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三幕 岩倉の子

 スズシロは、ようやく呼吸を整えながら口を開いた。


「皆、少し……時間をくれんか」


 声は掠れていた。

やがてスズシロは、ゆっくりと視線を上げる。


「八坂(やさか)殿と……七(しち)のことを、話しておきたい」


 一瞬、皆が言葉を失った。


 スズシロは、小さく息を吐く。

「わしら四傑(よんけつ)がばらばらになってからのことじゃ」


 遠く、木が軋む音がした。


「七は、岩倉に流れ着いた。自分が何者かも忘れ、身寄りもなく……湯屋で働いておった」

 その言葉に、稲吉(いなよし)の肩がわずかに動く。

「そうじゃ……お前が行った、あの湯屋じゃ」


 コウは、何かを飲み込むように目を伏せた。

「……あそこは、逃げ場にするにはあまりに、暗いところよ…」


 一瞬、湯気の立つ湯船の光景がよぎる。


 水音、湿った木の匂い、薄暗い帳場。

その中に立っていた、名も持たぬ娘。


 スズシロの声が少しだけ柔らかくなる。

「ああ、八坂殿は、そこで七と出会った。

身寄りのなかった七を引き上げ、この兵舎へ置いた。」


 スズシロの視線が、静かに部屋を巡る。

「……ここじゃ」


「幼い尚之も一緒にな…三人で家族のように暮らしておった」


 笑い声。

食器の音。

子供の足音が、聞こえてくるようだった。


 スズシロの喉が、わずかに詰まる。

「幸せそうじゃった」


「じゃが……わしが、それを壊した」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。


 スズシロの目が、遠くを見る。

「わしは皆を探して旅をしておった。平次郎も松風(まつかぜ)も、わしを覚えておらなんだが……この岩倉で、ようやく七に会えた」


 そこで、声が一度だけ震える。

「七だけが……わしを思い出してくれた」


 そのときの光景が、断片のように差し込まれる。


『真白(ましろ)、真白だよね…!』

 そう言って、七は泣きそうに笑った。


「嬉しかった。七もまた、自分が何者かを思い出した」


「それからじゃ。わしらが鬼若子を追い始めたのは。」


「二度とこのようなことが起こらぬようにと……わしが言いだしたことじゃ」


 だが、スズシロの声がわずかに低くなる。

「じゃがある夜……わしらが動いておった“鬼若子(おにわこ)のこと”が、八坂殿の耳に入った」


「八坂殿は、七が春日の者であったことに気付いた。」


 それは、あとになって七の口から聞いたことだった。


 八坂の顔が、わずかに強張った。

その目に、言葉にならぬ揺らぎが宿る。


「そして思い出してしもうた。七が、かつて仲間を奪った忍衆の一人であったことを」


『……騙していたのか』

『裏切ったのか』


 そう漏らした声は、責めでも怒りでもなかった。

立ったまま、何かが崩れていくことを理解できぬまま、ただそこにいた声だった。


 スズシロは、ゆっくりと目を閉じる。

「その日、七はここを出た」


 雨の音。扉の閉まる音。


「小郡(おごおり)へ……かつての自分のあるべき場所へ戻ったのじゃ。

平次郎を頼ってな」


 戌助(いぬすけ)は、真っすぐな目でスズシロを見ていた。


「じゃが平次郎は、まだ七を思い出しておらんかった。ただの流れ者として受け入れた」


 そこで、スズシロは一度だけ視線を落とす。


「そのときじゃ……七は、八坂殿の子を宿しておった」


 稲吉(いなよし)の呼吸が、一瞬止まる。


「……お前じゃ、壱左(いちざ)」


「八坂は、お前の父じゃ」


 静寂。

ただ、遠くの波音だけが響いていた。


 稲吉の中で、ひとつの答えだけが静かに落ちる。

鬼若子の力で、皆が運命を違えたあとも。自分だけは、八坂のもとにいた。

あの時間には、理由があったのだ。


 短く、歪で、とうてい人並みの親子ではなかった。


 それでも――あれは、父と子の時間だった。


