↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/90

四幕 希望

 夕刻。


 林の中には、誰も口を開かぬ時間がしばらく流れていた。


 潮の匂い。

遠くの波音。

枝葉の揺れる、かすかな音。


 戌助(いぬすけ)の腕の中では、狸になったスズシロが時折びくりと身を震わせていた。

もう言葉はない。ただ、小さな呼吸だけがそこにある。


 その重い沈黙を破ったのは、一羽の鴉だった。


 低く枝へ降り立つ。

脚には、小さく結ばれた文。


「……春居(はるい)さんだ」

 戌助が文をほどく。


 そこに記されていた場所へ向かい、一行は人目につかぬ林の奥で福童(ふくどう)と端間(はたま)に合流した。


「無事だったか!」

 端間が片手を上げる。

まだ新しい包帯が巻かれていた。


「廃港に本隊はいませんでした。船も……」

 ムツが悔しそうに目を伏せる。


 福童は眉を寄せた。

「すみません。読みが外れました……」


「いや」

 味坂(あじさか)が煙管を噛みながら、ちらりと稲吉を見る。

「まぁ、無駄足でもなかった」


 稲吉が心底嫌そうに睨み返した。


 福童たちは首を傾げている。

「……?」


 その空気を切るように、端間が口を開いた。

「俺たちも空振り。――別の隠れ湊があったぜ」


 全員の視線が上がる。


 端間は肩を押さえながら続けた。

「東の海沿いだ。崖下に、もうものすっごい船が集まってた」


 その言葉に、福童が静かに息を吐く。

「想像以上でした」


 崖の裂け目のような入り江。

その奥、夕焼けに焼かれた空と海が、血のように赤く滲んでいた。

黒々とした無数の船影が、その赤の中に浮かんでいる。


 静かな入り江を埋め尽くす軍勢。

篝火が波間へ揺れるたび、海そのものが燃えているように見える。


 城のような巨大な安宅船(あたけぶね)。

その周囲を埋め尽くす関船(せきぶね)と小早(こばや)。


 関船十、小早三十――。


「数え終わるころに、もう矢が飛んできて」

 端間が顔をしかめながら、包帯の巻かれた肩に手を添えた。

「あとはもう、必死で逃げるしかなくてさ」

「危なかったんですよ、本当に……」

 福童も苦笑した。


 その時だった。

林道の向こうを、複数の兵が駆け抜けていく。


 全員が反射的に息を潜めた。


 鎧の擦れる音。荒い足音。怒号。


「廃港で見たって話だ!」

「小郡忍衆(おごおりにんしゅう)らしき者が動いてる!」

 そんな声が飛び交っている。


 警戒は、すでに始まっていた。


 ムツが眉をしかめた。

「この様子じゃ、全員で突破するのは厳しいんじゃ……」


 味坂が吐き捨てる。

「ただでさえ数で終わってんだ。どうすんだよ」


 誰もすぐには答えられなかった。

林の空気だけが、じりじりと張り詰めていく。


 その沈黙を、ひとつの声が静かに断ち切った。


「――私が行きます」


 全員が振り返る。


 そこに立っていたのは、笠をかぶった一人の少年だった。


 少年は静かに笠を外す。

戌助と同じ結髪。そっくりに設えた着物と袴。


 顔が上がる。


 ――伊織だった。


「伊織様……!」

 戌助が目を見開く。


 伊織はまっすぐ前を見たまま、小さく笑った。

「今度こそ、もう後悔したくありません」


 風が笹を揺らす。

伊織はどこか懐かしそうに笑った。


「私、足だけは速いの。

昔、何度も八坂様を巻いて城を抜け出したんだから」


 その顔は、ほんの少しだけ幼かった。


 福童が肩をすくめる。

「大変でしたね、あの頃は」

「城中ひっくり返ってたからな」

 端間も笑った。


 重かった空気が、少しだけ緩む。


 伊織は静かに続けた。

「私がおとりになります。皆さんは、その間に船へ」


 端間が胸をたたく。

「俺と春居(はるい)もついてくから、安心しろ」

 福童も頷いた。

「後から必ず合流します」


 その時だった。

戌助の抱えていた狸が突然「キッ!!」と暴れ出した。


「わっ……!?」

 福童が目を丸くする。


「戌助さん、それ――」


 戌助ははっとしたように狸を抱え上げ、福童に渡した。

「安全な場所にお願いします」


 狸の後脚が、福童の腹を容赦なく蹴り上げる。

「うわっ、あ痛っ!!」

 さらに前脚がばたばた暴れる。

「ちょ、待っ……なんですかこの子――」


 その瞬間。

福童の顔に、うっすら何かが繋がりかける。

「まさか、これ……」


「説明は後だ。頼む」

 稲吉が遮る。


 福童は狸と格闘しながら、それでも真面目に頷いた。

「……わかりました」


 コウが不安げに口を開く。

「でも、策はあるの」


 全員、水上戦の経験はない。

相手は圧倒的多数。


 だが、稲吉は不敵に笑った。

「任せろ」


 その目が、獲物を狙う鷹のように光った。


「要は大将を止めりゃいい」

「兵は散らせる」


 その口元には、悪戯を思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。


 コウだけは気づいていた。

稲吉が七のことを追う中で、必死に集め続けていた岩倉の情報。

八坂たちの戦い方。水軍の気質。誰が八坂へ心酔し、どう動くのか。


 全部、この時のために繋がっていたのだと。


「行こう」

 戌助が前を向く。


 その声に、皆が頷いた。


 そして五人は、夜の岩倉の町へ駆け出した。

戌助を先頭に、ムツ、コウ、稲吉、味坂が続く。


 頭上では、笹へ吊るされた短冊がさらさらと揺れている。

風が吹くたび、無数の願い事が夜を擦った。


 戌助は、一瞬だけ空を見上げる。


 雲の切れ間。


 そこには、淡く天の川が浮かび始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。