四幕 理由
翌朝。
千羽楼には、何事もなかったように朝が来ていた。
吹雪の合間を縫って、女たちは水を汲み、男たちは薪を割る。
子どもたちは雪を蹴り、笑い声さえ上げていた。
誰も、昨夜の黒い龍のことを口にしない。
まるで最初から、“そういうもの”として生きているようだった。
囲炉裏の火を見つめながら、ムツは黙っていた。
黒い龍。
雪の上に崩れ落ちた巨体。
誰も近づこうとしなかった、あの一瞬。
――寂しそうだった。
胸の奥に、その感覚だけが残っている。
久留米では、皆が自分を次期当主として扱った。
けれど、本当にそこへ居ていいのか分からなくなる夜が、ムツにもあった。
「あのままでいいわけない……」
ぽつりと漏れる。
戌助が静かに視線を向けた。
「これがこの里の日常なら、なおさら駄目だ」
ムツは顔を上げる。
その声には、珍しく強い感情が滲んでいた。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。
コウは黙ったまま湯呑みに口をつけている。
稲吉は昨夜飲んだ酒瓶を脇に転がし、壁にもたれたまま気怠そうに目を閉じていた。
「……で、どうすんの」
コウが低く問う。
ムツは返せない。
自分でも分からなかった。
ただ、あの目が頭から離れなかった。
まるでずっと、誰かが迎えに来るのを待っていたような目だった。
放っておきたくなかった。
やがて、ムツは立ち上がる。
「……少し、行ってくる」
コウが眉をひそめる。
「は? 一人で?」
「話すだけ」
「昨日の感じで?」
ムツは答えない。
けれど、その顔を見て、コウはそれ以上止めなかった。
稲吉は薄く目を開け、面倒そうにこちらを見る。
「無駄に怪我すんなよ」
ムツは少しだけ笑った。
「たぶん大丈夫」
「その“たぶん”が信用ならねぇんだよ」
そう言って、また目を閉じる。
ムツは戸口へ向かう。
その途中で、戌助の前で足を止めた。
しばし沈黙。
ムツは少し困ったように笑う。
「……行ってきます」
戌助は何も言わない。
ただ、まっすぐムツを見て――静かに首を縦に振った。
その仕草だけで十分だった。
ムツは小さく息を吐き、雪の中へ出ていく。
斎堂へ続く石段は、昨夜よりさらに深く雪を被っていた。
吹雪は止み、音を吸い込むような静けさの中、大粒の雪だけが絶え間なく降っている。
ムツが鳥居をくぐろうとした時だった。
「お待ちください」
背後から声がかかる。
振り返ると、昨日の巫女が立っていた。
厚い毛皮を羽織り、白くなる息を押さえるように胸元へ手を添えている。
「朝の祈りは、まだ始まっておりません。外の方をお通しすることは――」
「通してください」
ムツは静かに遮った。
巫女が言葉を止める。
ムツは真っ直ぐその目を見返した。
「……六ツ門の名で、お取り次ぎをお願いします」
風が、二人の間を横切る。
巫女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……こちらへ」
斎堂の中は薄暗かった。
長い廊下には灯火が等間隔に置かれている。
香の匂いが静かに漂い、火の音だけがわずかに聞こえていた。
巫女は無言のまま廊下を進む。
その足取りには、どこか躊躇いがあった。
やがて、一番奥の襖の前で立ち止まる。
「生き神様……お客様です」
返事は、少し間を置いてから返ってきた。
「……誰だ」
低く、疲れた声だった。
巫女が視線だけでムツを促す。
ムツは一礼し、静かに襖を開けた。
部屋の中は薄暗い。
火鉢の熱も弱く、冷えた空気が静かに沈んでいた。
その奥。
敷かれた布団の上に、生き神は座っていた。
昨日のような白銀の衣ではない。
髪は整えられないまま、顔色も悪い。
疲れ切った男の姿だった。
けれど、壇上に座していた時より、今のほうがずっと人間らしく見えた。
生き神はゆっくりと顔を上げる。