 けれど、その答えは、まだ何ひとつ実感にならなかった。

稲吉は何も言えないまま、ただ視線を落とした。


「それから数年じゃ。お前が七つになるころまでは、まだ静かじゃった。

……じゃが、戦が激化した」


 空気が、ゆっくりと冷えていく。


「四傑が分かたれてからというもの……平次郎は、ほとんど一人で春日を支えておった。

仲間を失い、里を削られ、それでも戦い続けた」

 スズシロの目が伏せられる。

「やつは次第に、岩倉の者を徹底して憎むようになった。関わる者は誰であろうと許さぬと……そういう戦い方に変わってしもうた」


 低い沈黙。


「――そして、その矛先は七にも向いた」

 スズシロは、唇を噛む。


「……平次郎は、七が岩倉に縁があると知り、引き渡した」

 稲吉の目が、静かに細くなる。


「ほどなく七の処刑が決まり――処刑人に選ばれたのは八坂殿じゃ」


 潮騒だけが、遠くで続いていた。


「岩倉水軍の総大将でありながら、七を匿った咎でな。

潔白を証明するためには……自ら手を下すしかなかった」


 コウは、言葉を失ったまま口元に手を当てた。

目だけが大きく見開かれ、何かを飲み込めないまま揺れている。


 ゆっくりと、首が横に振られた。

そんなのは、あまりにも――。

声にならない拒絶だけが、その場に残った。




 その日は、異様なほどに晴れていた。


 川のほとりに設けられた処刑場に、大勢の人が集まっていた。

スズシロと、まだ子供だった稲吉も、そこに立っていた。


「わしは……最後に七と会った」


 鉄格子の向こう。

白い衣に身を包んだ七は、まっすぐな目でスズシロを見た。


『……すまぬ、わしのせいじゃ…!』


『違う』

 七は静かに笑っていた。

『私が選んだことだよ』


 その声は、不思議なほど穏やかだった。


『私の命は無駄じゃない。あの人が生きられる。尚之も、罪に問われずに済む』


 そのとき、スズシロの中で何かが崩れた。

涙があふれて止まらなかった。


『七……!』

 叫びは届かない。


 岩倉兵が動く。

引かれていく白い影。


『ありがと、真白』


 それが、最後の言葉だった。


 そして。

白装束の七が引き出されたとき、稲吉の幼い声が場に裂けた。


「かーちゃん!! かーちゃん!!」

 何度も、何度も。

 その声に、七の肩がわずかに揺れた。


 一度だけ、稲吉を真っすぐに見て――微笑んだ。


 逃げるでもなく、怯えるでもなく。すべてを受け入れている者の目だった。


 組まれた木の足場が、静かにそこにあった。

その中央に、ひとつだけ処刑台が据えられている。


 七は、その前に立たされた。

白装束の裾が、風に揺れる。


 処刑人が進み出る。

観衆の空気が、わずかに軋んだ。


 ――八坂だった。


 ざわり、と観衆がどよめく。


 八坂の手が、刀の柄へかかる。


 だが。

指先が止まった。


 鞘から刃を抜くまでが、やけに遅い。

しゃり――と、金属が擦れる音だけが妙に長く響いた。


 観衆が、息を呑んだ。


 刀が、震えていた。

ほんのわずかに。

けれど、隠しきれぬほどに。


「……何をしている」

「手が……」


 ざわめきが、じわじわと広がっていく。


 八坂は動けなかった。

刀を握ったまま、ただ立ち尽くしている。

その背中を、七は静かに見つめていた。


 ――このままでは。

八坂は刀を振れない。

誰の目にも、それが分かってしまっていた。


 やがて。

七は、自ら一歩前へ出る。

木の板を踏む音が、やけに乾いて響いた。


 処刑台の前へ膝をつき、首を差し出すための穴へ静かに身をかがめる。

迷いのない動きだった。


 その背へ、八坂の刃がゆっくりと持ち上がる。


 刃が振り下ろされるより早く、

七が、振り返らずに叫んだ。


「お前など……呪ってやる……!!」


 声が、場を貫いた。


「呪ってやる!! 赦さない!!」

 観衆のざわめきが、一気に跳ね上がる。


 その言葉は、怒りではなく、まるで祈りのようだった。


 そして刃が落ちる。

