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五幕 春の目ざめ

 吹雪の中を、ムツは駆けていた。

白い雪煙の向こう。黒い影が、森の奥へ消えていく。


「ムツ!」

 背後でコウの声が飛ぶ。だがムツは止まらない。

戌助(いぬすけ)と稲吉(いなよし)も、その後を追っていた。


 雪は深い。だが地面には、はっきりと痕が残っている。

巨大な龍の爪痕――その隣に、人の足跡。


 まるで人と龍の姿が、途中で何度も揺れたような、不自然な跡だった。

ところどころ深く雪を抉り、何かを引きずるように続いている。


 稲吉は何も言わない。

ただ、その痕を睨む目だけが険しかった。


 やがて、里外れの森で黒い影が止まった。


 吹雪が、ふっと弱まる。

風が止み、音が消える。異様な静けさだった。


 枝葉の隙間から、青白い月光が差し込んでいる。

その下で、巨大な黒龍が苦しげに身体を揺らしていた。


 黒い鱗が軋み、煙のように崩れ、その内側から白い肌が覗く。


 人へ戻ろうとしている。


「待て、まだ近づくな!」

 稲吉が叫ぶ。


 だがムツは、龍が完全に人へ戻るより早く駆け出していた。

雪を蹴り、その巨体の傍へ飛び込むと、崩れ落ちる身体をとっさに抱えた。


 冷たい。


 氷のように冷たく、壊れそうに震えていた。


 黒い鱗が剥がれ落ちる。

その奥から現れたのは、乱れた黒髪の男だった。


 生き神が、ぼんやりと目を開ける。

焦点の合わない瞳が、ムツを映した。


「……父上……やっと……迎えに……」


 その瞬間。

生き神の瞳に、はっきりとムツの顔が映る。


 息が止まる。

次の瞬間、強くムツを突き飛ばした。

「触るな!!」


 ムツが雪へ倒れ込む。

戌助がすぐ一歩前へ出た。

小柄な身体を低く構える。


 生き神は荒い呼吸のまま、辺りを見回した。

雪に残る、巨大な爪痕。

砕けた木々。

自分の歩いた跡。


 そこに残っているのが、人ではない何かの痕だと気づいた瞬間。

生き神の顔から血の気が引いた。


「……違う、私は……」

 震える手を見る。


 白い指先へ、黒い鱗がじわりと浮かび上がっていた。


「……ぁ」


 恐怖だった。


 自分が壊れ、人でなくなっていく。

その実感が、一気に生き神を呑み込む。


 黒い気配が吹き荒れた。

龍の咆哮のような低音が森を震わせる。


「兄さん!!」

 ムツが駆け寄る。

一切迷いはなかった。


 雪へ膝をつき、暴れかけた生き神の腕を掴む。

「落ち着いて……!」


 生き神の呼吸が乱れる。

「来るな……!!」


「私は……化け物だ!!」

 ついに声が崩れた。


 吹雪の中、黒い龍気が荒れ狂う。

「父も! 家も! 全部失った!!

なのに、お前まで現れて……!」


 生き神は苦しそうに顔を歪めた。

「奪われたく……なかった」


 ムツの目が揺れた。

生き神は、自身の震える手を押さえ込むように握った。


「だから……お前の龍を封じた」


 その言葉に、空気が凍りつく。


 戌助が目を見開き、コウの息が止まる。

稲吉だけが、わずかに眉を寄せていた。


 ずっと使えなかった龍の力。

その理由が、ようやく繋がった。


 生き神は俯いたまま、絞り出すように呟く。


「龍まで奪われたら……本当に、何も残らない気がした……」


「お前の龍を封じている間だけは……まだ六ツ門(むつもん)の人間でいられる気がした」


 吹雪に消え入りそうな、静かな声だった。

長い年月、胸の底へ沈め続けた本音。


 ムツは少しだけ目を伏せ、

そっと、生き神の手を握った。


 冷たい手だった。

けれど。

ムツは眉を下げて微笑んだ。


「……そのことが、兄さんの支えになってたなら」


「良かった」


 生き神は目を見開いた。


 ――兄さん。


 その呼び方だけが、凍りついていた何かを、静かに溶かしていく。


 予想していた言葉と、あまりにも違った。

怒りも恨みも、そこには無かった。


 吹雪が、ふっと止んだ。


 ムツは、その手を握ったまま続ける。

「俺も、ずっと不安だった。

……どこか自分の居場所がない気がしてた」


 ムツは顔を上げる。

コウ、稲吉、そして最後に、戌助を見た。


「でも、一緒に居てくれる人がいた。

居場所をくれた人がいた」


 戌助の目が静かに細まる。


 ムツは、もう一度生き神へ向き直り、小さく笑った。


「だから」


「兄さんも、もう一人じゃない」


 その瞬間だった。


 ふわり、と。

生き神の掌から、淡い金色が零れ落ちた。


 その光は、握られた手を伝い、ムツの奥深くへ沁み込んでいく。


 凍土の下で、長い冬を耐えていた芽が、春を知るように。


 ムツの黒髪が、ゆるやかに浮き上がる。

瞳の奥で、金が揺れる。


 閉ざされていた龍の気が、今ようやく、息を吹き返していく。


 生き神は、その光景を見つめながら、少しだけ泣いていた。


「……お前のものだ」

 掠れた声だった。

けれどその表情は、不思議なほど穏やかだった。


 光が消える。


 同時に。

生き神の身体から力が抜けた。


 ムツが慌てて抱き留める。

生き神は目を閉じたまま、静かに笑っていた。


 その時、森の奥から里人たちが駆けつけてくる。


「生き神様……!」

「何をした!」


 男衆たちが駆け寄ろうとする。

だが。

ムツは生き神を抱えたまま立ち上がった。


「大丈夫です」


「……通してください」


 その目を見て、誰も強くは言い返せなかった。


 雪の中。

ムツは生き神を抱え、ゆっくりと歩き出す。

戌助が隣へ並ぶ。

コウと稲吉も、黙って続いた。


 まるで、壊れかけた何かを、皆で静かに支えているようだった。

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