一幕 集結
夜の岩倉領は、不気味なほど静かだった。
山道を抜けるたび、湿った草の匂いが鼻を掠める。
遠くでは、夏の虫が鳴いていた。
戌助たちは、ここへ来るまでに幾つもの中継地を渡ってきた。
朽ちた茶屋。人気のない倉。河原の舟小屋。
そのたびに、顔を隠した男たちと言葉を交わす。
「月は沈んだか」
「まだ、雲の中だ」
そんなやり取りを幾つも越え、
ようやく辿り着いたのが―― 岩倉領宿場町の外れにある、小さな宿だった。
軒先に掲げられた看板には、掠れた文字で“なにがしや”とある。
戌助が戸を叩く。
中から、低い声が返った。
「……花は咲くか」
戌助は静かに答える。
「散る時を待っています」
沈黙。
やがて、戸が細く開いた。
宿の主人は周囲を確かめるように視線を巡らせると、小さく頷く。
「お入りください」
全員が中へ滑り込む。
戸が閉まると、外の虫の声が少し遠くなった。
宿の奥。
薄暗い一室には、すでに二人の男が待っていた。
「お待ちしていました」
福童が、穏やかに微笑む。
その隣で、端間が胡坐をかきながら手を上げた。
「おかえり!」
囲炉裏の熱が、長く張っていた気をわずかにほどいていく。
皆、笠を外した。
稲吉が部屋を見回し、鼻を鳴らす。
「しかし、よくこんな場所用意できたな」
はぁ疲れた、と零しながらどかりと座り、福童を見る。
「小郡で派手に裏切ったお前ら、今じゃ立派なお尋ね者だろ」
すると福童は、涼しい顔で湯呑みを置いた。
「お金、ですよ」
端間が隣で得意げに肩を揺らす。
福童は淡々と続けた。
「世の中、大抵それで動きます」
稲吉が呆れたように言う。
「はぁ、やだやだ。金持ちってのは」
だが福童は、少しも悪びれない。
「ですが――金で動く者ほど、扱いやすく確かなものもありません」
その言葉に、稲吉の口元が僅かに上がる。
「……ふん。同感だ」
どこか似た空気が、二人の間に流れた。
鉄瓶の湯が、低く鳴っていた。
福童はそこで表情を改めた。
「伊織様は、安全な場所へお匿いしています」
戌助が小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「もう身体も良いようです。皆さんが命懸けで救ってくださったおかげです」
福童が穏やかに言う。
その言葉に、コウが張っていた肩をわずかに落とした。
一拍置いて、福童は、ゆっくりとムツへ視線を向けた。
「……雪松さんは、何か掴んだようですね」
部屋が静まる。
千羽楼。
あの場所で何があったのか、まだ詳しくは話していない。
だが、ムツはゆっくりと頷く。
「ええ。龍の幻術なら、いつでも使えます」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
部屋の空気が止まり、端間が珍しく真顔になる。
稲吉だけが、ふっと鼻で笑った。
「やっと顔つきがマシになったな」
ムツは少し照れたように笑う。
だがその瞳の奥には、確かな熱が宿っていた。
まるで、背中を押してくれる誰かがいるような。
戌助は、その横顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
――兄さんも、もう一人じゃない。
あの雪山で交わされた言葉が、一瞬脳裏をよぎった。
福童は小さく頷く。
「ならば、ようやく条件が揃いましたね」
端間が地図を広げた。
囲炉裏の火が、紙の上を赤く照らす。
「八坂様も、もう動いてる」
端間の指が、海沿いの一点を叩く。
「岩倉の地下で船造ってたの、覚えてるよな」
戌助が静かに頷いた。
亡命の夜。
薄暗い地下で並んでいた巨大な船影が脳裏をよぎる。
「この入り江――昔、水軍が使ってた隠し湊だ」
福童が、その横をなぞった。
「戦後は廃港になった場所ですが……最近また、人と物の流れが増えています」
「岩倉兵だけじゃない」
端間が低く続ける。
「流れ者、浪人、海賊崩れ……妙なのが集まって来ててさ」
一拍。
「しかも連中、ほとんどが旧水軍に縁のある奴らだ」
部屋の空気が凍るように張り詰める。
コウが小さく息を呑む。
「……再現、する気なんだ」
「ええ」
福童は続けた。
「船だけではありません。
八坂様は、人ごと――かつての戦を再び揃えようとしているのでしょう」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
