三幕 得体のしれないもの
外の者に力は貸せない――。
その言葉を背に、戌助たちは斎堂を後にした。
背後では、なおも里人たちが額を伏せたまま動かない。
雪明かりの差す長い廊下を歩きながら、稲吉が鼻を鳴らした。
「……随分な歓迎だな」
誰もすぐには返さない。
ムツの頭には、あの言葉だけが残っていた。
――また奪うのか。
吹雪の音の向こうで、その声だけが妙に残っている。
「あの人……“奪う”って言ったよね」
ぽつりと漏らし、白い息がほどける。
隣を歩いていた戌助が視線を向けた。
ムツは少し考え込みながら続ける。
「六ツ門家の歴史は、父上から少し聞いたことがあります。
……でも、千羽楼の人たちと争ったとか、そういう話は聞いたことがありません」
戌助は黙って聞いていた。
やがて小さく首を傾げる。
「でも、あの人。ムツのこと、最初から知ってるみたいだった」
「……」
ムツは返せない。
その時、通りの向こうから里の女が近づいてきた。
厚い毛皮を羽織り、灯籠を提げている。
女は四人を見るなり、どこか怯えたように言った。
「……夜になる前に、山を下りたほうがいいですよ」
「夜?」
コウが聞き返す。
だが女は、それ以上何も言わない。
ただ、
「ここは、夜になると良くないですから」
とだけ呟き、去っていった。
吹雪だけが残る。
「……何よそれ」
コウが眉をひそめる。
「だから来たくなかったんだよ。こういう場所」
稲吉は嫌そうに肩をすくめた。
とはいえ、この雪では下山など到底無理だった。
戌助たちは、里外れの空き家を借り、一晩だけ身を休めることになった。
宿を貸した老婆も、戸を閉める前に何度も念を押した。
「夜は、決して外を見るな」
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴る。
濡れた装束を干し、それぞれ休む準備を始めた頃だった。
コウが、部屋の隅を見て吹き出す。
「……何やってんの、あんた」
稲吉が装束にぐるぐる巻きになっていた。
頭まですっぽり包まり、隙間から目だけを出している。
まるで雪の日の野良猫だった。
「うるせぇ」
「その格好のほうが怖いんだけど」
「……夜は良くない、とか言ってただろ」
ぼそっと返す。
ムツが呆れた顔をした。
「え、幽霊怖いの」
「違ぇよ!」
即答したあと、
「……得体の知れないもんが嫌いなだけだ」
と言い直す。
戌助がそっと口を開く。
「見つけたら、教えるね……」
「いらねーよそんな報告!!」
「ださ……」
ムツがぼそっと言う。
「お前あとで覚えてろ」
それきり、囲炉裏の火だけが静かに揺れた。
吹雪の音が遠い。
夜は、深く静かだった。
――その時だった。
どご、……どご、と。
何か巨大なものが雪を踏み崩す音。
家が微かに揺れる。
グルル……。
低く湿った息遣い。
戌助が先に目を開けた。
隣ではムツも起き上がっている。
「あれ……」
その声に、「出たか!?」と稲吉が飛び起きた。
装束を引きずったまま刀を掴む。
コウもゆっくりと身を起こす。
四人はそっと障子の隙間から外を見た。
吹雪の中を、黒い龍が歩いていた。
長い胴が家々の間をうねる。
濡れた黒曜石のような鱗。
雪を踏み潰しながら、低く唸っている。
その姿を見た瞬間、空気が張り詰めた。
龍は何かを探すように里を彷徨い――
やがて、ずしん、と地を震わせ、その巨体が雪の上へ崩れ落ちた。
静寂。
吹雪だけが唸っている。
ほどなくして、里人たちが現れた。
灯籠の光が、雪の中でぼんやり揺れる。
だが誰も、すぐには近づかない。
里人たちは少し離れた場所で足を止め、倒れ伏した龍を静かに見つめていた。
その顔には、驚きも悲鳴もない。
ただ、慣れ切った諦めが浮かんでいた。
やがて、黒い鱗がぼろぼろと崩れ落ちる。
裂けた隙間から、白い腕が覗いた。
人の指と、濡れた黒髪。
龍の骸の中から現れたのは――
斎堂にいた、生き神だった。
その瞬間。
「生き神様!」
巫女が駆け寄る。
迷いなく、その傍へ膝をついた。
意識を失った男の身体は、死人のように冷え切っている。
男衆たちが集まり、慣れた手つきでその身体を抱え上げた。
誰も騒がない。
誰も問わない。
ただ、毎夜繰り返される務めのように。
男たちは、生き神を里の最奥――斎堂へと運んでいく。
それに続こうとした巫女の背を、戌助が呼び止めた。
「あれは、何ですか」
巫女の肩がびくりと揺れる。
振り返った顔から、わずかに表情が消えた。
「……見たのですね」
「ええ」
吹雪の音が強まる。
巫女はしばらく口を閉ざしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「あの方は……知らないのです」
「知らない?」
「ええ。ご自身が、あのお姿になることを」
灯籠の火が揺れる。
「生き神様は、毎朝何も覚えておられません」
雪がしんしんと降っていた。
「だから……告げてはいけないのです」
「なぜ」
戌助が問う。
巫女は一度、口を閉ざした。
その顔は、長い年月のうちに諦めを覚えた者の顔だった。
「私たちには、生き神様が必要だからです」
「この山は厳しい。吹雪も、飢えも、獣もある。
生き神様がおられるから、皆、生きていけるのです」
ムツの眉がぴくりと動く。
巫女は続けた。
「もし、ご自身が異形になっていると知れば……あの方は、この里を離れるかもしれない」
「だから黙ってろって?」
稲吉が低く返す。
「……ええ」
巫女は否定しない。
それが当然だと言うように。
その瞬間、ムツが顔を上げた。
まっすぐな目に怒りが宿る。
「自分たちのためだけに、生き神を生かすんですか……」
巫女が息を呑む。
ムツの声は震えていた。
「あの人だって、……人間だろ」
戌助は目を伏せた。
黒い鱗だけが、雪の上にぼろぼろと残っていた。