暗い目が、ムツを捉えた。
眉を寄せる。
「……お前か。……帰れと言ったはずだ」
ムツは部屋へ上がると、静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。
ですが、どうしてもお聞きしたいことがあります」
生き神は答えない。
火鉢の炭が、小さく音を立てた。
ムツはゆっくり顔を上げる。
雪明かりの差す部屋の中で、まっすぐに男を見る。
「昨日のことです」
「私は、あなたに会ったことがありません。
それなのに、どうして……」
生き神は、なお口を閉ざしたまま、視線を落としている。
布団を掴む指先が、わずかに強ばる。
沈黙。
やがて生き神は、消え入りそうな声で呟く。
「……私には、帰る場所があった」
火鉢の残り火が、小さく爆ぜた。
「帰れば、待っている者がいると……そう信じていた。
――だが、戻った時にはもう、私の居場所はなかった」
ゆっくりと顔が上がる。
暗く沈んだ目が、ムツを射抜いた。
「お前が」
「お前が、私の生きる場所を奪った」
ムツは眉を寄せた。
意味は分からない。
だが、その声に滲むものだけは伝わる。
怒りではない。
もっと深く、もっと長い――凍りついた孤独だった。
「……何の話、ですか」
問い返した、その瞬間だった。
男の指先が、びくりと震える。
鋭い目が、ゆっくりと細められた。
「……分からない、だろうな」
掠れた声。
次の瞬間。
生き神の身体から、ぶわり、と黒い気配が噴き出した。
灯火が大きく揺らぎ、床へ影が広がる。
男の背後で、何か巨大なものが蠢いた。
龍だ。
「……っ!」
奥の木戸が、凄まじい音を立てて開いた。
吹雪が一気に室内へなだれ込む。
白い雪煙が舞い、灯火が激しく揺れた。
冷気。
いや、それだけではない。
黒い気配が、ムツの身体へ絡みつく。
その刹那、胸の奥で封じられていた何かが暴れ出す。
「ぁ……っ」
呼吸が止まりかける。
骨の隙間を無理やりこじ開けられるような感覚。
喉の奥から、獣の唸りにも似た音が漏れた。
ムツの身体の内側で、龍が吼えていた。
生き神の周囲で、黒い気配が渦を巻く。
その目は、もはや人のものではなかった。
龍の咆哮のような低音が、部屋全体を震わせる。
まずい。
そう思ったとき。
開いた木戸の向こうから、戌助が飛び込んできた。
雪を払う間もなく、真っ直ぐムツの元へ駆け寄る。
肩を支え、その前へ立った。
小柄な背中。
だが、一歩も退かない。
生き神の視線が、戌助へ向く。
戌助は何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐその目を見返し――静かに、首を横に振る。
たった、それだけだった。
なのに。
荒れ狂っていた気配が、ぴたりと止まる。
灯火が、弱々しく揺れている。
男の目が、戌助を見る。
それから。
戌助に支えられたムツへ。
迎えに来る者。
手を伸ばす者。
隣に立つ者。
その光景を見た瞬間、男の顔がひどく苦しそうに歪んだ。
「……帰れ」
絞り出すような声だった。
男は俯く。
長い髪が顔に落ちた。
「これ以上……私を壊すな」
ムツは息を呑む。
それはまるで、壊れかけた者が最後に漏らした悲鳴のようだった。
戌助は何も言わない。
ただ、ムツの肩を支えたまま静かに立っている。
ムツは去り際、最後に一度だけ振り返った。
生き神は、もうこちらを見ていなかった。
雪の庭を抜ける途中、戌助がふと足を止めた。
「きれいだね」
視線の先では、紅い牡丹が風に散っている。
白い世界に、鮮やかな色だけが浮いていた。
「……夏なのに、牡丹が見られるなんて」
何気ない一言だった。
ムツはその花を見たまま、少しだけ黙る。
きれい。
確かにそうだ。
けれど同時に、どこか歪んでいる気もした。
本来あるはずの季節から外れたもの。
その感覚が、胸の奥でひっかかる。
――あの人も、そうなのではないか。
