一幕 春居
夜気が、診療所の屋根をゆるやかに流れていた。
屋根の上で、稲吉は一人、胡坐をかいて酒を飲んでいる。
昼の熱は引き、湿り気を含んだ夏の風が、草木を静かに揺らしている。
空には薄雲が流れ、滲んだ月明かりが山の輪郭をぼんやりと浮かべていた。
とくり、とくりと酒を傾ける音だけが、静かな夜へ溶けていく。
「……まだ起きてるんですか」
不意に、下から声がした。
見下ろすと、診療所の縁側に福童が立っていた。
稲吉は片眉を上げる。
「しかも、そんなところで」
「ゆっくり飲む暇なかったからな」
そう言って、酒瓶を軽く持ち上げる。
福童は小さく息を吐いた。
「……付き合います」
「お前、飲めんの?」
「ええ、多少は」
やがて福童も屋根へ上がってきた。
思えば、まともに話すのは亡命の夜以来だった。
あの頃の稲吉は、福童を疑っていた。
伊織の側近であり、岩倉の人間でもある。どこまで信用していいか分からなかった。
だが今は違う。
福童が命を懸け、ここまで来たことを知っている。
しばらく、二人で黙って酒を飲んだ。
静かに風が流れ、葉の揺れる音だけがさわさわと鳴っていた。
稲吉が、ふと思い出したように口を開く。
「……そういや、同い年だろ、お前」
「へ?」
福童は間の抜けた声を出し、目を丸くする。
「ああ、そうなんですか……?」
「それ、どっちの意味だよ……」
「――いえ、やめておきます」
「はぁ?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
福童は珍しく、肩を揺らした。
ほんの少しだけ。
屋根の上に、小さな笑いがこぼれた。
だが、その笑みは長く続かなかった。
福童は月を見上げたまま、静かに言う。
「……私は、本来……人を救える側の人間じゃありません」
稲吉は黙って酒を傾ける。
「……あの時の話ですが」
福童が、不意に呟く。
「伊織様たちの前で話した、“死なせてしまった人”のことです」
福童は、髪を静かに耳へ払った。
「読み書きの好きな子でした」
「ですが……女中風情が文字など覚えてどうする、と。
分を越えた真似だと、周囲から疎まれていた」
福童の目が、ゆっくり伏せられる。
「だから、本を渡したんです」
その瞬間だけ。
指先が、わずかに強く握られた。
「……それで、余計に目をつけられた」
福童は、少しだけ盃に口を付け――続けた。
「その子は、帰らぬ人になりました」
福童の声は淡々としていた。
それがかえって、長い時間を感じさせた。
屋根の上へ、静寂が落ちる。
稲吉は酒をあおり、低く息を吐いた。
「だから、人に踏み込むべきじゃない……か」
「……ええ」
稲吉は鼻で笑った。
「でもお前、実際、ずかずか踏み込んでるじゃねぇか」
「……」
福童の盃に勝手に酒を継ぎ足しながら、続ける。
「ほっとけない性分なんだろ」
福童は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、小さく笑う。
「……かもしれません」
しばらく、夏の虫の声だけが、遠くで続いていた。
稲吉は前髪をかきあげながら、ぽつりと呟いた。
「……踏み込まないのが正しいなら、お前はとっくにやめてる」
「少なくとも、伊織はお前に救われてる」
福童は、盃に映る自分を見ていた。
思い返すのは、救えなかった人ばかりだった。
けれど――
気づかぬうちに、救えていた人もいたのかもしれない。
心に沈んでいた澱が、少しずつ和らいでいく。
やがて福童は、そっと視線を上げた。
「……鬼若子の力について、考えがあります」
稲吉の目が、わずかに細まる。
月明かりが、二人の間へ静かに落ちていた。




