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二幕 廃港の取引

 潮風が、じっとりと肌へまとわりついていた。


 夜明け前の空は、まだ薄青く沈んでいる。

遠くで虫の声が鳴いていた。


 味坂(あじさか)とスズシロに案内され、一行は海沿いの崖道を進んでいた。

東の空が、わずかに白み始めている。

その淡い光に照らされ、岩肌と黒い波だけがぼんやり浮かび上がっていた。


 やがて、崖の切れ間に入り江が現れた。

海を囲うように岩壁がそびえ、その奥に朽ちかけた兵舎が並んでいる。


 廃港のはずだった。

だが、まだ終わった場所には見えなかった。


 薄暗い湊のあちこちに、まだ灯りが残っている。

波止には、粗野な男たちが何人も立っていた。


 落ちぶれた武士。

流れ者。

盗賊崩れ。

どれも、戦の残り香をまとったような連中だった。


「また、増えておるな」

 スズシロが低く呟いた。


 味坂は煙管を咥えたまま、ふっと煙を吐く。

「腐っても元水軍だ。根はしぶてぇよ」


 紫煙が、朝靄へ溶けていく。

そう言いながら、味坂は灯りの向こうを眺めた。


「入れそうですか」

 戌助(いぬすけ)の問いに、味坂は少しだけ口角を上げる。


「口利きはできる」

 だが、その目は笑っていなかった。


 味坂は煙管を指先で軽く回し、低く続ける。

「ただし、取引が必要だ」

「取引?」


 味坂がゆっくり振り返る。

その視線が、すっと稲吉へ向いた。


「――女がいる。稲吉(いなよし)、来い」

「あ?」

 稲吉が眉をひそめる。


「やつらは、人を商品みてぇに扱う」

 味坂の声は淡々としていた。

「やり口は汚い。コウや戌助を行かせていい場所じゃない」

 コウが即座に戌助の肩を引き寄せ、露骨に嫌そうな顔をする。


「ムツは線が太いから論外だ」

「え……?」

 ムツは一度、自分の身体を見下ろした。

肩。腕。腰回り。

そして困惑した顔で戻ってくる。

「……太い?」

「“男”が出すぎてるって意味だよ」


 コウが耐えきれず吹き出した。

その横で、味坂の視線が稲吉へ向いた。


 旅装束の裾から覗く脚は、妙に白く細かった。


「……んだよ、じろじろ見て」

 稲吉が嫌そうに顔をしかめる。

 味坂は真顔で頷いた。

「うん」


「――お前は売れる。女装しろ」


「……はぁ!?」


 崖に、稲吉の声が響いた。


 しばらくして――

朝日が昇り始めた頃、入り江へ続く細道を、二つの影が先頭で歩いていた。


 前を行くのは、般若面を被った味坂。

その後ろに、縄で両手を縛られた稲吉が続く。


 縄を引く味坂の歩き方は、板についていた。

盗賊だった頃の癖なのだろう。


 さらに後ろから、同じ面を被ったコウ、戌助、ムツ、スズシロが無言で続いていく。


 稲吉は女物の小袖を羽織らされ、髪も結い直されていた。

薄く紅まで引かれている。

しかし、その所作は妙に場慣れしていた。


 その姿を横目で見ながら、味坂がぼそりと漏らした。

「……お前、初めてじゃねぇな」


 稲吉は答えない。

もう見張りの目が届く位置だ。

余計な口は危険だった。

代わりに、潰れた虫でも見るような目を向ける。


 味坂は肩をすくめた。

「その顔やめろ。不細工になる」


「……っ」

 稲吉の額に青筋が浮いた。

だが黙ったまま歩き続ける。


 やがて。

波止の見張り台が見えてきた。


 粗末な櫓の下で、刀を提げた男たちが酒を回している。



 こちらに気づいた一人が、目を細めた。

「おお?」

 男が笑う。

「久しぶりじゃねぇか、味坂。相変わらずだな」


 味坂は般若面の奥で鼻を鳴らした。

「お互い様だろ」

「何しに来た」


 味坂は縄を軽く引く。

稲吉がよろめく。