ふと、そんな思考がよぎった。
ここに在るべきではないもの。
そんな気がした。
(……わからない)
ムツは小さく首を振る。
ただ、視線はまだ牡丹から離れないままだった。
「……あの人のこと、もっと知りたい」
ぽつりと漏れる。
戌助が横目でムツを見る。
少しだけ考え、やがて静かに口を開いた。
「……スズシロ様なら、何かご存知かもしれない」
ムツが顔を上げる。
「スズシロ様?」
「うん」
戌助は、雪の向こうを見ながら続けた。
「あの方は、歪んだ歴史をずっと見てきた人だから。
忘れられたことも、書き換えられたことも……たぶん一番知ってる」
その言葉に、ムツははっと顔を上げた。
自分の知らない何かが、まだこの世界には埋もれている。
それを知れば、あの人のことも分かるのかもしれない。
ムツはゆっくりと頷いた。
「……聞いてみます」
戌助も、小さく頷き返した。
部屋に戻ると、囲炉裏の火はまだ赤く残っていた。
外ではしんしんと重い雪が降り続けている。
だが室内には、どこか気の抜けた空気が流れていた。
コウが机へ向かい、呆れた顔で筆を握っている。
その後ろから、三人が覗き込んでいた。
「もう、なんで私なのよ……」
「ごめん……」
ムツは小さく肩を縮める。
稲吉が鼻で笑った。
「しゃーねぇよ。こいつの字、人に読ませる気ねぇもん」
そう言いながら、ムツが書き損じた紙をひょいと摘む。
「あっ、だめ!!」
ムツの顔が一瞬で赤くなり、取り返そうと慌てて飛びつく。
だが、稲吉はひらりと身体を逸らした。
「ほら――」
紙を広げた瞬間。
稲吉の眉がぴくりと動く。
「……何だこれ、思ったより相当酷い」
戌助もそっと横から覗き込む。
「おお……」
感嘆なのか困惑なのか分からない声だった。
その後の言葉が続かない。
ムツはその場へしゃがみ込み、膝に拳をつけたまま俯いた。
耳まで真っ赤だ。
コウが苛立ったように筆を振る。
「ちょっと! 静かにして」
稲吉だけが肩を揺らして笑っていた。
そんな騒がしさの中で、ようやく文は完成した。
返事は、思っていたより早く届いた。
翌日の深夜。
ばさり、と羽音が響く。
窓辺へ降り立ったカラスを見て、ムツの背筋が伸びた。
足に括られた小さな文を外す。
囲炉裏の灯りへ寄せ、慎重に開いた。
そこに記されていた文字を見た瞬間。
ムツの呼吸が止まった。
――千羽楼については、一般の民が知ることは許されておらぬ。
――歴史は閉ざされ、語られることもない。
静かな筆跡。
だが、その続きが部屋の空気を一変させた。
――だが、もし龍の力を使う者がいるとすれば。
――それは六ツ門家と無関係ではあるまい。
稲吉が、眉を寄せる。
コウは続きへ視線を走らせた。
――松風には、一人息子がおった。
――四傑が分かたれる戦の直前、見送りに来ておった。
ムツの指先が強張った。
――まだ幼かったが、雪松。お前によく似ておった。
――その者は恐らく、お前の兄じゃ。
しばらく、何も考えられなかった。
兄。父の帰りを待っていた子。
だが、鬼若子の力によって忘れ去られた。
気づけば知らない土地にいて、
帰るはずだった家には、もう自分の居場所がなかった。
そこへ、自分が生まれた。
六ツ門の名も。
跡継ぎも。
父の隣も。
全部、自分が持っていた。
――お前が、私の生きる場所を奪った。
あの言葉が胸の奥で響く。
ムツはぎゅっと文を握りしめた。
囲炉裏の火が、小さく爆ぜる。
誰も言葉を発しなかった。
その時だった。
どご、……どご、……。
雪を踏み潰す音。
巨大な何かが、里を歩いている。
ムツは顔を上げた。
まただ。
けれど今度は、恐ろしいとは思わなかった。
胸に浮かんだのは、別の感情だった。
――あの人は、今、ひとりで苦しんでいる。
ムツは静かに立ち上がる。
「……確かめたい」
まっすぐな目が、障子の向こうの闇を見つめていた。




