二幕 千羽楼
夏だというのに、山は吹雪いていた。
見渡す限り、白だった。
空も、岩肌も、吐く息さえ白に呑まれていた。
風が唸るたび、雪煙が視界をさらっていく。
戌助、コウ、ムツ、稲吉の四人は、一本の命綱で互いの身体を繋ぎながら、険しい山肌を進んでいた。
足元のすぐ下は、底の見えぬ谷。
踏み外せば終わりだった。
ぎし、と雪を踏み抜く音。
「うわぁあっ!」
ムツの身体が傾く。
雪が崩れ、片足が宙へ消えた。
「っ――!」
稲吉が反射的にその小袖を掴む。
「バカ! お前落ちたら俺も落ちんだからな! 気合い入れろ!」
「しょうがないだろ! 稲吉にやられた傷、まだ痛いんだから!」
その瞬間、突風に煽られ、今度は稲吉の足が滑った。
「うおっ!?」
「危なっ!」
ムツが慌てて帯を掴む。
だが、うまく力が入らない。
「あ…っいたたた…!」
「バカバカ! 離すなよ!」
雪の斜面で二人がぐらぐら揺れる。
少し先を歩いていたコウが、呆れたように振り返った。
「……なにやってんのあいつら」
その隣で、戌助がじっと二人を見つめる。
「お腹、減ってるのかな」
「違うと思う」
その時だった。
「……あ」
戌助が、ふいに足を止める。
吹雪の向こう。
白の世界に、色があった。
最初に見えたのは、鳥居だった。
一本や二本ではない。
山肌を縫うように、無数の朱が連なっている。
吹雪に霞みながら、それだけが鮮烈に浮かび上がっていた。
その奥に――
雪をいただいた瓦屋根が、幾重にも重なっていた。
まるで、山奥に突然ひらいた別世界だった。
風が吹く。
雪の中で、季節外れの牡丹が揺れた。
紅い花弁が白に滲む。
そして、その里を見下ろすように、巨大な龍の石像が立っていた。
久留米村で見たものより、さらに古く、さらに大きい。
永い間そこに立ち続けてきたような威圧感があった。
「――千羽楼だ……」
戌助が、小さくこぼした。
――事の始まりは、福童のひとことだった。
鬼若子の力に対抗できるもの。
その答えとして辿り着いたのが、“龍神の力”だった。
小郡で療養を続ける伊織の傍には、福童と端間が残った。
「伊織様を頼みます」
そう頭を下げた戌助に、福童は静かに頷いていた。
その後、戌助達は久留米村に行き、松風を頼った。
松風は、事情を聞き終えると、しばらく黙り込んでいた。
やがて、古びた木札をムツへ渡す。
“千羽楼”
そう刻まれている。
『久留米村のさらに奥――山の頂だ』
『俗世を捨てた者たちの、もう一つの龍の地』
『お前の中の龍を、本当に目覚めさせたければ……そこへ行け』
――鳥居をくぐった瞬間、不思議と風が和らいだ。
吹雪はなお続いている。
なのに寒さだけが遠のいている。
道の脇には細い水路が流れ、雪の中だというのに凍っていなかった。
薄く湯気さえ立っている。
里の者たちが、遠巻きに四人を見ていた。
その装いは、どこか古の文化を滲ませていた。
厚手の布に、見慣れない幾何学文様。
毛皮を肩に掛け、骨や石の飾りを編み込んだ髪。
まるで、別の時代の人間たちのようだった。
囁き声が、雪の静寂に溶ける。
「外の者だ……」
「赦しがあったのか……?」
視線を浴びながら、四人は通りの奥へ進んだ。
そこに、一際大きな建物があった。
寺にも似ている。
だが、もっと古い。
そこは原始的な祈りの場――斎堂だった。
太い柱には龍が彫られ、幾重にも布と札が吊るされている。
戸口を開けた瞬間、香の匂いが流れ出た。
薄暗い堂内。
十数人の里人たちが、床へ額を擦りつけるようにして祈りを捧げていた。
「生き神様……」
誰かがつぶやいている。
誰も顔を上げない。
その最奥。
一段高くなった壇上に、男がいた。
生き神と呼ばれるその男は、壇上で胡坐をかき、静かに目を閉じていた。
長い黒髪が白銀の衣へ流れ落ちている。
まるで、人としてそこに居るのではなく、
“祀られるもの”として存在しているようだった。
薄暗い堂の中で、その姿だけが白く浮かび上がっていた。
戌助たちが踏み入れた瞬間。
堂内がざわめく。
男が、ゆっくりと目を開けた。
その視線に、空気が張る。
戌助は進み出ると、里人たちにならうように座し、深く礼をした。
ムツたちもそれに続く。
しばし、沈黙。
やがて男が口を開いた。
「……この里に、外の者が来たのは……いつぶりか」
低く、静かな声。
静まり返った堂内に、火の爆ぜる音だけが小さく響いた。
里人たちは誰ひとり顔を上げない。
ただ祈るように額を伏せたまま、息を潜めていた。
戌助は礼を解き、まっすぐ前を見る。
「突然の無礼、お許しください」
名乗り、続ける。
「私たちは、龍神の力について知りたい」
堂の空気が、かすかに揺れた。
“龍神”
その言葉に、周囲の里人たちがざわめく。
生き神は何も言わない。
戌助は続けた。
「鬼若子の力を止めたい」
「そのために来ました」
灯火だけが、ぱち、と揺れた。
やがて、生き神の視線がゆっくりと動く。
戌助でもない。
コウでもない。
稲吉でもない。
その目は、深緑の装束の青年――ムツの上で止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、男の表情がわずかに歪む。
古傷を、不意に抉られたような顔だった。
「……六ツ門の者か」
低い声。
ムツが戸惑ったように目を瞬く。
「え……?」
男は静かに立ち上がった。
長い衣が、壇の上を擦る。
里人たちがさらに深く伏せた。
男は静かに歩み寄る。
足音だけが、堂内に響く。
近づくにつれ、戌助は妙な違和感を覚えた。
この男には、生きている人間の熱が薄い。
雪の中に長く置かれた石のような冷たさがあった。
伏せがちだった目が、ゆっくりとムツを映す。
丸い目元だけ見れば、どこか似ている。
だが、宿る色はまるで違った。
「――帰れ」
澄んだ声だった。
なのに、堂内の空気が一瞬で凍りつく。
ムツが息を呑む。
「……え?」
「山を下りろ」
男は言う。
「二度と、その顔を見せるな」
その声音には、拒絶だけではない何かが滲んでいた。
長い年月、沈殿し続けてきた感情だった。
ムツは戸惑ったまま男を見る。
「私は……何か……」
男は答えない。
ただ、ムツを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……また、奪うのか」
「奪う……?」
掠れるような声。
だが、その意味を問い返すより先に、男は表情を閉ざした。
堂内には、吹雪の音だけが残った。