「金の匂いがしたもんでな」


 男たちの視線が、稲吉へ集まった。

舐め回すような視線だった。


 スズシロが少し前へ出る。

まるで無意識のように、コウと戌助を自分の後ろへ隠す位置だった。


 味坂は気にした様子もなく続ける。

「欲しいもんがある。

中に入れろ。取引したい」


 男たちは顔を見合わせた。

やがて、一人がにやりと笑う。

「へぇ……そりゃ上玉だな」


 静かに取引が成立した。

縄が、別の男の手へ渡される。


 稲吉が振り返った。

(おい、あとどーすんだよ!)

 声には出さず、口だけが動く。


 味坂は面の奥で笑った気配だけ寄越した。

そして、わずかに面をずらし、

(任せる)

 同じく口だけで返す。


 そのまま、稲吉は男たちに連れていかれた。


 消えていく背中を見送りながら、ムツが眉を寄せる。

「……大丈夫かな」

「死にゃしねぇよ」

 味坂は気にした様子もなく、懐から煙管を取り出した。


 その間に、一行は湊の中へ通されていった。




 水軍兵舎は、妙に静かだった。

波の音だけが遠くで響いている。


「八坂殿が船を隠すとすれば、この先じゃ」

 スズシロが先頭に立ち、迷いなく奥へ進んでいく。


 廊下には、生活の痕がそのまま残されていた。


 転がった椀。

酒瓶。

開きっぱなしの薬箱。

畳まれていない布団。


 まるで昨日まで、誰かがここで暮らしていたようだった。


 ムツが小さく辺りを見回す。

「……人の気配が残ってますね」


 戌助は、ふと足を止める。

 

 この場所で。

八坂と尚之が肩を並べて笑っていたこともあったのだろうか。


 戦や、船の話。

酒を飲みながら交わした、どうでもいい話。


 父と子の時間が、確かにここにはあったのかもしれない。


 その時だった。


 廊下の奥から、足音が近づく。


「ご苦労さん」

 味坂が振り返らずに言う。


 後ろから現れた稲吉は、乱れた髪を雑に結い直しながら、これ以上ないほど不機嫌な顔をしている。


「稲吉、ここ」

 ムツは自分の口元を指した。

稲吉は思い出したように、残っていた紅を手甲で乱暴に拭った。


 味坂はちらりとだけ振り返る。

「ちゃんと騒がず収めただろうな。追手が来たら困る」

「うっせぇ、なめんな」

 稲吉が吐き捨てる。


「稲吉、ありがとう」

 戌助の真面目な礼に、コウは耐え切れず声を出して笑った。


 だが、その時だった。

先を歩いていたスズシロが、ぴたりと足を止める。


 皆の視線が前へ向いた。


 薄暗い一室の隅。

埃を被った木彫りの馬が、棚の端に置かれていた。


 誰かが片付けることも、捨てることもできなかったのだろう。


 それを見たスズシロの肩が、小さく震える。


「……スズシロ様?」

 ムツが声をかける。


 返事はない。

代わりに、スズシロの喉奥から浅く掠れた息が漏れた。


「っ……」

 杖を握る手が震えている。


 次の瞬間。

がくり、と。

スズシロが、その場へ膝をついた。


「スズシロ様!」

 戌助が駆け寄る。


 だが。

スズシロは顔を上げられない。


 荒い息を繰り返しながら、獣のような低い唸り声を漏らしていた。


 ぼた、と。


 床へ落ちた汗が、畳へ黒く染みる。


 その目が、ゆっくり上がる。


 焦点が合っていない。

戌助を見ているはずなのに、そこに“誰がいるのか”分かっていないような目だった。


 コウが息を呑む。

稲吉は、無意識に半歩だけ距離を取った。


 スズシロの身体から、

じわり、と獣の気配が溢れ出していく。


 暗い部屋の中。


 木彫りの馬だけが、誰にも触れられぬまま残っていた。

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