沈んだ船。
海を焼いた炎。
およそ百年続いたと言われる、大戦。
その戦場を、この場の誰も知らない。
けれど、帰ってきた者たちの顔は覚えていた。
海鳴りを聞いただけで、耳を塞ぐ者。
夜毎、悲鳴を上げて飛び起きる者。
帰ってきても、もう別人のようだった者。
あの戦は、終わったあとも人を壊し続けていた。
部屋が静まり返る。
炭が、かさりと崩れた。
尚之も。
共に海へ立った仲間たちも。
鬼若子に人生を歪められながら――
それでも八坂は、失ったものへ手を伸ばし続けている。
だからこそ――危うい。
このまま進めば、
今度こそ本当に戻れなくなる。
囲炉裏の熾火を見つめたまま、稲吉が低く呟く。
「……勝てなかった連中への、餞か」
皮肉めいた声だった。
だがその奥には、わずかに苦い響きが混じっていた。
戌助は、ゆっくり顔を上げた。
「止めます」
「あの人を、止める」
その言葉に、ムツも小さく頷く。
この場に居る誰もが、同じ思いを抱えていた。
福童は端間と目を合わせ、口を開いた。
「こちらで必要な物資も揃えています」
端間が木箱を軽く叩く。
「火薬、縄、偽装用の衣、通行札。あと船用の道具もな」
「これで、準備は整いました」
福童はそう言ってから、顎先に手を添えた。
「……あとは、潜入場所です」
その時だった。
障子の向こうで、床板が軋む。
「突破口なら任せよ」
聞き慣れた声とともに、障子が開いた。
小柄な影がひょいと部屋へ入ってくる。
笠を押し上げたスズシロだった。
その後ろから、戸につかえそうな大きな影が現れる。
味坂だった。
だが着物は泥だらけで、裾は破れ、鼻にまで土がついている。
「どうしたのそれ!?」
コウが思わず声を上げる。
味坂は嫌そうに顔をしかめた。
「この狸――いや、スズシロ様が合言葉を間違えたせいで、えらい目に遭った」
するとスズシロが、むっとした顔で杖を鳴らす。
「仕方なかろう。“花見”と言われたら“団子”じゃ」
「“月見”だよ!」
味坂が怒鳴った。
空気が、ふっと緩む。
「…おあいにくさま」
コウが笑い、続いて端間が吹き出した。
「そういや、五郎丸は?」
「ああ。学び屋任せてる子分どもに預けた」
味坂は乱暴に笠を外し、そのままどかりと囲炉裏端に座った。
「こっから先は、“冗談抜き”の本物の戦だからな」
その瞬間。
部屋が静まる。
普段、“冗談だ”と笑う男が、今だけは笑っていなかった。
囲炉裏の火が、味坂の横顔を鋭く照らした。
「岩倉の警備は前よりずっと厳しい。表からは入れねぇ。
――が、俺にゃ見知った顔が何人かいる」
その目が細まる。
「まだ潜れる」
静かな声だった。
「小郡にも声を掛けるか?」
端間が戌助を見ながら言った。
だが。
「やめておけ」
味坂の隣で握り飯を頬張っていたスズシロが、ぽつりと口を開く。
「今、大きく動けば八坂に気取られる」
杖の先で、地図の岩倉を軽く叩く。
「鬼若子は“縁”を壊す。
人が増えれば、その分だけ壊れる縁も増える」
部屋が静まった。
「今必要なのは大軍ではない。 八坂へ届くための、細い道じゃ」
稲吉が目だけでスズシロを見た。
「なんだよ細い道って」
「お前に任せる」
即答だった。
「は?」
「“突破口は”準備した。」
スズシロはそれ以上何も言わず、指に残った白飯をぺろりと舐める。
一瞬の沈黙。
「頼りにしてる」
戌助とムツの声が重なった。
二人は顔を見合わせ、少し照れたように笑う。
コウがつられて吹き出した。
「またそれかよ……」
稲吉は前髪をくしゃっと掻き上げ、呆れたように息を吐いた。
福童と端間は視線を交わす。
やがて、福童がゆっくり立ち上がった。
「では我々は、予定通り岩倉城側を探ります」
「八坂様の動きも見とかねぇとな」
端間も腰を上げる。
ムツが立ち上がった。
「気を付けてください」
端間が笑う。
「そっちもな!」
福童は障子へ手をかける。
その横顔は、いつも通り穏やかだった。
「……どうか、ご無事で」
戸が開くと、夜風がふわりと部屋へ流れ込んだ。
外には、満天の星空が広がっていた。
あまりにも綺麗で、こんな夜に戦が始まるとは思えないほどだった。
虫の声が、遠くで鳴いている。
風は穏やかだった。
なのに。
戌助の胸の奥だけが、静かにざわついていた。