音は、一瞬遅れて届いた。


 ――すべてが終わった。




 その場面を思い返すスズシロの声が、かすかに震える。


「あやつの手は震えておった。

……迷いと、情と、どうにもならぬ思いが、あったのじゃろうな」


「誰よりも苦しんでおったのは、あの男じゃ」


「もしあのまま進んでおれば――あの男は、七を斬ることすらできずに崩れておったかもしれん。それはすなわち、八坂殿自身の立場をも失うということじゃ」


「七があの場で恨みの言葉を残さなければ……八坂殿の身の潔白は証明できなんだ」


 稲吉の中で、何かが静かに繋がる。


 あの母の言葉で、仇討ちを誓った。しかしそれは、守るための言葉だった。


「七は……あえて、そう言った」


 スズシロの声が低く沈む。


「八坂殿もまた……鬼若子の力に呑まれた者じゃった」


 誰も、すぐには口を開けなかった。


 遠くで、潮がゆっくり岩を打っている。

朽ちた兵舎のどこかで、板戸が軋んだ。


 ただ、過去だけがそこに残っていた。


 スズシロは、ゆっくりと顔を上げる。

「七が死に……わしは誓った」


「この戦を必ず終わらせると」


 声に、かすかな熱が宿る。

「どんな姿になろうとも、何を失おうとも……岩倉の軍師にまで上り詰めた」


「そして……伊織様の婚姻を取り持った。和睦(わぼく)をな」


 その言葉の意味が、ようやく全員に落ちる。


 戦を終わらせたのは、力ではない。

この男の、執念だった。


 不意に、スズシロの喉が小さく引き攣る。


「っ……」

 杖を握る指先から、力が抜けていった。


 視線が揺れる。

目の前の戌助たちへ、うまく焦点を結べない。


「……これまでじゃ」

 掠れた声だった。


「わしの命は……七が死んだ時に、とうに終わっておった」


 息が乱れる。

言葉を繋ぐたび、何かが零れ落ちていく。


「鬼若子の影響で……誰にも覚えられなくなった者は――

やがて獣に、なる」


 がくり、と。

膝が崩れ、味坂が咄嗟に身体を支えた。

「しっかりしろ!」


 だが、スズシロはもう、

味坂の声にうまく反応できていなかった。


 視線だけが、ゆっくり宙を探る。


「今日まで……

わしが言葉を保てたのは……

ひとえに、この執念…」


 そこで、声が止まる。

続きが出てこない。

口だけが、かすかに動く。


「スズシロ様……!」

 戌助の声が、わずかに震えた。


 スズシロは、その呼びかけにゆっくり顔を向ける。

けれどその目は、深い霧の向こうを見ているようだった。


「……タクシタゾ」


 幼子の寝言のような、途切れそうな声だった。


 ふっ、と。

張り詰めていた何かが、静かにほどけた。


 衣が、するりと沈んだ。


 そこに残っていたのは――


 一匹の狸だった。


 小さな身体が、怯えたように周囲を見回す。


「スズシロ様!!」

 戌助が駆け寄る。


 狸はびくりと身を震わせ、逃げるように後ずさる。

それでも戌助は、狸に飛びつき、その小さな身体を抱き上げた。


「逃がさない……絶対に!」


「誰かが思い出せば……きっと、まだ戻れる!」


 その腕の中で、狸は暴れた。

身をよじり、唸り、必死に逃れようとする。

小さな身体とは思えぬ力だった。

しかし戌助は、胸へ抱え込むように押さえたまま離さない。


 だが――もう、言葉は返ってこなかった。


 ただ。

遠くへ、遠くへ。

何かだけが、消えていく。


 気づけば、

湊に残された船は、すでに朽ちていた。

引き上げられた残骸だけが、海風の中で軋んでいる。


 当ては、外れていた。


 代わりに、そこには無数の墓標だけが、静かに並んでいた。


 潮風に晒され、名も削れかけた石の群れ。


 その奥。

誰もいないはずの場所に、一瞬だけ。

誰かが立っていた気がした。


 潮騒が鳴る。


 けれど振り返った時には、もう何もなかった。

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