呼吸だけがそこにある。
その重い沈黙を破ったのは、一羽の鴉だった。
低く枝へ降り立つ。
脚には、小さく結ばれた文。
「……春居さんだ」
戌助が文をほどく。
そこに記されていた場所へ向かい、一行は人目につかぬ林の奥で福童と端間に合流した。
「無事だったか!」
端間が片手を上げる。
まだ新しい包帯が巻かれていた。
「廃港に本隊はいませんでした。船も……」
ムツが悔しそうに目を伏せる。
福童は眉を寄せた。
「すみません。読みが外れました……」
「いや」
味坂が煙管を噛みながら、ちらりと稲吉を見る。
「まぁ、無駄足でもなかった」
稲吉が心底嫌そうに睨み返した。
福童たちは首を傾げている。
「……?」
その空気を切るように、端間が口を開いた。
「俺たちも空振り。――別の隠れ湊があったぜ」
全員の視線が上がる。
端間は肩を押さえながら続けた。
「東の海沿いだ。崖下に、もうものすっごい船が集まってた」
その言葉に、福童が静かに息を吐く。
「想像以上でした」
崖の裂け目のような入り江。
その奥、夕焼けに焼かれた空と海が、血のように赤く滲んでいた。
黒々とした無数の船影が、その赤の中に浮かんでいる。
静かな入り江を埋め尽くす軍勢。
篝火が波間へ揺れるたび、海そのものが燃えているように見える。
城のような巨大な安宅船。
その周囲を埋め尽くす関船と小早。
関船十、小早三十――。
「数え終わるころに、もう矢が飛んできて」
端間が顔をしかめながら、包帯の巻かれた肩に手を添えた。
「あとはもう、必死で逃げるしかなくてさ」
「危なかったんですよ、本当に……」
福童も苦笑した。
その時だった。
林道の向こうを、複数の兵が駆け抜けていく。
全員が反射的に息を潜めた。
鎧の擦れる音。荒い足音。怒号。
「廃港で見たって話だ!」
「小郡忍衆らしき者が動いてる!」
そんな声が飛び交っている。
警戒は、すでに始まっていた。
ムツが眉をしかめた。
「この様子じゃ、全員で突破するのは厳しいんじゃ……」
味坂が吐き捨てる。
「ただでさえ数で終わってんだ。どうすんだよ」
誰もすぐには答えられなかった。
林の空気だけが、じりじりと張り詰めていく。
その沈黙を、ひとつの声が静かに断ち切った。
「――私が行きます」
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、笠をかぶった一人の少年だった。
少年は静かに笠を外す。
戌助と同じ結髪。そっくりに設えた着物と袴。
顔が上がる。
――伊織だった。
「伊織様……!」
戌助が目を見開く。
伊織はまっすぐ前を見たまま、小さく笑った。
「今度こそ、もう後悔したくありません」
風が笹を揺らす。
伊織はどこか懐かしそうに笑った。
「私、足だけは速いの。
昔、何度も八坂様を巻いて城を抜け出したんだから」
その顔は、ほんの少しだけ幼かった。
福童が肩をすくめる。
「大変でしたね、あの頃は」
「城中ひっくり返ってたからな」
端間も笑った。
重かった空気が、少しだけ緩む。
伊織は静かに続けた。
「私がおとりになります。皆さんは、その間に船へ」
端間が胸をたたく。
「俺と春居もついてくから、安心しろ」
福童も頷いた。
「後から必ず合流します」
その時だった。
戌助の抱えていた狸が突然「キッ!!」と暴れ出した。
「わっ……!?」
福童が目を丸くする。
「戌助さん、それ――」
戌助ははっとしたように狸を抱え上げ、福童に渡した。
「安全な場所にお願いします」
狸の後脚が、福童の腹を容赦なく蹴り上げる。
「うわっ、あ痛っ!!」
さらに前脚がばたばた暴れる。
「ちょ、待っ……なんですかこの子――」
その瞬間。
福童の顔に、うっすら何かが繋がりかける。
「まさか、これ……」
「説明は後だ。頼む」
稲吉が遮る。
福童は狸と格闘しながら、それでも真面目に頷いた。
「……わかりました」
コウが不安げに口を開く。
「でも、策はあるの」
全員、水上戦の経験はない。
相手は圧倒的多数。
だが、稲吉は不敵に笑った。
「任せろ」
その目が、獲物を狙う鷹のように光った。
「要は大将を止めりゃいい」
「兵は散らせる」
その口元には、悪戯を思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。
コウだけは気づいていた。
稲吉が七のことを追う中で、必死に集め続けていた岩倉の情報。
八坂たちの戦い方。水軍の気質。誰が八坂へ心酔し、どう動くのか。
全部、この時のために繋がっていたのだと。
「行こう」
戌助が前を向く。
その声に、皆が頷いた。
そして五人は、夜の岩倉の町へ駆け出した。
戌助を先頭に、ムツ、コウ、稲吉、味坂が続く。
頭上では、笹へ吊るされた短冊がさらさらと揺れている。
風が吹くたび、無数の願い事が夜を擦った。
戌助は、一瞬だけ空を見上げる。
雲の切れ間。
そこには、淡く天の川が浮かび始めていた。




